ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

岩にしみいる蝉の声

2019-07-21 19:18:52 | 日記

 今年はよく降りますね。こんなに梅雨らしい梅雨は久しぶりです。お日様も恋しいのですが、暑くなるのも嫌なので難しいところです。そろそろ蝉の声も聞きたいですね。今年の蝉は元気に鳴いてくれるでしょうか。

 蝉といって思い出すのは、やはり芭蕉の「閑(しづか)さや 岩にしみ入(いる) 蝉の声」です。し~んと静まり返った山中で、蝉の声だけが岩にしみ透るように聞こえてくる静寂の世界。この時鳴いていた蝉は何だったのでしょう。私も立石寺(りゅうしゃくじ)へは行ったことがあるのですが、蝉の種類について考えていなかったので、思い出してもわかりません。一説に、ニイニイゼミだといわれています。

立石寺

 この句が詠まれた立石寺へ、芭蕉は人に勧められて出掛けていったのですが、着いた時は夕暮近くなっていました。麓の坊に宿を借りおいて山上の本堂に登りましたが、岩の上に岩が重なっているような急勾配の山道、松や檜も老木と化し、土や石も苔むした足元の悪い山道です。ようやく辿り着いた十二院は扉を閉じていて物音一つ聞こえない静けさ。崖のふちを巡り、岩を這うようにして仏殿へ参拝した芭蕉は、あたりの風景の素晴らしさと静寂さ、その中に響いてくる蝉の声を感じ取ります。「佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心すみゆくのみおぼゆ」ということで、「閑さや…」の句が生まれてきました。「岩にしみいる」という表現は芭蕉ならではのものですね。

 五街道が整備されたとはいえ、このあたりは宿駅制も道路も完備されていない地方ですから大変だったと思います。それでもちょうど夏の時期だったので、最悪野宿も可能だったのかなとは思いますけれど…。この『奥の細道』の旅では、立石寺の少し手前に尿前(しとまえ)の関というところがあって、国境を守る番人の家に宿を求めたのですが、「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(しと)する枕もと」という句が詠まれるほどひどいところだったようです。その上風雨に妨げられて出立できず、やむなくこの山中に三日も逗留しました。尾花沢では清風(せいふう)という談林(だんりん)系の俳人の家に泊まりました。芭蕉とは旧知の仲だったので、いろいろもてなしてくれたようです。

 基本的には寺の宿坊に泊まることが多く、宿を貸してくれる家があればそこに泊まったようです。鶴岡では長山重行(しげゆき)という武士の家に迎えられて俳諧を催し、酒田では淵庵不玉(えんあんふぎょく)という医師の家を宿としました。時には漁夫の粗末な家に泊まることもあったようですが、野宿はしないで済んだようですね。いずれにせよ、まだまだ旅が困難な時代に、芭蕉は旅を愛し、何度も出掛けていきました。芭蕉、最後の句です。

 旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる

 マイホームページ   おすすめ情報(『栄光のかけら』・『薬子伝』、一般書店からも注文できます)


お江戸のタクシー

2019-07-07 19:17:43 | 日記

 水の都といえばベネチアですが、江戸にもベネチアに匹敵するくらいの水路がありました。「掘割(ほりわり)」と呼ばれる直線的な水路が縦横に走っていて、人や物を運ぶのに船は欠かせないものだったのです。荷物を運ぶための茶船(ちゃぶね)、荷を上げ下ろしするための荷足船(にたりぶね)などが江戸の水路には行き交っていました。少し遠距離のための大型船として高瀬船などもありますし、舟遊びには猪牙舟(ちょきぶね)、屋根船、屋形船などがありました。船を使いこなせてこそ一人前の江戸っ子といわれたんですね。

両国橋大川ばた

 中でも一番人気は猪牙舟(ちょきぶね)。今のタクシーのようなものです。人が一人か二人乗れるくらいの小さな舟ですが、何しろスピードが出ます。船頭はいなせで着流しの似合う粋な若衆で、ベネチアのゴンドラの船頭さんのように美声の持ち主が多く、小唄まじりに舟を操りました。舟遊びをする客は見栄を張ります。ですから船頭もかっこいい方が良かったようですが、ビジュアルだけでなく、船頭としての腕も確かなものでした。猪牙舟はスピードを出すために船体の幅が狭くなっているのでひっくり返りやすいんですね。また高速性だけでなく、回転性にもすぐれていたので、これを操作するのは腕利きの船頭にしか許されませんでした。猪牙の船頭は名人気質が多く、「船頭は諸侯の如く、客は陪臣に等し」ともいわれました。

 人や物を運ぶ仕事は他にも駕籠舁(か)きや馬子(まご)などいろいろありますが、格は船頭が一番上でした。船を操るのはそれほど難しいんですね。川の底に岩が飛び出していたり、流れの急なところでは渦を巻いていたりしますから、川を熟知していなければ務まりません。駕籠舁きや馬子なら数日特訓を受ければ現場に出られますが、船頭には十年以上のキャリアが望まれるため、ほとんどが世襲制でした。ですから手間賃も良かったようです。中でも猪牙舟(ちょきぶね)の料金は高く、柳橋から吉原あたりまでの往復料金が大工の一日の手間賃くらいになったとか。

 猪牙舟はデートにも使われましたし、深川や吉原へ通うのにもよく使われました。柳橋から猪牙舟に乗って吉原へ行く途中に「首尾の松」というのがあって、遊客たちはこの松に「今宵の首尾のよいように」と祈ったといわれます。「首尾の松 たびたび見たび 不首尾也」、「余の舟で 見ればやっぱり 唯の松」などという川柳が残されています。また猪牙舟には布団が積んであって、朝帰りの客が仮眠をしながら帰れるようになっているのですが、布団は一枚だけなので半分に折って中にくるまりました。その様を見た人たちは、「ほら、柏餅が帰る」などといったそうです。

浅草川首尾の松御厩河岸

 猪牙舟の名の由来には諸説あります。文字通り猪の牙に似ているというもの。長吉という人が考えて作り、その名をとって「長吉舟」と呼ばれていたのが転訛したというもの。小さい舟なので水の上にちょんと乗っているように見えるので「ちょんき舟」が転訛したというものなどいろいろです。いずれにしても猪牙、猪牙といって愛用され、江戸の水路を駈け巡りました。

 マイホームページ   おすすめ情報(『栄光のかけら』・『薬子伝』、一般書店からも注文できます)