ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

本能寺事変の黒幕と目された男

2017-03-26 19:19:38 | 日記
 本能寺の変にはさまざまな黒幕説があって真実はわかりませんけれど、それほど信長という人が恨みを買っていたのは事実なのでしょうね。
 秀吉が光秀を討ち果たしてからは、本能寺の変に関係したと思われる人物の糾弾が始まります。その中に近衛前久(このえさきひさ)というお公家さんがいました。
 『兼見卿記』の中に「近衛相国(前久)、三七殿(信孝)より御成敗あるべきの旨、洛中に相触れるにより…」とあり、信孝が前久を成敗するとの風聞が流れていました。

 三七殿は言わずと知れた神戸信孝(かんべのぶたか・信長の三男)ですが、この噂を聞いて、吉田兼見(よしだかねみ)は前久(さきひさ)から預かっていた物をことごとくその子信伊(のぶただ)に返却しています。関係者であると思われたくなかったのでしょう。この頃にはすでに近衛前久が死んだとの風聞も流れていました。その後秀吉からも前久の預け物について糾明する使者が兼見のもとを訪れており、近衛家では前久の荷物をすべて秀吉に引き渡しています。

 前久は信長とも親交があり、恨んでいたとは思えないのですが、何故そんな疑いをかけられたかといえば、本能寺の変で信長の嫡男信忠(のぶただ)が二条御所へ立て籠もった折、攻めてきた明智の軍勢が隣にあった近衛殿へ上がって攻撃してきたのです。『信長公記』には「御敵、近衛殿御殿へあがり、御構を見下し、弓・鉄砲を以て打入れ、手負・死人余多(あまた)出来…」とあって、その後信忠は自刃しています。

 「洛中洛外図屏風」より近衛殿

 上は「洛中洛外図屏風」に描かれた近衛殿ですが、これは今出川にあった糸桜(枝垂桜)で有名な邸宅で、『信長公記』にある近衛殿は前久が信長から与えられた二条の居宅であろうと思われます。ともかく、疑いをかけられた前久は出奔して醍醐山に逼塞しますが、弁明につとめた結果、信孝には了解を得たようです。しかしまだ讒言する者もいたようで、秀吉へ弁解するために一時家康を頼って浜松へ下向しています。

 家康の取り成しもあってか十ヶ月ほどで前久は帰京しますが、秀吉には別の目論見もあったようです。官位に目覚めた秀吉は前久の猶子となって関白職を得ようと考えたんですね。当時は前久の子信伊(のぶただ)が関白職にあったのですが、それを譲れというわけです。報礼として近衛家に一千石の永代知行を贈るというのですが、前久としては譲りたくなかったに違いありません。しかし戦国の世のならい、拒絶することは不可能でした。

 そもそも近衛というお家柄、五摂家筆頭なのです。摂政・関白になれる家が近衛・九条・一条・二条・鷹司とあって、その五家を五摂家というのですが、筆頭ですからね。天皇の臣下としては第一ということになりますし、足利幕府とも色濃い縁戚関係にありました。前久の叔母が将軍義輝・義昭を生んでいるので、前久と義輝・義昭は従兄弟同士ということになりますし、前久の姉が義輝に嫁いでいますからかなり濃密な関係です。前久と義昭の関係も面白いのですが、それはまたの機会に…。

  その足利義昭ですが、歴史の教科書に足利幕府滅亡とあるとこの世から消えてしまったのかという錯覚に陥りますけれど、信長は追放しただけなんですね。その後義昭は毛利氏を頼り、天正16年に秀吉の斡旋で帰京してからは捨扶持をもらって生きているんです。秀吉の名護屋出陣の際、前備(まえぞなえ)の衆として同行した様子を「昌山(出家した義昭の道号)は前備の衆と御なりありて御立ありし也。金の幌を御指しある…」と近衛信伊(のぶただ)は記し、涙しています。

 歴史は実に面白いですね。

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骨肉闘争の歴史

2017-03-12 19:15:50 | 日記
 もうひと月くらい前になるでしょうか。近隣国のプリンスが空港で顔に毒を塗られ殺されるという、世界を震撼させるような事件がありました。
 生き延びるために王になる。王になるために親兄弟を殺す。王座を守るために子をも犠牲にするという韓流時代劇の世界そのものでしたね。現代にもまだそんな世界があることに驚きます。事件が解明され、家族が安全に暮らせるようになることを祈るばかりですが、思えば日本にも骨肉闘争の歴史がありました。

 
祖父に父を殺され、その祖父に育てられた「イ・サン」(韓流時代劇)

 まずぱっと頭に浮かぶのは有間皇子の歌、「磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び ま幸(さき)くあらば また還(かえり)り見む」です。有能であるがゆえに曽我赤兄(そがのあかえ)に罠を仕掛けられ、殺されてしまう悲劇の皇子。これは皇子が藤白の坂で処刑される前に詠んだ歌です。松の枝を結ぶというのは古代、旅の安全を祈るまじないのようなものなのですが、皇子は殺されることがわかっているのです。でももし無事であったら、またこの松を還り見ようというんですね。( ;∀;)

 古代には他に大津皇子などがいますけれど、もう少し時代を下って戦国時代にいきましょう。まさに骨肉闘争の時代。

 現在大河ドラマで菜々緒さんが演じている瀬名は築山殿と呼ばれるようになり、やがて信長の命で家康に殺される運命にあります。謀反説、悪女説、いろいろありますけれど、築山殿が今川の血を引いていたことと、その子信康(のぶやす)が信長の嫡男信忠(のぶただ)より有能であったため、信長が将来を案じたという説が一番納得できますね。信長自身「うつけ」を演じていたくらいですから、有能な者は早く潰さないと、って感じでしょうか。

 信長は若い頃、自分の弟信行(のぶゆき)も騙し討ちにしています。伊達政宗も弟小次郎を殺していますし、致し方ないこととはいえ、武田信玄は父親を駿河へ追放し、のちには我が子義信を死に追いやっています。それで四男の勝頼が後継者となるわけですけれど、何しろお家第一ですから家臣たちの支持を得られなかったり、将来火種になると思えば排除するしかなかったんでしょうね。徳川の世になってもありました。家光は弟忠長に切腹を命じています。

 幸いといえるかどうか日本には古代、怨霊の祟りという思想があり、それを恐れて罪を免じることもありました。あの桓武天皇でさえ怨霊に悩まされたくらいですから、「薬子の変」の時に嵯峨天皇が平城上皇を許したのは、そんな思いがあったからではないかと考えています。身内を死に追いやると己の良心が傷つく。それは人間として当たり前の感情なんでしょうけれど、それでも不祥事に対しては誰かを罰しなければならない。で、すべては薬子が悪いのだということにしたんですね。

 歴史は勝ち残った者の歴史ですから、築山殿同様、薬子が本当に悪女であったかどうかはわかりません。ある意味、犠牲者であったかもしれないのです。

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