ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

ああ湘南 清絶地(湘南発祥の地)

2019-05-26 19:10:14 | 日記

 先日大磯へ行ってきました。好天に恵まれ、風も穏やかで、海は青く澄み、絶好の景勝地日和でした。何故大磯かというと、以前から西行の「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮」という歌を詠んだのがこのあたりだと聞いていたからです。西行が訪れた地で、歌の情趣を味わってみたかったのです。

 「心なき」というのは「物の情緒を理解しない」、「心なき身」というのは「俗世間の感情を捨てた身」となるのでしょうね。西行は出家していましたから、そうした俗世間の感情を捨てた僧の身にも、秋の夕暮に鴫が飛び立っていくこの沢の情趣がしみじみと感じられるよ。感動した!といったところでしょうか。西行が感動したこのあたりの風景は大分変わってしまったと思いますし、秋のもの寂しい風情とは趣を異にすると思いますが(しかも夕暮ではなく、真っ昼間ではありましたけれど)、それでもなかなか趣のある風光明媚なところでした。ただ海沿いを西湘バイパスが走っているので、大磯ロングビーチは見えません。大磯城山公園の旧吉田茂邸まで行くと、金の間から絶景を望むことができます。

 国道1号線沿いに鴫立庵(しぎたつあん)がひっそりと建っています。門前を流れる谷川はやがて沢となり、その水は砂地に吸い込まれて消えるのだそうですが、この鴫立庵に「鴫立沢」の標石があります。江戸時代初期、小田原の崇雪(そうせつ)という人がここに草庵を結び、西行の歌にちなんで標石を建てたのだそうです。果たしてここで西行の歌が詠まれたかどうかは定かではありませんが、このあたり、大磯の鴫立沢なる地で「心なき…」の歌が詠じられたことは確かなようです。

鴫立庵

 そしてこの「鴫立沢」の標石の裏に「著盡湘南 清絶地」という文字が刻まれています。「ブラタモリ」によると「ああしょうなん、せいぜつち」と読み、これが「湘南」という言葉の始まりになるとか。湘南というのはもともと中国の景勝地だそうですが、このあたりがその景色に似ていたのでしょう。ですから「ここは湘南、湘南って素晴らしい」というくらいの意味になるのだそうで、故にここが「湘南発祥の地」といわれ、鴫立庵の近くの1号線沿いに「湘南発祥の地」の石碑も建っています。

 鴫立庵の庭内には佐々木信綱博士の筆になる「心なき…」の歌碑もありますし、西行法師の座像が安置された円位堂、観音堂、芭蕉の句碑などもありますけれど、何よりここは京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場のひとつなのだそうです。門前を入るとすぐに庵室があり、その隣に俳諧道場があります。江戸元禄の頃から庵主が在庵し、今に至っています。

 鴫立庵から歩いて5分くらいのところに旧島崎藤村邸があります。友人に誘われて大磯の左義長見物に訪れた藤村は、すっかりこの地を気に入り、住むようになりました。小さな冠木門があり、割竹垣に囲まれた三間ほどの平屋建ての民家ですが、藤村はここの書斎を最も気に入っていたようです。「涼しい風だね」の言葉を最後に、この世を去りました。

旧島崎藤村邸

 西行が感動し、藤村が愛したこの地で、私も生涯を終えたい、なんて思わせるようなところでしたよ。

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日本最初の元号

2019-05-12 19:23:49 | 日記

 元号が変わり、何につけても「令和初」という言葉が使われてフィーバーしてますね。普段は元号について考えることがないので、この機会に改めて考えてみるのもいいかもしれません。

 

 日本で最初に使われた元号といえば、ご存じのように「大化(たいか)」、「大化の改新」のそれです。その最初に使われた元号の裏には何があったのでしょう。当時は蘇我蝦夷(そがのえみし)とその子入鹿(いるか)が皇極(こうぎょく)天皇を助けて政治を行っていました。助けてくれるのはいいのですが、人間は次第に権力を握りたくなるんですね。蘇我氏の独裁的傾向が強くなっていき、同時に皇室の権威が危うくなっていきます。

 入鹿は自分が天皇にとって代われるとは思っていなかったようですが、蘇我氏の血をひく操縦しやすい古人(ふるひと)皇子を皇位につけて事実上の権力を握ろうとしていました。しかしその入鹿の独裁的傾向に反発する分子もいたのです。唐から帰国した留学生や僧侶は、唐で学んだ政治の知識をもって中央集権国家を目指していました。その気運の中心人物となったのが、舒明天皇の皇子であった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と神祇祭祀の職を世襲した中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。特に鎌足は、飛鳥の法興寺(飛鳥寺)で行われた打毬(うちまり)の遊びに紛れて積極的に中大兄に近づいたようです。

 そうして反入鹿の勢力は隠密裏に暗殺計画を進めていきました。ちょうど高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)三国の使者の入朝が迫っていたのを利用して、三国の貢をすすめる儀式を朝廷で行うこととし、上表文を読み上げるのを合図に入鹿を斬るというものでした。645年6月12日、天皇が大極殿(だいごくでん)に御し、少し遅れて入鹿が入場してきます。と同時に中大兄は宮中の諸門をすべて閉ざさせました。邪魔が入らないようにするためです。刺客は陰に隠れて合図を待ちました。石川麻呂が進み出て上表文を読み上げます。しかし何事も起こりません。石川麻呂の声が震えます。入鹿が怪しんで、「何故そんなに震えるのか」と尋ねます。石川麻呂は「天皇の御前なので…」と答えます。あわや失敗かと思われた時、中大兄が先頭に立って刺客たちと斬り込み、入鹿は天皇の前に倒れました。

 以上が概ね『日本書紀』の語るところですけれど、その後入鹿の父蝦夷も自殺し、クーデターは成功します。645年に起きたこのクーデターは「乙巳(いつし)の変」と呼ばれ、それ以降に始まる政治改革のことを「大化の改新」というのだそうですね(私の時代にはクーデターを含めて「大化の改新」と習いましたが)。政変後、中大兄はすぐに皇位には就きません。軽皇子(かるのみこ)を皇位につけ、孝徳天皇として即位させます。そして自分は皇太子となりました。皇太子でいた方が自由に腕が振るえると思ったのでしょうか。それとも、蘇我氏打倒が皇位を望むためのものと思われたくなかったのでしょうか。6月19日、上皇、天皇、皇太子は、大槻(おおつき)の木のもとに群臣を集め、「帝道唯一」を神々に誓いました。そしてこの時、日本初の元号「大化」を定めたのです。

 そんな時代を思う時、平和裏に皇位が受け継がれ、お祭り気分で令和を迎えられたことに幸運を感じます。

 さて、その後のエピソードをもう少し。乙巳の変から23年後の668年、中大兄はようやく即位して天智天皇となります。それを見て安心したのでしょうか。翌年、中臣鎌足は56歳の生涯を閉じます。その少し前に天皇から最高の冠位である大織冠(だいしょくかん)と大臣の位を授けられ、「藤原」姓を与えられました。藤原時代の基がここに誕生したわけです。

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