星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

作品に題をつける

2008-08-25 | 持ち帰り展覧会
芦屋市立美術博物館の「3つの柱~コレクションの底力」のうちの大黒柱になる、吉原治良さんを中心とした「具体」の作品を、ゆっくり鑑賞してきた。

以前、私は抽象画の多くには、題がついていないことに不満を述べたことがある。
しかし、今回、具体のメンバーの、題名のついていない作品をみているうちに気付いた。
作者が名付けなかった抽象画は、見る人が勝手に題を付けていいのだと。

作者が作りたいものを作リ終えた時点でその作品は作者から離れた物となる。完成とは、作者とその作品の「出会い」の終わりのことなのだ。才能ある作者の興味はすぐにもう次の作品に向かう。
後はその絵をみる人と、その作品の「出会い」が待っている。

今回のコレクション展では、題名をつけたくなる作品がたくさんあった。
名付けることは、出会った証明である。

向井修二さんの1964年頃のこの「作品」に私は「空の上から」と名付けた。

         ~写真は所蔵品目録より

向井さんは、具体展でのデビュー当時、記号を書き込むことで、あらゆるものを等質化させ、そのものが本来持つ意味を無くすことに努めたらしい。「記号の部屋」というインスタレーションでは、部屋中の壁や家具やそこにいる自分自身にも細かい記号を書き込んでいる。

でも、今回、40年前にそんな作者から離れた「作品」を見ていると、記号そのものの楽しさに酔ってしまう。
元来、記号とは、「意味を持つから記号である」ことを思い出してしまうのだ。
そう、私は地図記号が好き。桑畑・果樹園・針葉樹林・牧草地・荒地etc。
(現在の日本地図上には、桑畑がどれだけ残っているのだろう。懐かしい桑畑、雷が落ちてこない聖地。私は今でも雷鳴が近づくと「桑原桑原クワバラクワバラ」が、つい口に出る)

161.5×130.0の画面に、作者が等質化をねらってつけた百種類以上の記号に、それぞれの意味をつけてみる。
でたらめで楽しい記号のそれぞれに、私が勝手にどんな意味をつけてもいいのだけど、どうしてもその意味にしかとれないものが、あった。
それは、「←」である。
作者が向かって右中央から大きく書いたこの「←」は、矢印の意味にしかとれない。
何かがそこから、その方向へ向かう。鳥か、飛行機か、念力か?
とにかく、じっと見ていると、3Dアートのように立体的に浮き出てくる向井さんのこの作品は、とてもいい。

このコレクション展では、上前智祐さんの1954年の「作品」にも、題名を付けた。

青赤黄緑紺などカラフルな1㎝四方の無数の四角い点が集まっている、まるで四角い頭のウォーリーを探せ、周囲は濃い蒼い闇色。
華やかな国威発揚オリンピック開会式が開かれているどこかの国の、同じ夜、暗い広場に集まって民主化要求集会を開いた人々、彼らの頭上を突然照らした光。その一瞬を捉えた作品。
~題は「もう一つの開会式」

どうやら私は、作者が名付けなかった作品に、勝手に題をつける、という抽象画の楽しみ方を見つけてしまったらしい。

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