ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

江戸は涼みもむつかしき

2019-08-18 18:39:11 | 日記

 台風一過の酷暑が続いています。昔は夕方頃になると打ち水がしてあったり、縁台に腰掛けて将棋をしているおじさんたちがいたり、線香花火をしている子供たちがいたりと、夏の夕涼みの風景があったものですが、最近はあまり見掛けなくなりました。夕涼みができないくらい暑くなったということでしょうか。

 夕涼みの光景を思い出す時、同時に浮かんでくるのは一茶の句、「いざいなん 江戸は涼みも むつかしき」です。柏原の農村で生まれ育った一茶が、江戸の生活や気風になじめないまま五十歳を迎え、郷里へ帰る決意をした時の句。「いざいなん」というのは「さあ、故郷へ帰ろう」くらいの意、「江戸は涼みもむつかしき」というのは、田舎者としてのひけめがつきまとっていた一茶の正直な思いです。縁台に腰掛けて夕涼みをするにしても、どこか遠慮気がねをしなければならない肩身の狭さ。こんなところはさっさと引き揚げて故郷へ帰ろうというわけです。

 もっとも涼みがむつかしいという理由は、それだけではなかったようです。何しろ江戸の庶民が暮らすところは密集地ですから、風が通りにくいということもあったでしょう。「裏店(うらだな)に住居(すまひ)して」と題した句に、「涼風の 曲りくねって 来たりけり」というのがあります。裏長屋は家並も不揃いだったんでしょうね。涼風も曲りくねって、やっとのことで奥の我が家まで辿り着くという、一茶の自嘲が込められた句です。ちょっとした可笑(おか)しみもありますけれど、あたりの陋巷をも思い描かせてしまうところはさすがですね。

 一茶は幼くして母を亡くし、八歳の時から継母に育てられます。そして弟仙六が生まれると子守をさせられ、随分つらい思いをしたようです。継母との対立もあって十五歳で江戸へ出ますが、手に職を持たない一茶は渡り奉公などをし、流民同然の生活をしていたようです。「巣なし鳥のかなしさは、ただちに塒(ねぐら)に迷ひ、そこの軒下に露をしのぎ、かしこの家陰(やかげ)に霜をふせぎ…、くるしき月日おくるうちに、ふと諧(かい)々たる夷(ひな)ぶりの俳諧を囀(さへづ)りおぼゆ」と『文政句帖』に記しています。一応葛飾派の俳匠に師事して俳諧を学び、師匠亡きあとその足跡を慕って西国行脚の途についたのですが、七年にわたる行脚修行でも一人前の俳諧師となることはできませんでした。江戸に戻って十年、一家を成す目安も立たないまま父が亡くなり、弟仙六との間に遺産分配の取極めを交わすことができた一茶は、「いざいなん」の句を残して柏原へ立ち帰ります。

 それで「涼み」の方はどうなったかというと、一家の主となった一茶は手足を伸ばして充分に涼めるようになりました。ところが、「大の字に 寝て涼しさよ 淋しさよ」となるわけです。誰に遠慮もいらず、大の字になって寝てはみたものの、その手足から這い上がってくるわびしさ、たまらない寂寥感。人がいるのは煩わしいけれど、一人は一人でこれまた淋しい。人間て難しいものですね。いやー、一茶、面白いです。どこからか本音が聞こえてきます。

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武士の台所事情

2019-08-04 19:17:24 | 日記

 とうとう梅雨が明けてしまいました。猛暑です。この暑さ、年とともに熱中症と隣り合わせ。夕暮れが待ち遠しい毎日です。しかし若い方たちにとっては海や山のレジャーを楽しむ季節。おおいに楽しんでいただきたいと思います。我が家の息子夫婦は先週カンボジアへ行ってきました。アンコールワットの遺跡観光、暑かったのではないかと思ったのですが、「日本の方が暑いよ」だそうです。

 ともあれ、いい時代になりました。貧富の差はありますけれど、身分制度というものがない時代になりましたし、自由に海外へも行ける時代になりましたから。戦争もありませんしね。江戸時代にはいわゆる士農工商という身分制度があって、いろいろ大変なことも多かったと思います。特権階級にある武士も、なかなかつらいものだったようです。その辺は西鶴の『武道伝来記』や『武家義理物語』に詳しいので省略しますが、ここでは武士の台所事情について考えてみたいと思います。

 武士の俸禄は大方蔵米で支給されたのですが、四公六民(時代により差がある)でしたから米の取れ高の四割が武家の取り分となりました。例えば三百石取りの場合、実収は百二十石となるわけです。しかし米を全部持ち込まれても困るので、食い扶持分を除き、お金に換算してもらいます。時代により異なりますが、一石一両で換算すれば百二十石の場合百二十両となるのですが、食費、衣料費、家来への手当、諸雑費等支出が多く、大抵は赤字でした。何故そんなに費用がかさむのかというと、武家の本分は軍役にあります。戦場で戦うことですね。ですから平和な時代であっても所定の兵員を抱えていなければなりませんでした。三百石取りの武士が抱えるべき兵員は七人だったそうです。生活に不用な人員を抱え、給金を支払わなければならないのですから、赤字にもなりますよね。

 まして軍役規定の対象にもならない下級武士の生活はもっと大変でした。青木直己(なおみ)先生の著書(NHKテキスト「知るを楽しむ」)に出てくる酒井伴四郎(ばんしろう)という三十石取りの武士の炊飯事情をご紹介しましょう。彼は二十八歳の和歌山藩士で、万延元年(1860年)江戸勤番を命ぜられて、江戸での単身赴任生活を送ることになりました。勤番武士の食生活の基本は自炊であり、自炊の基本はご飯を炊くこと。今のような炊飯器などありませんから、ご飯の炊き加減は難しかったと思います。五目寿司なども作っていますけれど、なんと具は人参という質素なもの。人参は安かったので、煮ておかずにもしています。

 伴四郎は人参ばかり食べていたわけではありません。豆腐やいわしなども多く買い求めています。豆腐は湯豆腐や田楽にして食べましたが、揚げ豆腐もよく買っていたようです。また月のうち何日かは贅沢をし、鰹が手に入った時は勤番仲間と酒宴をしたりしています。違う藩邸の友人を訪ね、ご馳走を振舞われた時は、酒の肴にあじの干物、からすみ、いさきと芋にぜんまいの甘煮、どじょう鍋といった豪華なものでした。どじょう鍋は伴四郎の好物で、外食でも年に九回、自身でも年に三回ほど料理しています。また風邪を理由に薬食いと称し、豚肉も食べていたようです。

 因みに上方文化圏ではご飯は昼に炊き、煮物や煮魚、味噌汁などと一緒に食べるのが一般的でしたが、江戸文化圏では朝にご飯を炊き、味噌汁と一緒に食べ、昼は冷や飯に野菜や魚をつけ、夕飯は茶漬や香の物というのが一般的でした。ご飯を炊くのは大変でしたので、一日一度が普通でしたが、大店(おおだな)などでは二度三度炊くところもあったようです。伴四郎は上方文化圏の人ですから、昼にご飯を炊き、朝や夕飯は粥や茶漬で済ませています。武士もなかなか庶民的な苦労をしていたんですね。

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