ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

深川芸者

2020-06-07 19:09:45 | 日記

 若い頃、歓送迎会に芸者さんが来ると聞いて喜び勇んで行ったことがあります。日本髪を結い、着物の裾を引きずりながら踊るあの美しい姿を勝手に思い浮かべていたんですね。さんざん待たされて、やっと到着したのはかなり年配の芸者さんでした。日本髪でもなく、地味な着物を着た地味な作りのおばさんが、三味線だけ弾いてくれたのを覚えています。

 さて江戸の芸者さんの始まりは女歌舞伎であったといわれます。最初の頃はどうしても遊女の要素が強く、遊女が女歌舞伎を真似て踊りを取り入れたようですが、やがて遊芸の心得のある芸者と、その心得のない遊女とに分化していきます。つまり芸と売笑を兼ねる踊子と、売笑婦専門の女郎とに分かれるわけです。それでも過渡期には双方区別のつかないこともあったようで、女郎が芸者に「三味線箱へ枕を入れてあるけ」と罵ったり、芸者が女郎に「三味線は弾かせまい」といって揉めることも多々あったとか。分化したとはいえ、芸は売っても色は売らないという心意気のある芸者さんは少なかったんでしょうね。

 そもそも幕府公認の遊里は吉原だけでした。それ以外は私娼窟であり、岡場所と呼ばれたんですね。ただ内藤新宿、千住、板橋、品川の四つの宿場は官許の私娼なので、岡場所とは呼びませんでした。何といっても最大の岡場所は深川。天保八年(1838年)の頃には芸妓と娼妓合わせて七百人を超える女たちがいたといいます。芸妓の女性を女芸者、幇間(ほうかん)や太鼓持ちを男芸者と呼びましたが、次第に芸者といえば女芸者を指すようになりました。女芸者の中にも売春をする者がいて、枕芸者、転び芸者などと呼ばれましたが、これは取り締まりの対象となりました。

 江戸の女芸者の元祖は、芳町にいた菊弥という唄の女師匠だったといわれます。あまりの人気に男娼たちの悋気を買い、深川へ逃れて茶屋を営み、そこから深川芸者が生まれたのだそうですけれど、男勝りの深川芸者が生まれるのにはさまざまな事情もあったようです。

 深川八幡宮之図(豊国画)

 大岡越前守が吉原以外の所で売笑することを禁じ、私娼窟に対して厳罰をもってのぞむようになった時、女子を売らなければ生活できない貧困層の人間は何とかして法の網を潜り抜けようとしました。そうして生まれたのが男年季証文です。芸者として売られる時、男の奉公人として契約され、町家の丁稚奉公人のように何吉、何次、何助のように男名前で証文を作りました。服装も当時女性は羽織を着なかったのですが、羽織を着ることによって男装化したんですね。足袋を穿かず、男用の下駄を履くのもそのためです。自然、男のような口調にもなり、意気地と張りが売り物になりました。江戸の粋の象徴ともいわれます。男装化しなければならなかった深川芸者が、侠(おとこだて)であったのは当然のことといえましょう。

 深川は江戸の辰巳の方角にあったので、深川芸者は辰巳芸者とも呼ばれ、その身形から羽織芸者ともいわれました。深川芸者が着はじめた女羽織は、江戸の上流婦人や関西芸者にも普及し、天保以後には一般婦人も着るようになりました。深川芸者は今でいうファッションリーダーであったともいえますね。

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