星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

「記憶の中の神戸」

2007-08-19 | ネコが出てこない本
手術後順調に回復に向かっている母は、今病院のベッドの上でこんな本を読んでいる。
「記憶の中の神戸~わたしの育ったまちと戦争」画文:豊田和子(シーズプランニング)
 

母は1930年、神戸生まれ。空襲で焼け出され、祖父の故郷の四国に引き上げて、そこでお見合い結婚をして、私が生まれた。田舎に住みながら、お百姓さんが嫌い、戦後の食糧難の時代ひどいめにあったというのだ。周囲ととけ込まない孤独な人だ。
「あの戦争では、いい人カッコいい人から、順番に兵隊にとられて亡くなった。私が神戸の空襲で焼夷弾の中を逃げまどっていた時、父さんなんか、田舎でお米食べながら暢気に対岸の火事として見ていたのよ」と、同じく1930年生まれで、一つ上なら兵隊に行ったはずの父に対して、戦争体験の話をする時は一方的で手厳しい。

戦争ですっかり変わってしまったと、自分の人生を語る母の、神戸での楽しかった子供時代の話を、小さい頃から聞かされて育った私は、書店で偶然この本に出会った時、即座に買い求めた。

著者の豊田さんの出身校「神戸市立第一女学校」は母の母校で、豊田さんの方が一学年先輩だ。湊川神社をシンボルとする生活圏もほぼ同じ。戦前の神戸の下町の様子が実名で具体的に描かれている。戦争でみんな焼けてしまい、もはや記憶の中にしかない街。戦争体験もまた、自分の記憶の中にしか存在しなくなってしまうことへの豊田さんの焦りが、この素晴らしい本を生んだと思う。
豊田さんの絵と文から、戦時下の厳しい銃後の生活の中で、人との別れが日常的になっていくからこそ、美しいもの、楽しいことを求め、大切なことを心に秘めていた女学生の心情が伝わってくる。
これを読む母の中では、きっと豊田さんの記憶と自身の記憶がシンクロしていることだろう。

 

母さん、もう一つあなたにこの詩をプレゼントするから、頑張ってね。
1926年生まれ、私の尊敬する詩人、茨木のり子さんの詩ですよ。
 
  「わたしが一番きれいだったとき」     

 わたしが一番きれいだったとき
 街々はがらがら崩れていって
 とんでもないところから
 青空なんかが見えたりした

 わたしが一番きれいだったとき
 まわりの人達がたくさん死んだ
 工場で 海で 名もない島で
 わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 わたしが一番きれいだったとき
 だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
 男たちは挙手の礼しか知らなくて
 きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの頭はからっぽで
 わたしの心はかたくなで
 手足ばかりが栗色に光った

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの国は戦争で負けた
 そんな馬鹿なことってあるものか
 ブラウスの腕をまくり
 卑屈な町をのし歩いた

 わたしが一番きれいだったとき
 ラジオからはジャズが溢れた
 禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
 わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしはとてもふしあわせ
 わたしはとてもとんちんかん
 わたしはめっぽうさびしかった

 だから決めた できれば長生きすることに
 年とってから凄く美しい絵を描いた
 フランスのルオー爺さんのように ね
コメント
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