ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

江戸時代の結婚

2019-02-17 19:27:47 | 日記
 寒さも終わりが見えてきましたね。勿論寒い日はまだあると思いますが、春は確実に近づいているようです。心なしか日差しも明るくなってきましたし、希望の春に胸躍らせている若い方もいるのでは。私にとっては花粉シーズン到来で憂鬱な季節でもありますが、何といっても結婚式シーズンですし、新しい人生を踏み出す方も多くおられることでしょう。さてそこで、今回は江戸時代の結婚について考えてみることにします。

 今も昔も、結婚は人生の重大事です。いくら自由恋愛の時代といっても、親に反対される場合もあるでしょう。さまざまな障害を乗り越えて結婚したという話も耳にします。しかし今の時代と江戸時代とでは大分差がありました。

 武家の結婚(婚礼道しるべ)

 まず武士ですが、大名から足軽まで結婚は許可制だったんですね。誰に許可を得るのかといえば、大名の場合は将軍です。「武家諸法度」には「私に婚姻を結ぶべからず」という規定があって、出入り旗本(ふだん親しくしている旗本)を通じて老中へ願い出なければなりません。すると日にちを決めて登城するようにという老中連名の切紙(書状)が届きます。登城すると老中から口頭で「願の通り縁組仰せつけらる」と申し渡され、許可された大名は御礼勤めとして老中の屋敷を廻礼しました。

 旗本・御家人のような下級武士の場合は各組の組頭に、組頭の場合はその上の支配役に結婚願を出しました。さらにその上となると、老中・若年寄に許可を願い出たんですね。諸藩の家来も同様に、中士以上は藩主へ、下士は家老に、それ以下は目付へ願書を出しました。許可されたらされたで、その後の結納・婚礼の日取りまでお伺いをたて、進物を届けるなど結構厄介なものでした。

 勿論、許可されない場合もありました。組頭が自分の組下の者と縁組してはいけませんでしたし、同じ組員どうしの縁組も許されませんでした。同列の他の組員ならよかったんですね。また旗本は旗本どうし、御家人は御家人どうしで結婚しました。どんな場合も身分違いは許されず、「釣り合わぬは不縁のもと」と、まわりの者たちがぶち壊しにかかりました。家格相応でないと結婚できない仕組みだったんです。

 では庶民の結婚はどうだったのでしょう。大店の場合、武士に近いところもありましたが、大抵は自由でした。大家を通じて町役人に届けでれば、法制上は夫婦の出来上がりです。男子の場合、現代に似て晩婚化傾向にあり、早くても23歳、遅いと40歳前後までが適齢期でした。女子の場合は逆に適齢期が早く、15歳くらいから始まります。19、20歳になると年増と呼ばれ、24、5歳になるともう大年増です。本人も周囲もかなりあせる事態になるんですね。花の盛りは短い時代でした。

 商家の婚礼(絵本江戸紫)

 現代では「不倫は文化だ」という人もありますが、お江戸の昔、不義密通は重罪でした。姦通罪として「御定書百箇条」に明記されています。それによると「密通致し候妻、死罪」、「密通の男、死罪」となっており、不義を働いた者はたとえ本夫に殺されても文句は言えなかったんですね。姦通した現場を押さえたら、重ねておいて四つにしても構いませんし、逃げたら追いかけて討ち果たしても、夫は罪に問われませんでした。妻敵討(めがたきうち)が認められていたわけです。恋をするのも命懸けの時代でした。くわばら、くわばら。


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江戸時代の旅籠

2019-02-03 19:32:54 | 日記
 梅がちらほら咲き始めましたね。気の早い方は、そろそろ旅行シーズンのことなど考えておられるのでは。


 旅行ブームは今に始まったことではありませんが、旅をする環境は随分変りました。交通機関も発達しましたし、何といっても宿泊施設が充実しましたね。リゾートホテルなど、プライベートビーチやアクティビティがあって、数日はホテルだけでも楽しめます。本当にすごいことですよね。江戸時代にも旅籠(はたご)屋があって、旅人が重宝したことは間違いありませんが、セキュリティの面でも不安がありましたし、プライバシーや利便性の面でも行き届いていたとはいえません。それでも宝永二年(1705年)には362万人の人が「おかげまいり」をしたというから驚きです。当時の日本の人口は約3000万人ですから、一割強の人が社寺詣でをしたことになります。

 さてその宿泊施設としての旅籠ですけれど、「旅籠」という言葉は、古くは『今昔物語』にも散見されます。「然(さ)る程に夜になりぬれば、旅籠開きて物など食ひて寄り臥したるに…」とある「旅籠」は旅行用に携帯した「籠」で、食糧や身のまわり品を入れて持ち歩くものだったと考えられます。旅行者に宿を提供し、料理を出す旅籠屋が本格的に機能するようになるのは江戸時代。街道が整備され、公的宿泊機関である本陣・脇本陣が置かれるようになってからのことでしょう。


 「宿場の発達」にも書きましたが、旅籠屋の店頭には客引きがいます。旅人の袖を引き、自分の宿へ連れていこうとする「留女(とめおんな)」。弥次さん喜多さんも留女のすさまじさには辟易したようですが、宿場で一般庶民が宿泊できるのは旅籠屋だけでした。旅籠屋には二種類あって、ひとつは飯盛女(めしもりおんな)を置かないで百姓を兼ねている平旅籠、もうひとつは飯盛女を抱えている飯盛旅籠。どちらかというと飯盛旅籠の方が繁盛したようですが、旅人は何によって宿を選んだのでしょう。

 御油(ごゆ)の留女


 『東海道中膝栗毛』には、弥次さん喜多さんが客引きに質問している場面があります。それによるとまず「宿が綺麗かどうか」を尋ね、客引きは「建て直した新宅」と答えています。次に座敷が幾間あるか、風呂はいくつあるか、女は何人いるかなどを尋ね、さらに女の器量まで尋ねています。客引きは勿論、「女はとても美しい」と答えていますが、宿を選ぶ決め手となるのはこんなところでしょうか。

 赤坂

 宿場には大・中・小とさまざまな旅籠屋が林立しています。だいたい60坪以上のものが大旅籠、30~40坪くらいが中旅籠、12から15坪くらいのものが小規模の旅籠ということになります。天保12年(1841年)の保土ヶ谷宿の場合、7軒が大旅籠、26軒が中旅籠、36軒が小規模旅籠で、合わせて69軒の旅籠屋があったようです。

 宿賃はというと、江戸初期には数十文だったものが次第に値上がりし、幕末期頃には180~200文になっています。それでも天保期の職人一日の標準賃金が300文程度だったといいますから、意外に安価だったといえましょう。



 参考・宇佐美ミサ子著『宿場の日本史』(吉川弘文館)


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