ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

早咲きの梅・マチュピチュの朝

2015-12-26 18:17:53 | 日記
 今年は季節の移ろいが例年と違うようです。ようやく色づいたと思った木々もあっという間に葉が落ちて枯れ木となり、一昨日は近くの公園で梅が咲いているのを見つけました。ぽっと一輪、そこだけが暖かく感じられましたけれど、体調の方は何故か狂い気味です。

 早咲きの梅(12月24日撮影)

 さて例年の如く、今年最後のブログは息子が撮ってきたマチュピチュの朝で終わりたいと思います。

 マチュピチュの朝

 前の晩にマチュピチュ村へ到着した旅行者たちは翌朝まだ暗いうちに起き、バスでマチュピチュのゲートへ向かいます。そしてゲートへ到着する頃には日が昇り、行列してゲートを抜けるとマチュピチュの朝が待っています。遺跡群が見えるあたりまで登っていくと、朝日が眩しく輝いているというわけですね。世界中から集まってきた旅人たちは、言葉の壁をこえて声をかけ合います。

 今年一年、つたないブログにおつき合いくださった皆様、本当に有難うございました。来年もよろしくお願い申し上げます。
 そして2016年が皆様にとって最良の年でありますように。

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真田親子の城・上田城

2015-12-16 18:05:10 | 日記
 数年前、信州へ旅行した時に上田城へ立ち寄ったことがあります。暑い最中でしたので城跡すべてを巡ることはできませんでしたが、それほど大きなものではないと察しがつきました。天守閣もないただの平城(ひらじろ)。このような小城で天正13年(1585)と慶長5年(1600)の二度にわたって徳川の大軍を撃退したのですから、時の城主であった真田昌幸(まさゆき)の才覚は並々ならぬものがあったと思われます。

 復元された城門   真田石

 昌幸は幸隆の三男ですが、幸隆は『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に「真田弾正武略の事」で登場しており、その武略を称えられるほどの武将でもありました。昌幸の兄二人が戦死したため昌幸が真田家を継ぎますが、これまた徳川、上杉、北条の大国に囲まれながら戦国の世を生き抜いた兵(つわもの)でした。そのため主家をめまぐるしく替えましたが、それは小国ゆえの宿命でもあったのです。

 その知略の最たるものは第二次上田合戦ですが、関ヶ原へ向かう徳川秀忠の軍を1週間も釘づけにし、秀忠を関ヶ原の戦いに間に合わせなかったことです。秀忠はいいように遊ばれてしまったんですね。以来、家康は昌幸を恐れていたようです。大阪の陣の時、真田の者が大阪城に入ったと聞くと、「それは父親か、息子か」と尋ね、息子の幸村(信繁)だとわかると安堵したといわれます。この時昌幸はすでに九度山で病死していたのですけれど…。

 ところが息子の幸村もただ者ではありませんでした。第二次上田合戦の時昌幸とともに戦った幸村には、間違いなくその血が受け継がれていたんですね。大阪城に入った幸村は真田丸(砦)を築き、徳川軍をさんざんに打ち負かして大損害を与えました。その後和睦し、一時休戦状態でしたが、夏の陣が起こると今度は家康本陣まで攻め入り、大いに家康を脅かしました。そして華々しく散っていった姿が諸大名家の史料に記録され、後世に伝えられることになったわけです。

 真田の知略は池波正太郎さんの『真田太平記』によって益々人口に膾炙されたようですが、子供の頃「少年猿飛佐助」というアニメーション映画があり、夢中になったのを覚えています。今でもその映画の挿入歌を歌うことができるんですよ。最近覚えたものはすぐ忘れてしまうのに。真田十勇士が実在したかどうかの真偽は別にして、子供たちに夢を与える存在であったことは間違いありません。

 真田幸村(信繁)画像   真田井戸

 私が立ち寄った頃の上田城は、復元された本丸櫓門(やぐらもん)に登ることができました。矢狭間(やざま)・鉄砲狭間(てっぽうはざま)なども復元されており、ここから徳川軍を見ていたのかと思うと胸が高鳴りましたね。城内唯一の大井戸であった真田井戸、長径3mにも及ぶ大石(真田石)など、栄光の時代を偲ばせる遺構も残されており、陽気のいい時に行けば楽しめる場所がたくさんあります。来年はもっと面白い仕掛けやイベントがあるかもしれません。何しろ大河ドラマが「真田丸」ですから。

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津久井湖の紅葉

2015-12-04 18:18:08 | 日記
 先月末皇太子様が石老山(せきろうさん)へ登られたというニュースを聞き、我が家もその近くの津久井湖まで紅葉狩りに出掛けたのですが、紅葉にはまだ少し早かったようです(11月28日時点)。今年はこれまで暖かい日が多かったので、これからですね。

    津久井湖畔

 昨年の今頃、石老山の顕鏡寺(けんきょうじ)へ行きました。「白蓮の眠る寺」(マイブログ)にも書きましたけれど、津久井湖周辺は白蓮夫妻の愛した景観なんですね。波瀾の人生を生きた白蓮にとって、心休まる風景だったのでしょう。女性が旅することの難しかった時代、このあたりまで足を延ばすのがせいぜいだったのかもしれません。

    城山の展望園路

 津久井湖に面して城山があり、展望園路からの眺望が楽しめます。津久井城跡はこの山頂にあって、鷹射場(たかうちば)からはスカイツリーも望めるそうですが、冷え込んできたので今回は見送りました。いつか登ってみようと思っています。

 津久井城は戦国時代、小田原北条氏の支城でしたが(城主は内藤氏)、八王子城同様、秀吉の小田原攻めの時落城しました。その後徳川氏の直轄領となり、陣屋が置かれていましたが、それもやがて廃止となり現在に至っています。どんな地域にも歴史があるものですね。詳細は以下のページで。

 津久井湖城山公園(つくいこしろやまこうえん)

 津久井城は鎌倉時代からあったようですが、はっきりとした痕跡が見えるのは戦国時代のようです。如何なるドラマがあったのかは、これからの発掘調査に期待するしかありませんが、八王子城のようなことはなかったと信じたいですね。戦争の時代に生まれなかった私たちは、本当に幸運だったと思います。その時代に生きた人たちのことを思えば、少々つらいことがあっても乗り越えられるかもしれません。

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