負けたら大阪に帰れない 阪田三吉vs関根金次郎 大正2年(1913年) 阪田七段歓迎会

2022年02月14日 | 将棋・シリーズもの 中編 長編

 「阪田三吉って、ホンマに強かったんやなあ」

 なんてことを思ったのは、ある棋譜を並べてみた感想であった。

 阪田三吉

 大阪の名門、通天閣高校のエースであり、甲子園出場3回。

 2年次には甲府学院を破って、夏の大会で優勝。卒業後は近鉄バファローズに入団し、過去には犬を……。

 ……て、そっちではなく、その元ネタになってる方の人。
 
 ちなみに、野球選手のほうは「坂田三吉」だが、将棋の方は「坂田」でも「阪田」でも、どちらでもいいそうで、ここでは今回使う資料に基づいて「阪田三吉」と表記します。

 とはいえ、私のパソコンとスマホは「さかたさんきち」と打つと「坂田三吉」が一発目に出てくるので、違ってたらご愛嬌。

 ちなみに「坂」と「阪」に表記ゆれがあるのは、漢字の読み書きが苦手だったからで、それこそ今で言う「変換ミス」みたいなものだそうです。

 
 と言うことで、

 

 「王将」

 「吹けば飛ぶような将棋の駒の」

 

 などで有名な阪田三吉だが、私は大阪人にもかかわらず、この将棋界の偉人については、あまりよく知らない。

 不勉強きわまりないが、映画や舞台になっているような「破天荒」なイメージはあくまで創作で、実際はわりとちゃんとした常識人だったとか、

 

 「初手△94歩」

 「初手△14歩」

 

 で有名な「南禅寺の決戦」と「天龍寺の決戦」。

 あとは、そのあたりのことを、織田作之助が書いてるとか、せいぜいその程度。

 

 阪田三吉の代名詞ともいえる、「南禅寺の決戦」で見せた初手△94歩。

 「阪田に秘策あり」「いや、ただのハッタリだ」と物議をかもしたが、今となっては真相は闇の中。

 

 

 そもそも資料が少なく、知りたくても、なかなかそうもいかないわけだが、年末に実家の押し入れを整理していたら、スクラップしていた阪田の棋譜解説が見つかっって、「おお!」となった。

 また、読者の方から、

 

 「阪田三吉を取り上げてください」

 

 というリクエストをいただいていたので、前回は森内俊之九段の歩の妙手を見ていただいたが(→こちら)、今回はそこを紹介してみたい。

 見つかった棋譜と言うのが、あの有名な上にも有名な、

 

 「銀が泣いている」

 

 の一番で、大正2年(!)の4月6日に行われた、関根金次郎八段阪田三吉七段の一戦だが、まずはその背景から。

 私は戦前の将棋界にくわしくないのだが、この2人には深い因縁があるという。

 阪田は明治24年ごろに、関根とはじめて対戦するも完敗し、そこからプロの道を志すようになった。

 いわば、『ヒカルの碁』における、進藤ヒカル塔矢アキラの出会いのようなもので、2人は度々対戦することになる。

 この大正2年の勝負は、小野五平名人など、阪田支持の有力者が主宰して「歓迎会」という形で行われたが、これには「次期名人」をかけた戦いという一面もあった。

 関根は長く、実力は充分ながら、自分が名人になれないことに、大きな不満をかかえていた。

 これは当時の名人が推挙制で選ばれ、また「終身制」だったがゆえ、小野が長生き(91歳)したことによって起こった悲劇だが(当時の平均寿命は43歳くらい)、そのせいで小野と関根はかなりの不仲であった。

 小野の「阪田支持」は、自分に歯向かう相手への嫌がらせの意味もあり、そりゃ関根からすれば、ここで負けるわけにはいかない。

 また阪田が関西で団体を立ち上げ、勝手に「七段」を名乗り、「本家」である東京の将棋界と対立

 それに反対する棋士を、阪田が駒落ちのハンディ付きで、次々となで斬りにするという事件もあった。

 またそれを新聞社が支援し、今よりもはるかに激しかった東西の対抗意識などもあいまって、政治的なドロドロもかなりのものに

 それこそ、かなり乱暴に今で例えれば、豊島将之九段あたりが突然に、

 

 「今の将棋連盟はダメだ。自分が関西を中心に『新・将棋連盟』を立ち上げ、【真名人】を名乗ることにする」

 

 なんて言い出した上に、怒って勝負を挑んだ関東からの刺客プロを次々退け、ついには佐藤康光会長が、

 

 「こちらは五冠王の藤井聡太を出します! それで決着をつけましょう」

 

 と宣言するようなものだが、永世名人の羽生善治森内俊之といった面々は、藤井が名人位に近づくのを良く思わず「反・藤井」として裏で暗躍

 しかも、豊島九段の裏には、アべマTV利権をねらう、ヒューリックや、不二家などスポンサーがついていて、巻き返しをねらうドワンゴ囲碁将棋チャンネルも参戦し……。

 みたいなものだろうか。

 そんな妄想をたくましくしてみると、この関根-阪田戦が、メチャクチャにおもしろい対決であることがわかる。

 昔の将棋界は「興行」であり、その視点から見れば「プロレス」的でもあった。

 メンツと様々な思惑がからみ、次期名人候補であり、「本家」東京の大エース関根はもちろん、阪田の方も、

 

 「負けたら大阪に帰れない」

 

 覚悟を決めるほどの大一番だったのだ。

 

 (続く→こちら

 


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