ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

江戸の浮世絵師

2020-07-19 19:10:17 | 日記

 今日は久しぶりに晴れてお出掛け日和になりましたが、新型コロナの感染者が拡大しているので、なかなか旅行にも行きづらいですよね。早く安心して旅行に行けるようになるといいですね。
 旅行といえば旅行土産。今は便利な世の中になりましたし、いざとなれば宅急便という手もあるので何でもお土産にできますけれど、お江戸の昔はそうはいきません。自分の手荷物として持ち歩かなければならないわけですから、軽くてかさばらないものが選ばれました。江戸土産といえば、浮世絵か浅草海苔が通り相場だったようです。

 お土産にもなった浮世絵。それを描いた浮世絵師は絵師とは呼ばれましたけれど、それまでの「狩野派」や「やまと絵」の絵師たちとは違っていました。狩野派などの絵師たちはお抱えで扶持をもらい、お城の襖絵などを描いていたのですが、浮世絵は「売ってなんぼ」のもの。売れなければ話になりません。芸術というより娯楽に徹したもので、遊里や芝居に題材をとり、遊女や役者を描いたのが浮世絵のはじまりでした。今でいうブロマイドのようなものですね。「見返り美人」で有名な菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が浮世絵の開祖といわれます。浮世絵というのは、この世を写した風俗画というような意味であり、浮世というのは「当世風」「遊楽的」「享楽的」などの意味でも使われました。

 やがて背景を描き込むようになり、風景画や花鳥画なども盛んになりますが、「売れるか売れないか」が勝負であることに変わりはありません。多色刷りも主流となっていき、「錦絵」と呼ばれるようになりますけれど、この創始者は美人画で有名な鈴木春信(はるのぶ)だったといわれます。春信は遊女のほか笠森お仙など町の評判娘をモデルとして日常生活を描き、人気を博しました。一時は春信風の美人画一色となりましたが、その後八頭身美人を描く鳥居清長(とりいきよなが)と顔を中心に上半身を描く喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の二大美人画絵師の時代となりました。

 高名三美人・歌麿画

 また謎の浮世絵師といわれ、役者の特徴をリアルに描く独特の画風で注目された東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)。彼は一年もしないうちに忽然と姿を消してしまいましたけれど、これにはいろいろな説があります。ひとつには、写楽というのは個人名ではなく、プロジェクトチームの名前だったのではないか、というんですね。絵師はその一員として「版下絵(はんしたえ)」を描きます。しばしば画工(がこう)とも呼ばれました。「版元(はんもと)」があって、プロデュースする「案じ役」がいて、画工がいて、「彫(ほ)り師」がいて、「刷(す)り師」がいて、一枚の浮世絵が出来上がるわけですから、そのチーム名だったという説にも頷けます。

 東海道五十三次(由井)・広重画

 文化文政期になると浮世絵はさらに盛んになっていきます。なかでも全盛を誇ったのが歌川派で、豊国、国芳などを排出しましたが、風景画家として大成した歌川広重(ひろしげ)は「東海道五十三次」「木曽街道六十九次」「名所江戸百景」など著名な作品を残しました。そしてもう一人、忘れてならないのが葛飾北斎(かつしかほくさい)です。「富嶽三十六景」はあまりにも有名ですよね。彼等は世界にも大きな影響を与えました。もともとは芸術を目的としないものでしたが、世界で芸術として認められたのです。

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