ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

東京湾岸エリア

2014-05-21 19:43:19 | 日記
 今年は母が入院したりで、ゴールデンウイークはどこへも行けませんでした。年々行けなくなりますね。以前は河口湖や日光江戸村まで出掛けていったこともあるのですが、最近は近場で間に合わせることが多くなりました。東京湾岸エリアも楽しめる場所が増えましたし…。

 東京水辺ラインは隅田川から東京湾を巡る水上バスで、私は3年前に両国からお台場までのクルーズを楽しみましたが、他にも葛西臨海公園や岩淵水門を通るコースなど、ウォーターフロントを満喫できるコースがたくさんあります。隅田川にかかる言問橋、吾妻橋、駒形橋、両国橋、新大橋、清州橋、永代橋などの橋梁群を見るだけでも面白いですね。ゆりかもめでも飛んでいれば最高です。

 名にし負(お)はば いざこと問はむ 都鳥(みやこどり) わが思ふ人は ありやなしやと

 言問橋(ことといばし)の名の由来になった在原業平(ありわらのなりひら)の歌を思い出します。当時都であった京から東下りしてきた業平は、隅田川を船で渡る時に見かけたゆりかもめに「お前は都鳥というのかい。もし都鳥という名を持っているなら教えておくれ。私の大切な人は元気でいるだろうか」と問いかけました。あの頃、関東まで下るのは大変なことだったんですね。今のように新幹線で2、3時間という時代ではありませんでしたから、民家に泊ったり野宿をしたりして、ここへ辿り着くまで何日もかかりました。あずまと呼ばれたこのあたりには東夷(あずまえびす)がいると恐れられてもいましたから、業平のような貴族が来るのは稀なことだったんです。業平が東下りをするにはいろいろ理由があったのですが、長くなるのでやめておきましょう。

 清州橋    お台場

 さてその湾岸エリア、今ではすっかり様相が一変し、日本の首都となりました。業平がタイムスリップしてきたら、目を丸くして驚きますね。
 隅田川にはたくさんの橋が架けられましたし、東京湾も埋め立てられて憩いの場が広がり、温泉や公園、テレビ局などにもたくさんの人が集まるようになりました。私が8年前に訪れた船の科学館には、羊蹄丸(青函連絡船)や宗谷(南極観測船)も展示されていましたよ(写真・2006年当時)。

 船の科学館  羊蹄丸と宗谷

 都鳥と命名した人にはきっと先見の明があったのでしょう。当時、ここが京にとって代わる都になるとは誰も思っていなかったでしょうから。
 6年後のオリンピックまで元気でいたいものです。

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富岡製糸場

2014-05-07 19:48:46 | 日記
 富岡製糸場が世界文化遺産に登録の見通しになりました。私も6年前に行ったことがありますが、当時世界遺産になるとは思っていませんでしたので、「ふぅ~ん、そうなんだ」といった程度で通り過ぎてしまいました。しかしそれが日本の近代化への第一歩だったわけですから、もっとしっかり見ておくべきでした。

 ただ製糸業というと、どうしても暗いイメージがつきまといます。『女工哀史』ですね。富岡製糸に女工哀史があったかどうかわかりませんが、富国強兵のために駆り出された女工さんたちの生活は総じてひどかったようです。のちに山本茂実のノンフィクション文学『ああ野麦峠』で有名になりました。
 労働時間は1日14~5時間が当たり前、室内温度や衛生面など劣悪な環境の中で働き続ける過酷な労働条件だったため、結核で亡くなる女工さんたちも多かったようです。宿舎には逃亡を防ぐための鉄格子がつけられ、正月休み以外はほとんど休みがなかったといいますからひどい話ですが、遊郭のあった時代です。まだましな方だったのかもしれません。日本が貧しかった時代の哀しみの歴史でもあります。

 繰糸場内見学   繭倉庫

 その頃から比べると随分いい時代になりました。女性の地位も向上しましたし、誰でも文化的な生活を享受できるようになりました。そして今「女性が輝ける世の中に」という目標が掲げられています。それは「家事もきちんとやってね、子育てもやってね、仕事も介護も頑張って」と、すべて女性にお任せという意味ではないですよね。女性を酷使することではなく、本当の意味で生きた働き手としてくれるような世の中。それに期待したいですね。

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