ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

古記録に見る本能寺、その後

2018-02-25 19:22:15 | 日記
 前回、お公家さんの日記から本能寺事変を見てきましたが、今回は堺の商人の日記から本能寺事変その後を追ってみたいと思います。

 

 津田宗及(つだそうきゅう)といえばご存じの方も多いと思いますが、当時堺の商人であり、茶人でもあった人です。千利休・今井宗久とともに三宗匠といわれました。
 彼の家は堺で貿易商を営む豪商天王寺屋。父から茶の湯を学び、禅に通じ、蹴鞠や俳諧連歌にも秀でた彼は、天正三年頃から信長の茶頭となりました。他の戦国大名にも重用されましたが、何といっても秀吉の八人衆に数えられ、三千石の知行を与えられたこと、北野天満宮で催された大茶会で茶道をつとめたことが大きいでしょう。

 その彼の父と彼、彼の息子の三代が記した茶の湯日記を「天王寺屋会記(てんのうじやかいき)」といいます。茶の湯日記ではありますけれど、世情についても詳しく記した部分があるので、天正十年六月の記事の中から山崎の合戦について見てみましょう。

 「同十三日に山崎表においてかつせんあり、惟日(光秀のこと)まけられ、勝龍寺へ取り入られ候…夜中に出でられ候、路次において相果てられ候、首十四日に到来、本能寺 上様御座所に、惣の首共都合三千斗かけられ候」とあって、光秀が山崎の合戦で敗れ、勝龍寺へ入ったが、夜中に抜け出して道すがら討たれ、その首が十四日に本能寺へ到着、光秀軍三千の首とともに信長の御座所であったところにかけられたと記されています。

 宗及は光秀の茶会にも出席するなど親交があったと思われるのですが、本能寺事変直後、吉田兼見(よしだかねみ)のように光秀に面会してはいません。じっと様子を見守っていたようです。そして光秀が討たれ、その首が本能寺へもたらされた翌々日、六月十六日に上洛してその首を見ています。
「同六月十六日に我等も上洛いたし候、首共見候なり、斎藤内蔵介十七日に車さたなり、即首を切られ候なり」という記事から斎藤利三は車裂きの刑を受けたようです。

 宗及が光秀に対して抱いていた感情はいったいどんなものだったのでしょうか。十三日の記事の丁寧な言葉遣いから推測すると、同情と哀悼の意を禁じ得ません。確かに宗及は光秀の死を悼んでいたと思われます。
 本能寺事変の時、宗及は堺で家康の接待にあたっていたため、兼見のようにすぐに光秀のもとへ駆けつけられなかったことは却って幸いだったといえましょう。

 しかしその宗及にも陰謀説があるんですね。朝廷が宗及を使って光秀に謀叛をけしかけさせたというものです。公卿衆から相談をもちかけられた宗及は、当時親交のあった光秀を操り、実行犯に仕立て上げたというのです。
 何が本当かわかりませんけれど、いずれにしても、この時信長が殺される運命にあったのは間違いないのでしょう。

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古記録に見る本能寺

2018-02-11 19:40:54 | 日記
 あまりに寒いので開花が遅れていた梅もようやく咲き始めました。毎年この時期は梅の香に癒されますね。戦国時代は梅の花を愛でる余裕すらなかったでしょうに、平和というのは実に有難いものです。(
;∀;)

 さてその戦国時代、何といっても大事件といえば本能寺事変ですけれど、最近では諸説飛び交い、信長生存説まで出てくる始末。本当のところはどうだったのか興味の尽きないところですが、一応常套手段として古記録をひも解いていこうと思います。

 古記録はいうまでもなく天皇をはじめ皇族、公卿、武家、僧侶、学者、文人などが記した日記です。その数は平安から織豊時代までで五百点以上にのぼるといわれ、膨大なものになりますが、その中核をなすものはほぼお公家さんの日記。宮廷行事は先例に習うことが多かったので、後に資するため、彼等は正確に事実を記しました。例えば即位の礼や大嘗会がどのように行われたかなどを記録することによって次に備え、またそれを子孫に伝えていくという意味もありました。

 今でも先例に習うことは多くありますし、歴史を知る上でその史料的価値は高いとされています。
 本能寺事変について記したものもありますが、何しろ彼等は現場にいたわけではなく、人から聞いた話を記しているのでその辺は考える必要がありますけれど、当時どのように伝わっていたかを知ることはできます。

 例えば吉田兼見(よしだかねみ)が記した「兼見卿記」には「天正十年六月二日条」に、「早天、丹州より惟任日向守、信長の御屋敷本応(能)寺へ取り懸け、即時信長生害…本応寺・二条御殿等放火、洛中・洛外驚騒しおわんぬ。悉く討ち果たし、未の刻大津通下向…」(別本とする)とあって、「即時信長生害」という言葉から信長は自害したのだということが読み取れます。この後兼見は粟田口まで出掛けていき、光秀と対面、所領安堵について頼んだことが記されています。ちゃっかりしてますよね。

 兼見(かねみ)卿記 言国(ときくに)卿記

 面白いのはこの後です。この日記は光秀が殺される前日をもって終わっているんですね。つまり日記は天正十年正月から書き直されているんです(新本とする)。
 新本の詳細は長くなるので省略しますけれど、それまで光秀と親交の深かった兼見は、光秀が討たれたことにより己の身を案じたのでしょう。新本には粟田口まで出掛けていって対面したことは一切記載されていませんし、光秀の行動を謀叛と決めつけています。

 にも拘らず、織田信孝に光秀との関係を疑われ詰問されているくらいですから、この時光秀と親交のあったお公家さんたちは多かれ少なかれ固唾を飲んだことでしょう。以前「本能寺事変の黒幕と目された男」でも書きましたが、近衛前久などは信孝に成敗されるとの風聞があって京を出奔しています。その前久との関係を疑われないようにと、兼見は前久からの預かり物を悉くその子信伊(のぶただ)に返却しているんですね。幸い事なきを得たようですが…。

 いやー、誰しも生き残りたいものです。まだまだ本能寺、いろいろありそうですね。

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