ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

アンコール遺跡のガジュマル

2019-12-22 19:22:50 | 日記

 今年最後のブログは夏に息子たちが行ってきたアンコール遺跡の写真で終わりたいと思います。カンボジアのシェムリアップという都市にあるアンコール遺跡は、クメール人のアンコール王朝時代に築かれた寺院や建築物のことです。中でも有名なのがご存知アンコールワット。アンコール王朝のスリーヴァルマン2世によって12世紀前半に建立されたヒンドゥー教寺院ですが、最もポピュラーな撮影スポットは女池から撮る「逆さアンコール」。息子たちも手乗りアンコール等々いろいろ撮影してきたようです。私が面白いと思ったのはアンコールワットを背景にして水鳥のいる女池の写真です。観光客がたくさん訪れる小さな池で、のびのびと生きている(ように見える)水鳥たちの姿が印象的でした。

 アンコールワットの水鳥

 アンコール遺跡にはさまざまなレリーフや「クメールの微笑み」と呼ばれる石像などがあります。アンコールワットには急な階段を上っていく回廊などもあって面白そうですけれど、最も心惹かれたのはガジュマルの木の写真でした。アンコール遺跡群の中のタ・プロームというところなのですが、ガジュマルの木が遺跡に巻きついて、今にも浸食してしまいそうな姿が圧巻です。ガジュマルの木は沖縄でも見ましたけれど、これほど大きなものではありませんでした。それでも気根が縦横無尽に伸びていて、その生命力に圧倒されたのを覚えています。ガジュマルは「絞め殺しの木」ともいわれ、土台となる木は枯れていくのだそうで、気根はアスファルトやコンクリートをも突き破るのだそうです。

   遺跡に絡みつくガジュマル

 タ・プロームは12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世が母を弔うために創建した仏教寺院ですが、後にヒンドゥー教寺院に改修されたと考えられています。当初は5000人近い僧侶が住んでいたといわれ、遺跡に食い込んでいるガジュマルは樹齢300年にもなるとか。荒廃した寺院にガジュマルの木が絡み、締めつけている様子は何とも神秘的でさえありますね。しかしあまりに浸食がひどいので修復も計画されましたが、ガジュマルが遺跡を破壊しているのか、それとも遺跡を支え共存しているのかという議論がユネスコを中心になされており、なかなか進まないようです。私個人としては、綺麗に修復された遺跡よりも、このままの方が見どころのような気がしますけれど。

 今年一年、つたないブログにおつき合いいただきました皆様、本当に有難うございました。来年もよろしくお願い申し上げます。令和二年が皆様にとりましても飛躍の年となることを祈りつつ…。

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朝鮮通信使と宿場

2019-12-08 19:18:50 | 日記

 鎖国時代、日本は外交を全くしなかったわけではありません。オランダや中国とは通商関係にありましたし、朝鮮や琉球とも外交関係にありました。朝鮮半島とは古くから行き来があり、今でも韓国とは庶民レベルで深いつながりがありますよね。韓国料理、K-POPミュージック、韓国コスメ、韓流ドラマなど、お好きな方も多いのでは。

 韓国は昔の朝鮮の一部に過ぎませんけれど、韓国が朝鮮であったことに違いありません。その朝鮮からは江戸時代、通信使が来ていたんですね。正式名称は朝鮮聘礼使(へいれいし)ですが、一般的には朝鮮通信使と呼びます。彼等は将軍が代替わりする度に四、五百名余りの行列をなして日本を訪れました。つまり将軍の襲職を祝賀するために朝鮮王朝から派遣された外交使節団だったんです。江戸時代には十二回来聘(らいへい)しています。これは日本にとって、海外に威信を示す最大のイベントでもありました。ですからその道中における宿場の役目は甚大で、厳しい諸事負担がありました。今回は朝鮮通信使に対して宿場がどのように対応したのか考えてみます。

 通信使は半年から一年ほどの長期にわたって日本に滞在したようです。記録によれば京都、守山、彦根、大垣、名古屋、岡崎、吉田、浜松、掛川、藤枝、江尻、三島、小田原、藤沢、品川を宿泊地としましたが、他に休息地というのもありました。宿場での友好的外交の意味も含め、日本人との交流を深めたようです。

 一方、これを迎える日本側では通信使の通る宿場やその付近の村々に厳しい御触(おふれ)が出ていました。小田原の場合で見ていくと、「格別、道の悪い所は見通しをよくするように修理すること。牛車・大八車については逗留中、もしくは登城まで通さないこと」とか、「朝鮮人到着の節、昼夜とも火の用心を入念にするよう心がけること」、「朝鮮人のお通りになる町の道路や橋…は、よく片附け、掃除をていねいにしておくこと」、「朝鮮人のお通りになる時刻に、二階にて見物しないこと」、「朝鮮人がお通りになる時は、指でさし笑わないこと」、「道筋の川船は見苦しいことのないように、整然と並べておくこと」、「朝鮮人との売買は、上下によらず堅く禁止すること」、「子供は往還に出さないこと」等々こまごまとしたお達しで、かなり気を遣っていることがわかります。

 東海道五十三次の内・小田原

 幕府は外国人の来朝に関して国家の名誉をかけていましたから、大変な神経をつかい、丁重な応対に終始しました。各街道の宿場では、藩をあげて送迎の準備をし、まず何といっても「高貴な方」が休息し宿泊する施設、本陣の内装に力を入れました。襖、屏風、障子の張り替えから畳表の取り替え等々、普請費用の支出が多かったようです。小田原藩では朝鮮通信使のために、酒匂(さかわ)川に臨時の架橋をしましたし、道路工事も必要でした。また人馬不足によって輸送が滞ることを危惧し、人馬の手配に気を配りましたが、村民の負担は重いものになりました。

 さらには豪華な食事が用意され、饗応ともなると本膳から二の膳、三の膳、デザートまであったといいます。『民間省要(みんかんせいよう)』では「何事も善尽し、美尽して、御入用無量なりき。凡(およ)そ、道中一泊の御入用、諸普請、道・船橋・川舟…食物・菓子・酒色・諸色惣じての諸役人の入用に至まで…」として、藩の接待費用は少なくとも二、三万両が入用であると述べています。この経済的負担は諸藩の財政難に拍車をかけ、最後の来日は江戸で迎えることができませんでした。対馬藩により国書を交わすという略式の招聘(しょうへい)となったんですね。如何なる場合でも接待する側、される側、大変です。

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