ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

江戸の大火と火消し

2019-11-24 19:12:00 | 日記

 前回は首里城が焼けてしまい、残念なことだという話をしました。近代化した現代でも、消火できずに大切なものを失うことはよくあります。まして今のような消防設備がなかった江戸時代、一旦火が出ると大火になることが多く、二百六十余年の間に百を超える大火がありました。市中の半分以上を焼き尽くすようなものでは、明暦三年の振袖火事、天和二年のお七火事、元禄十一年の勅額(ちょくがく)火事、同十六年の水戸様火事、享保二年の小石川馬場火事等、十大大火と称されるものがあります。日本橋は慶長年間に架橋されましたが、幕末までに十回焼け落ち、歌舞伎の中村座や市村座は、浅草へ移転するまでに三十三回も全焼したそうです。

 木造建築の上、煮炊き、照明、暖房のすべてに火を使っていましたから、空気が乾燥した冬場はことに気をつけなければなりませんでした。風の強い日など銭湯の営業も停止になりましたし、町中での歩き煙草も厳禁、夜間に火を使う営業も禁止でした。夜鳴き蕎麦などは火鉢で保温しているお湯を使っていて、火を焚いているわけではなかったんですね。幕府の方でも火除け地を設けたり、自身番に火の見櫓(やぐら)を設置したりして防火対策に取り組みました。建物の耐火化も奨励され、商家などでは土蔵や穴蔵が造られましたし、武家では屋根の瓦葺建築が推進されました。

 八代将軍吉宗の時に町火消しなどの消防組織が整備され、防火用水も町のあちこちに置かれるようになりました。小さな桶で水をバケツリレーして火を消し止めることもありましたし、消し止められないまでも、町火消しが到着する前の初期消火の役割を担いました。火消しが到着すると建物の屋根に上り、纏(まとい)を立てます。纏の形は組によって異なりました。組織は四と七を除く一から十番までの大組の下にいろは四十八組を組み込んでいますが、語呂や縁起の悪い「ひ、へ、ら、ん」は除き、替わりに「百、千、万、本」を入れて四十八組にしています。例えば五番組には「く、や、ま、け、ふ、こ、え、し、ゑ」の組があって、麹町、四谷、赤坂、青山、広尾の地域を受持ちました。

 五番組こ組の町火消しと纏

 火消しの中でも花形といえば何といっても纏(まとい)持ち。若くて背が高くて美男子ですから女性の憧れですけれど、纏は最前線に立てられるので命懸けの仕事です。火消したちはその纏持ちを死なせてはならないと頑張りますし、纏持ちのところで鎮火しないと組の名折れにもなります。当時の消防は水をかけて火を消すのは難しかったので、延焼を防ぎ、火災の拡大をくい止めることに主眼がおかれました。ですから建物を取り壊して消し止める破壊消火です。「龍吐水(りゅうどすい)」という手押しポンプもありましたが、これには火を消し止めるほどの勢いはなく、最前線で働く人に水を浴びせる程度のものでした。

 龍吐水

 町火消しの多くは鳶(とび)や大工が兼業していました。建物の上を身軽に動けること、建物を壊す鳶口を使い慣れていること、建物の構造を熟知していることなどから、そうした職業の者がよかったんですね。仕事をしていても、半鐘が鳴れば、商売道具を投げ捨てて駆けつけました。自分が建てた家でも、火事になれば自分で取り壊すことにもなりかねません。

 「火事と喧嘩は江戸の華」といいますけれど、すべてを失う火事は間違いなく悲劇です。これからの季節、皆様もどうか「火の用心さっしゃりましょうー」。

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首里城の思い出

2019-11-10 19:19:56 | 日記

 15年ほど前に沖縄へ行ったことがあります。その時首里城へも立ち寄ったので、あの朱色を基調とした建造物は今でもはっきり覚えています。今回、正殿等概ね焼失してしまったことは本当に残念でなりません。一日も早く復興されることを願うばかりです。

 首里城は沖縄戦で焼失し、1992年に復元されたといいますから、私たちが行った頃はまだ12年しか経っていませんでした。朱の色も鮮やかだった筈です。正殿までの道のりとして、まずは第一の正門である歓会門(かんかいもん)を抜け、次に瑞泉門(ずいせんもん)、漏刻門(ろうこくもん)、そして広福門(こうふくもん)へ出ます。今は券売所となっていますが、昔はこの門の東側は士族の財産争いを調停する大与座があり、西側は社寺を管理する寺社座があったそうです。ここを抜けると奉神門(ほうしんもん)はすぐ目の前。この門の前だったか、琉球舞踊が行われていましたね。奉神門には3つの出入り口があり、中央の出入り口は国王や冊封使(さっぽうし)、両側は家臣や役人が出入りしたそうです。この門を抜けると、いよいよ首里城正殿が見えてきます。

    首里城正殿

 唐破風(からはふ)の妻壁の両脇に金龍と瑞雲の彫刻が施されている正殿の前には、御庭(うなー)と呼ばれる広場があります。磚(せん)というタイル状のものを敷き詰めた縞模様の敷石は、儀式の際に諸官が立ち並ぶ目印のためのものとか。正殿の前には二本の大龍柱があり、正殿中央の柱にも龍が描かれています。龍は国王の象徴で、この木像建築物には33体の龍が棲んでいるそうです。

 順路としては南殿から入り、正殿、北殿へと抜けます。南殿は日本式の儀式が行われたところで、薩摩藩の役人の接待が行われました。反対に北殿では中国からの冊封使(さっぽうし)を歓待しました。冊封使とは、琉球で新国王が誕生した時、その就任を認めるために中国皇帝が遣わした使節のことです。中国と日本(薩摩藩)の狭間にあって、苦慮した沖縄(琉球)の歴史を垣間見たような気がしました。

正殿二階の御差床

 正殿は2層3階建てになっており、一階を下庫理(しちゃぐい)、二階を大庫理(うふぐい)といいます。いずれも御差床(うさすか)と呼ばれる玉座があり、大庫理の御差床には「中山世土(ちゅうざんせいど)」の扁額(へんがく)が掛けられていました。これは清朝の康熙帝(こうきてい)から尚貞王(しょうていおう)に贈られた書を書き写して扁額にしたもので、「中山は代々、琉球国王の国である」という意味だそうです。これもみんな焼けてしまったんですね。

守礼門

 当時北殿には展示コーナーや売店があってお土産も買えました。帰りは御内原(おうちばら)への通用門として使われていた右掖門(うえきもん)から出ます。そして歓会門の手前の久慶門(きゅうけいもん)から外へ出、帰途につくのですが、守礼門(しゅれいもん)を見ていなかったのでそちらへ寄りました。この門は首里城の坊門(飾りの門)のひとつで、「守禮之邦」と掲げられた扁額の意味は「琉球は礼節を重んずる国である」だそうです。このあたりで民族衣装を着て写真を撮っている人たちがいましたが、復興なって再び訪れることがあれば、私も是非着てみたいと思っています。

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