ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

海恋し…

2016-07-31 18:36:23 | 日記
 ようやく梅雨が明けましたね。これからが夏本番です。立ち葵の花はもう終わってしまいましたけれど、これからは向日葵(ヒマワリ)が太陽に向かい、百日紅(さるすべり)が花をつけ、不如帰(ホトトギス)が鳴き、蝉が鳴き、海の恋しい季節がやってきます。若者にとっての海はバカンス、そしてそれに付随するロマンスへの期待感で胸膨らむ季節の到来というわけですが、別の意味で海を恋う人もいました。

 立ち葵

 海恋し 潮の遠鳴り かぞへては 少女(をとめ)となりし 父母(ちちはは)の家(与謝野晶子)

 鉄幹と恋に落ち、家を捨てた晶子でしたが、年を重ねていくうちに捨てた筈の父母の家が恋しく、近くの海が思い出されるんですね。
 晶子の家は大阪・堺にある老舗の和菓子屋で、近くに高師(たかし)の浜があったようです。その波の音を聞きながら育った晶子が、苦労を承知で家を捨て、鉄幹との愛を貫きました。ですからどんなことがあっても帰れない。帰る家はなかったということなんでしょうね。

 驚くことに、晶子は鉄幹の子を12人も産んでいます。避妊が難しい時代だったとはいえ、この少子化の時代からみると信じられない数ですが、それほど鉄幹に浮気をして欲しくなかったのかもしれません。それでも鉄幹は女をつくりました。相手の女性は山川登美子。晶子と同じ歌人であり、ライバル的存在でもありましたが、晶子は妻の座を守ります。それでもやはりつらい、苦しいと思う時はあったのでしょうね。そんな時、ふと思い出すのが親の家でした。

 ふるさとの 潮の遠音の わが胸に ひびくをおぼゆ 初夏の雲

 12人の子供の母であり、情熱の歌人であり、『源氏物語』の現代語訳を完成させた人であり、教育、評論、多岐にわたって活躍した晶子でしたが、望郷の念と悔恨の念が入り混じった気弱な女の顔が見え隠れする一首です。しかし苦しい思いをすればするほど強くなり、作品が冴えていく。そんな気がします。私ももっとつらい目にあえばいい作品ができるのかなと思ったりしますけれど、もう耐えられないでしょうね。ひどい夏風邪をひいただけで死ぬ思いでしたから…。

 このところ出版本の売上げが伸びず、パソコンもトラブルが多くて落ち込んでいます。かといって懐かしむ家もありませんけれど、海は少し恋しいですね。

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小原宿本陣

2016-07-18 18:35:12 | 日記
 先日涼しい日を選んで甲州街道沿いにある小原宿本陣へ行ってきました。山の中とはいかないまでも標高の高いところだったので過ごしやすい感じでした。ここは日本橋から九番目、内藤新宿から八番目の宿場になります。本陣の清水家には信州の高遠藩、高島藩、飯田藩のお大名と甲府勤番のお役人たちが宿泊しました。

 本陣入り口   大名駕籠

 神奈川県には東海道と甲州街道合せて26軒の本陣が存在しましたが、現在残っているのはこの小原宿本陣だけです。正面の玄関を上がったところには大名駕籠が置かれており、試乗することもできます(?)し、屋内は広く、大名が宿泊した上段の間や大名だけが使った厠(かわや)、お勝手などの様子が当時のまま残されています。他にも機織り機や長持などのお道具、千歯(せんば)、石臼など、当時を偲ぶことのできるものがたくさんあります。

 上段の間   厠(かわや)

 この宿場を利用した高遠藩は絵島・生島事件で有名な絵島が流されたところとしても知られ、伊那谷にある高遠城跡は小彼岸桜でお花見の名所になっているそうです。幕末、官軍の東下に際しては藩主内藤頼直(よりなお)の態度がなかなか決まらなかったのを、家臣の必死の説得で恭順したのだとか。

 高島藩の諏訪氏は信州の名族で、武田信玄の側室を出しましたが、信玄によって滅ぼされます。江戸時代になって復活し、家康の六男松平忠輝(流罪)をなんと58年もの間預かりました。そののちも吉良上野介の息子義周(よしちか)を預かったということですから、う~ん、大変でしたね。

 甲州街道は東海道や中山道に比べ、ちょっと寂れた街道ですけれど、幕末には甲陽鎮撫隊に名を変えた新選組と新政府軍が衝突したところでもあります。そう、甲州勝沼の戦いですね。ご存じのとおり新選組は敗走し、下総流山に陣を敷くことになるのですが、もしかしたら近藤勇や土方歳三が小原宿本陣に泊ったかもしれません。
 この宿場にはまだ古民家も多く残されており、11月3日には本陣祭が行われます。大名行列も一度見てみたいものですね。

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忍びたちの能力

2016-07-03 19:00:21 | 日記
 前回の「忍びの里」に続き、忍びたちがどのような能力を持ち、生活していたかを考えてみたいと思います。

 一般的な戦闘能力としては骨指術と呼ばれる体術がありました。今でいう柔道・合気道・空手術など格闘技の原点となるものです。これは武器を使わずに相手を倒す時に使われましたが、やむを得ない時は刀や槍、鎖鎌などを使いました。のちの剣道とは少し違うものですが、これが基になって剣術流派になったものもあるようです。修練は勿論厳しいものでした。

 忍者に独特の道具といえば手裏剣や吹き矢ですけれど、水上を渡る水蜘蛛、水中にもぐって息をするための鵜(竹筒)、追跡者を足止めするためのまき菱等々、面白いものがたくさんあります。これらを使いこなすことはもとより、跳躍力、水練などの訓練も行われました。忍び歩きの術といってすり足・しめ足・飛び足・大足・小足・きざみ足・わり足・かた足・ゆき足・常の足という10種類の歩き方があったと『正忍記』に記されています。ふつうの人の何倍もの速さ150キロ先へ行くこともできたとか。

 手裏剣   しころ・つぼきり等

 このように敵を倒すための修練はいうまでもありませんが、敵の陣営に紛れ込み、デマを流して敵の戦力を奪ったり、敵方の動きを味方に知らせることも重要な任務でした。そのための変装術にも長け、役者や虚無僧・僧侶・商人など諸国へ自由に出入りできる職業に変装しました。むろん諸国の言葉にも精通していましたし、不断は山の民として、或いは商人、芸人として普通の生活をすることも多かったようです。

    生活用具

 彼等は他にもいろいろな知識や技術を身につけていました。例えば食べられる野草と毒のある野草を見分けられたり、ちょっとした胃腸薬や血止め、傷薬などは自分で作りました。釣り竿がなくても魚を捕ることができましたし、水縄を使って堀の深さを測ることができました。ちょっとした測量技術ですね。天文・気象・地文にも通じており、天気を予測したり、敵地の地形を察知して図面に表すこともできました。

 また、あらゆるものを利用して火をおこすこともできましたし、道に迷った時、切り株を見て方角を知ることもできました。忍者にとって自然界にあるものすべてを利用することが生き延びるための手段だったんですね。知識と感覚を研ぎ澄まして植物、動物、天体を観察していたんです。

 他にもまだまだありますけれど、山鹿素行が忍び選びについて語った言葉があります。「見たところは馬鹿のようで、内実はなかなか弁才、知恵のある者でなければいけない。また力量があって、早業の利く、身体の達者な者でなければいけない。勇気のある、心魂の大きい生まれつきの者で、かつ土地の案内をよく知っていなければならない。国々の風俗や言葉もよく知っていなければならない。…」(「江戸の白浪」三田村鳶魚著)

 たいした能力が必要とされたんですね。しかしどんなに能力のある優秀な者であっても、陰に生き、影として死んでいくのが宿命でした。服部半蔵のように出世した忍者は例外といってよいでしょう。

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