ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

戦国期の京都

2015-08-19 19:35:41 | 日記
 祇園祭が行われる頃、新選組ファンの脳裏に浮かぶのは池田屋事件だと思うのですが、普通は祇園囃子を聞いて「ああ夏が来たんだなあ」と思いますよね。平安時代から千年以上も続いているこのお祭り、はじめは疫病を退散させるための御霊会(ごりょうえ)として始まったのですが、やがて町衆のお祭りとなっていきました。内乱で一時中断した時期もありましたけれど、戦国期に復興しているんですね。そこに京の町衆の意気込みを感じることができます。

 戦国時代の契機ともなった応仁の乱によって、京の町は一時「悪党や物取りの跳梁」に悩まされ、地方に所領を持つ公卿たちは都を捨てて地方へ避難していきました。しかし乱の終息とともに都へ戻ってきます。そういう没落貴族を引き込んで都を守ろうという気運が高まってくるんですね。疎開していた貴族が都へ戻ってきて町衆とともに自衛する気運。面白いですね。土倉衆の持つ莫大な富と、公卿衆の豊かな教養を武器にして武家に立ち向かうことになるわけです。

 応仁の乱が終息したといっても、将軍の権威は地に落ち、京の町を守るどころではありません。将軍自らが都から逃れることもありましたし、土一揆があったり、下剋上の高まる気運ありで、世情はなかなか平穏にはなりません。そのまま戦国期へ突入していく中で、お公卿さんも町衆も一致団結する必要があったのかもしれません。

 洛中洛外図屏風(上杉本)の公方様

 山科言継(やましなときつぐ)の「言継卿記(ときつぐきょうき)」にはその頃の様子が描かれています。幕府軍と三好元長らの反幕府軍が衝突し、治安が悪化した時、屋敷周りの細い通路を竹木でバリケードしたり、他の公卿衆から木材を借りて町衆とともに「町の囲(ちょうのかこい)」を作ったとあります。また畳屋へ三好軍が押し入った時、市民連合軍が駆けつけて三好軍を撤退させたともあって、武士の侵入に果敢に抵抗した様子がうかがえます。

 そうした貧乏公家山科言継の日常も町衆の中に溶け込んでいました。初夏には質入れした蚊帳を取り出し、代わりに腰刀や直垂(ひたたれ)を質入れしたり、米屋にも借金を重ねるといった有様は町衆と変わりません。三条室町あたりの町風呂へも出かけていき、病人が出ると家伝の気付薬や塗り薬を遣わして心配しています。また「祇園会(ぎおんえ)」における言継の役割は、町衆に笛を伝授することでした。

 この頃京の町には茶屋家、本阿弥家、角倉(すみのくら)家、狩野家など、いわゆる旦那衆と呼ばれる有力な町衆が多く存在します。それでも信長入京の風聞を耳にすると恐れをなしました。木曽義仲が入京した時のような乱暴狼藉があるのではないかと心配したんですね。ところが豈(あに)はからんや、入京してみれば信長は全く違う人物像だったようです。

 連歌師の里村紹巴(じょうは)が「二本(日本)手に入る今日の悦(よろこ)び」といって扇二本を差し出すと、信長はなんと「舞い遊ぶ千世萬代(ちよよろずよ)の扇にて」と付け句をしてその扇を受け取ります。信長が連歌を理解する武将だとは思っていなかった町衆にとって意外なことでした。京の町は安堵の色を滲ませます。信長は入京と同時に、町衆の心を鷲づかみにしてしまったわけですね。

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江戸の花火

2015-08-05 19:37:19 | 日記
 毎年この時期になると、夜空を彩る花火がきれいですね。中でも隅田川の花火は大掛かりになってきました。江戸時代から続くものなので当然といえば当然かもしれませんけれど、それにしても間髪をいれずに打ち上げるあの花火、すごいですね。私が子供の頃は、花火の上がらない暗闇タイムがかなりありました。少しよそ見をしたり、他のことに夢中になっていると見逃してしまうことも多々あったのです。ですから上がらない時でも、暗闇に目を凝らしていなければならなかったのですが…。

 江戸時代の花火はもっと間があったようです。杉浦日向子(すぎうらひなこ)さん監修の『お江戸でござる』によれば、一晩に上がるのは二十発くらいで、その間隔もかなりゆっくりしたものでした。その間に、男女の仲が結ばれてしまったという歌が残っているくらいです。

    広重が描いた花火

 この時代は「流星」という花火が主流だったのですが、淡いオレンジ色の火花がシュルシュルと放物線を描いて落ちていくだけの地味なものでした。それが円形に開くようになったのは明治7年以降、色とりどりになるのは明治20年以降になってからだとか。それでも江戸の花火は一発一両が相場で、とても高価なものでした。「一両が花火まもなき光かな」という榎本其角(えのもときかく)の句が残っています。

 英泉画   豊春画

 また今の隅田川の花火と違うところは、旧暦5月末の川開きから8月末くらいまで連日(雨天を除く)花火が打ち上げられるということです。一晩二十発でも仕方ないですよね。その費用は船宿が8割、料亭が2割負担していたのですが、それは結局お客さんの料金に含まれていました。それでも江戸っ子たちは、そんなことにお構いなく花火を楽しんでいたようです。橋が落ちるくらいたくさんの人が鈴なりになって眺めていたんですね(実際橋が落ちたこともありました)。

 因みに「玉屋」と「鍵屋」ですが、玉屋はもともと鍵屋の手代でした。腕が良かったので鍵屋の親方が玉屋市兵衛(たまやいちべえ)という名前を与えて独立させたそうです。以来、上流に玉屋、下流に鍵屋が船を出し、隅田川を舞台に二大花火師の競演が行われることとなりました。師弟関係も粋なものだったんですね。

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