ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

大山詣(もうで)

2014-06-18 19:39:51 | 日記
 今年は随分雨が降りましたので旱魃(かんばつ)の恐れはないと思いますけれど、雨が降らないとひたすら天に祈るしかありません。それでも現代なら輸入という手があるので、お米が食べられないということはないですよね。水不足はちょっと困るかな。

 今でも困る水不足。昔は井戸が涸れたり、お米ができなかったりするとすぐに飢餓状態に陥ってしまいますから、雨乞いをして地を潤すよう祈りました。
 その雨乞いの山として有名だったのが丹沢山系にある大山です。別名「あめふり山」とも呼ばれた大山は、江戸時代富士山と同じように講ができ、「富士に登らば大山に登るべし」とも言われて参詣者も多くありました。隆盛期は年間数十万人が訪れたといわれています。そうした民衆によるさまざまな文化も生まれました。木太刀(きだち)を納める納太刀もそのひとつですが、江戸の庶民は参詣前に両国東詰(ひがしづめ)の垢離(こり)場で水垢離(みずごり)をとり、身を清めたのだそうです。これは江戸の名物にもなったとか。

 両国の水垢離  雨の大山

 参詣の時期は6月27日から7月17日まで、山岳信仰なので女性の参拝は許されませんでした。昔は女性を穢れとし、女人禁制の山も多かったんですね。誰しも女性から生まれてくるのに、失礼な話です。でも登ってみてわかったのは、女性にはちょっときつい山かもしれないということです。ケーブルカー乗り場までの石段が結構大変でしたね。金毘羅さんの石段を連想してしまうほどでしたから(私だけかもしれませんが)。結局中腹にある阿夫利(あふり)神社下社(標高700m)へ辿り着くのがやっとで、山頂まで行くのは諦めました(登山とは言えません)。高尾山の標高が599mでスカイツリーより低いのに比べ、大山の標高は1251mですからやはり幾分高いですよね。何よりも高尾山は麓からすぐにケーブルカーやリフトに乗れるので女性には優しい山です。それが物足りないと思う方は是非大山へ。

 下社前石段  拝殿脇防火用水桶?

 とにもかくにも山の空気は澄んでいました。下社の境内からは江の島も望むことができましたし、心が洗われるような気に満ちていましたね。江戸の人たちは3泊ないし4泊で参詣したようですが、帰路は江の島まで足を延ばし、遊興を楽しむ人も多かったそうです。結局、男性にとって都合のよいレクだったのかもしれません。

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ムラサキシキブ(人との出会い)

2014-06-04 19:46:48 | 日記
 歩いていたら、ちょっと珍しい名前の木を見つけました。平安時代の女流作家、紫式部と同じ名前の木です。今はまだ葉をつけただけですが、もうすぐ淡紫色の花が咲き、秋には紫色の小さな実をつけるのでこの名があるとか。もともとはムラサキシキミと言っていたそうですが、いつ頃からこの名前になったのでしょうか。

    

 それはさておき、
 めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半(よわ)の月かな
 百人一首にとられた紫式部の歌です。物語に歌に名を残す紫式部という人はどんな女性だったのでしょう。

 彼女が生きたのは千年ほど前の平安時代、藤原氏全盛の時代でした。初めは藤式部(とうしきぶ)と呼ばれていたといわれる彼女は、傍系ながらも藤原氏に属する中流階級の家に生まれました。父為時が越前守などを歴任したことから受領(ずりょう)階級ともいわれますが、道長の妻とは遠縁にあったようで、ただの受領層ではなかったようです。祖父には堤中納言と呼ばれた藤原兼輔(かねすけ)がおり、文辞をもって聞こえた家柄でもありました。

 彼女は父の任国である越前で1年半ほどを過ごし、藤原宣孝(のぶたか)と結婚して娘賢子(かたこ)を産んでいます。しかし幸福な暮らしは長く続かず、夫宣孝とはわずか2年あまりで死別してしまいました。その後道長の勧めで中宮彰子に仕え、清少納言と並び称される女房となるのですが、『源氏物語』がいつ頃から書かれ始めたかについては詳らかではありません。ただ彰子のサロンで読まれ始め、広まっていったのは確かなようです。

 『紫式部日記』によれば、彼女はアバタ面で美人とはいえない容貌だったようですが、おそらく利発そうで感じのよい顔立ちだったのでしょう。道長がお忍びで彼女の部屋を訪れたことがありました。ただ日記に記されているのは最初の訪れのみで、その時は婉曲に拒絶しています。ですからその後道長の求めに応じたかどうか定かではありませんが、互いに憎からず思ってはいたようで、彼女の物語は一気に花を咲かせることになるのです。

 歴史学者の角田文衛(つのだぶんえい)氏はこう言っています。「皇室と摂関家とを軸とする平安時代の宮廷文化は、道長の時代に至って爛熟の域に達したのであったが、このようなかがやかしい時代に生を享(う)け、また道長のような人物に見出されたことが、紫式部に思う存分に不世出の天才を発揮させたのである」と。

 もし平賀源内にスポンサーがついていたら、電気の実用化も夢ではなかったかもしれません。また、劉備と水魚の交わりがなければ、諸葛孔明も鄙に埋もれていたかもしれません。人との出会い、大切なんですね。

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