前回、お公家さんの日記から本能寺事変を見てきましたが、今回は堺の商人の日記から本能寺事変その後を追ってみたいと思います。
津田宗及(つだそうきゅう)といえばご存じの方も多いと思いますが、当時堺の商人であり、茶人でもあった人です。千利休・今井宗久とともに三宗匠といわれました。
彼の家は堺で貿易商を営む豪商天王寺屋。父から茶の湯を学び、禅に通じ、蹴鞠や俳諧連歌にも秀でた彼は、天正三年頃から信長の茶頭となりました。他の戦国大名にも重用されましたが、何といっても秀吉の八人衆に数えられ、三千石の知行を与えられたこと、北野天満宮で催された大茶会で茶道をつとめたことが大きいでしょう。
その彼の父と彼、彼の息子の三代が記した茶の湯日記を「天王寺屋会記(てんのうじやかいき)」といいます。茶の湯日記ではありますけれど、世情についても詳しく記した部分があるので、天正十年六月の記事の中から山崎の合戦について見てみましょう。
「同十三日に山崎表においてかつせんあり、惟日(光秀のこと)まけられ、勝龍寺へ取り入られ候…夜中に出でられ候、路次において相果てられ候、首十四日に到来、本能寺 上様御座所に、惣の首共都合三千斗かけられ候」とあって、光秀が山崎の合戦で敗れ、勝龍寺へ入ったが、夜中に抜け出して道すがら討たれ、その首が十四日に本能寺へ到着、光秀軍三千の首とともに信長の御座所であったところにかけられたと記されています。
宗及は光秀の茶会にも出席するなど親交があったと思われるのですが、本能寺事変直後、吉田兼見(よしだかねみ)のように光秀に面会してはいません。じっと様子を見守っていたようです。そして光秀が討たれ、その首が本能寺へもたらされた翌々日、六月十六日に上洛してその首を見ています。
「同六月十六日に我等も上洛いたし候、首共見候なり、斎藤内蔵介十七日に車さたなり、即首を切られ候なり」という記事から斎藤利三は車裂きの刑を受けたようです。
宗及が光秀に対して抱いていた感情はいったいどんなものだったのでしょうか。十三日の記事の丁寧な言葉遣いから推測すると、同情と哀悼の意を禁じ得ません。確かに宗及は光秀の死を悼んでいたと思われます。
本能寺事変の時、宗及は堺で家康の接待にあたっていたため、兼見のようにすぐに光秀のもとへ駆けつけられなかったことは却って幸いだったといえましょう。
しかしその宗及にも陰謀説があるんですね。朝廷が宗及を使って光秀に謀叛をけしかけさせたというものです。公卿衆から相談をもちかけられた宗及は、当時親交のあった光秀を操り、実行犯に仕立て上げたというのです。
何が本当かわかりませんけれど、いずれにしても、この時信長が殺される運命にあったのは間違いないのでしょう。
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津田宗及(つだそうきゅう)といえばご存じの方も多いと思いますが、当時堺の商人であり、茶人でもあった人です。千利休・今井宗久とともに三宗匠といわれました。
彼の家は堺で貿易商を営む豪商天王寺屋。父から茶の湯を学び、禅に通じ、蹴鞠や俳諧連歌にも秀でた彼は、天正三年頃から信長の茶頭となりました。他の戦国大名にも重用されましたが、何といっても秀吉の八人衆に数えられ、三千石の知行を与えられたこと、北野天満宮で催された大茶会で茶道をつとめたことが大きいでしょう。
その彼の父と彼、彼の息子の三代が記した茶の湯日記を「天王寺屋会記(てんのうじやかいき)」といいます。茶の湯日記ではありますけれど、世情についても詳しく記した部分があるので、天正十年六月の記事の中から山崎の合戦について見てみましょう。
「同十三日に山崎表においてかつせんあり、惟日(光秀のこと)まけられ、勝龍寺へ取り入られ候…夜中に出でられ候、路次において相果てられ候、首十四日に到来、本能寺 上様御座所に、惣の首共都合三千斗かけられ候」とあって、光秀が山崎の合戦で敗れ、勝龍寺へ入ったが、夜中に抜け出して道すがら討たれ、その首が十四日に本能寺へ到着、光秀軍三千の首とともに信長の御座所であったところにかけられたと記されています。
宗及は光秀の茶会にも出席するなど親交があったと思われるのですが、本能寺事変直後、吉田兼見(よしだかねみ)のように光秀に面会してはいません。じっと様子を見守っていたようです。そして光秀が討たれ、その首が本能寺へもたらされた翌々日、六月十六日に上洛してその首を見ています。
「同六月十六日に我等も上洛いたし候、首共見候なり、斎藤内蔵介十七日に車さたなり、即首を切られ候なり」という記事から斎藤利三は車裂きの刑を受けたようです。
宗及が光秀に対して抱いていた感情はいったいどんなものだったのでしょうか。十三日の記事の丁寧な言葉遣いから推測すると、同情と哀悼の意を禁じ得ません。確かに宗及は光秀の死を悼んでいたと思われます。
本能寺事変の時、宗及は堺で家康の接待にあたっていたため、兼見のようにすぐに光秀のもとへ駆けつけられなかったことは却って幸いだったといえましょう。
しかしその宗及にも陰謀説があるんですね。朝廷が宗及を使って光秀に謀叛をけしかけさせたというものです。公卿衆から相談をもちかけられた宗及は、当時親交のあった光秀を操り、実行犯に仕立て上げたというのです。
何が本当かわかりませんけれど、いずれにしても、この時信長が殺される運命にあったのは間違いないのでしょう。
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