ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

戦国武将の宝物

2018-06-24 19:29:11 | 日記
 近くの公園は紫陽花見物の人で賑わっていますけれど、今年の花は例年に比べると見劣りがしますね。陽気がおかしかったせいでしょうか。菖蒲なども咲いたと思ったらすぐに枯れてしまい、無惨です。花の見頃はほんの一時ですから、「今見に行かないと」と思う人たちで賑わのも当然。花は保存がききませんから、宝物として大切にとっておくということもできませんし。

 宝物というとすぐに頭に浮かぶのは宝石でしょうか。他にもいろいろありますけれど、万葉の歌人山上憶良(やまのうえのおくら)の宝は子供だったようです。
 銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも
 他にも子供を思う歌を数首残しています。子供を愛しむことができるのはまだ平和なんですね。これが戦国時代になるとそうは参りません。政略に利用するようになるわけですから。


 さてその戦国時代、武将たちの宝物は何だったのでしょう。人によってさまざま、といってしまえばそれまでですが、強いていうならば名物茶道具といってよいかもしれません。信長や秀吉に攻め滅ぼされそうになった時、名物茶器を献上したことにより命拾いした武将が結構多いからです。名物茶器の価値を高めたのは信長だともいえますが、彼は茶の湯がご政道に繋がるものという意識を家臣に持たせていたようです。つまり何らかの功績があった者にのみ茶の湯を開くことを許したんですね。秀吉などは三木城を攻略した功により、信長から感状と茶道具を与えられ、茶の湯を開くことを許されました。これは恩賞であり、名誉でもあったわけです。

 我が家の名物?


 また信長の家臣に滝川一益(たきがわかずます)という人がいましたが、この人も無類の名物好きで、領地より茶器を欲しがりました。茶の湯の師匠である太郎五郎に宛てた書状で、武田攻めの軍功により「珠光小茄子(じゅこうこなすび)」という茶入れを貰えると思っていたのに、それは貰えず、上野一国と信濃の佐久・小県の二郡を与えられたと嘆いています。しかも厩橋(うまやばし)城主、関東管領に任ぜられたのですから破格の出世といってもよいのですが、「茶の湯の冥加は尽き候」といって落胆しているところを見ると、よっぽど欲しかったんでしょうね。


 もう一人茶器を好んだ戦国武将として、松永久秀(まつながひさひで)を挙げておきましょう。彼は下剋上の代表のような人で、将軍義輝を殺したり、主家三好氏に背いたり、大仏殿を焼き払ったりと悪行の限りを尽くした人ですが、最期は「平蜘蛛(ひらぐも)」の茶釜とともに逝きました。信長に背き、信貴山(しぎさん)城を攻められた時、「平蜘蛛の釜と我等の首と二つは信長公にお目にかけようとは思わぬ。鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」(『川角太閤記』)と言ったとか言わないとか。言葉通り茶釜に爆薬を仕込み、ともに爆死したとする説、信長の手に渡らないよう死に際にこれを打ち壊したという説があります。


 この茶釜は蜘蛛が這いつくばっているような形をしていたのでこの名がありますが、久秀が信長に臣従して以降、何度も所望されていたんですね。しかしその度に断っていたようです。信長が欲しがっているのを知っていたからこそ、渡したくなかったのでしょう。久秀の意地でもあったわけです。たかが茶道具と思ってしまえばそれまでですが、それを宝物にするのは人の心なのでしょうか。

 皆さんの宝物は何ですか。


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武士のアルバイト

2018-06-10 19:18:03 | 日記
 いよいよ梅雨に入りました。これからしばらくは鬱陶しい日々。読書にいそしむのもいいかもしれません。

 さて、江戸時代の武士といえば名目上は支配階級。生活に困ることなんてなかったように思いますけれど、御家人クラスの下級武士たちは経済的に困窮していました。現代でもひと昔前までは公務員の給料が安いといって嘆いていた時代がありましたけれど、その比ではなかったようです。
 武士を卑しめていう言葉に、「サンピン」というのがありますよね。あれは貧乏御家人の年俸が三両一人扶持(いちにんぶち)だったことに由来します。これは大工の稼ぎの六分の一くらいに相当するそうで、武士の体面を保ちながら生活するのは大変でした。

 福沢諭吉の家は十三石二人扶持でしたが、麦や粟を買い、お粥や団子にしてその日を凌いでいたことが『旧藩情』に書かれています。

 また三百石取りの武士であっても、俸禄に見合うだけの兵員(三百石取りの場合七人)を抱えていなければならないので、決して楽なものではありませんでした。家臣への給料や食費だけでも俸禄の三分の二以上が費やされるため、大抵の場合赤字でした。まして「三百石以下の下級武士においてをや」です。


 ところがそうした下級武士たち、暇だけは持て余すほどありましたから、自然アルバイトに精を出すことになります。それも組織的に行われていたんですね。青山百人町の傘といえば有名ですが、これは甲賀組が製造していました。御家人は組屋敷を与えられ、役職の同じ者と同じ区域に生活していましたから、体制を敷くのにも都合がよかったのです。またその屋敷地といえば、三十俵二人扶持の同心クラスでも百坪前後あったといいますから、作業する場所には事欠きませんでした。拝領屋敷の敷地を利用して盆栽を作ったり、植物を栽培する組もありました。新宿の伊賀組によるツツジ、下谷御徒町の御徒士組(おかちぐみ)による朝顔は有名で、後者は「入谷(いりや)の朝顔市」の起源にもなっています。

 朝顔作り

 傘張り仕事
 図解『江戸の暮らし事典』より

 他にも牛込弁天町では根来(ねごろ)組による凧張りと提灯作りが盛んでしたし、代々木・千駄ヶ谷では鈴虫を繁殖させていました。小鳥や金魚などもそうですが、これらはペットとして人気があったようです。

 また武士ならではのアルバイトといえば、用心棒、手習いの師匠といったところでしょうか。いろいろありますけれど、武士もなかなか大変だったんですね。


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