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机上の戦略で敗戦『戦艦武蔵』

2019-05-27 07:47:40 | 歴史から学ぶ

@世界最高・最大の戦艦「武蔵」と「大和」。儚くも大きな戦果もなく敵の航空機により集中攻撃で沈没させられる。ミッドウェー海戦での失敗・後悔から「船」から「飛行機」時代だと悟っていながら莫大な軍用費と資源を「巨大戦艦」に投資した当時の軍令部、また、暗号がバレているにも関わらず南西諸島での相次ぐ敗戦などの要因は、戦地から遠く離れた東京での「机上の作戦」は戦争を身近に体験していないエリート集団だったことは、現代になり誰もが知り得たことだ。才能・知能が優秀でも、やはり「現場」での経験と才能・知能が生かされなければスピード感を持ったいい製品・サービスは生まれない、と言う事だろう。まさにコンビニ24時間問題もこれにしかり。現場を知らずして収益(結果)を見るだけでは上手くいかない。

『戦艦武蔵』吉村昭

  • 日本帝国海軍の夢と野望をかけた浮沈の戦艦「武蔵」。厖大な人命と物資をただ浪費するために、人間が狂気的なエネルギーを注いだ戦争の本質とは何か。非論理的「愚行」に邁進した「人間」の内部に潜む奇怪さとはどういうものか。本書は戦争の神話的象徴である「武蔵」の極秘の建造から壮絶な終焉までを克明に綴り、壮大な劇の全貌を明らかにした記録文学の対策である。
  • 所員たちの確信は巨大な新型戦艦が海上に浮かべば日本国土は12分に守護されるだろうと。日本は海に囲まれた島国であるから洋上戦力が航空機よりも必須だと考えられた。
  • 「長崎造船所」(三菱会社・優秀な商船建造、戦艦日向、土佐、霧島などを建造、19万坪の土地に10万坪の建物、1万5千名、造船所長玉井喬介、のちに常務)での「第2号艦建造」は昭和13年春に計画が始まる。国際連合脱退を機に戦艦を増やすことに、だが諸問題に対して総力で取り組むことになった。請負代金5265万円、引渡日昭和17年3月31日。(最終的には6490万に増える)、同時期に呉海軍工廠での第一号艦・大和予算は1億4千万だった。第3号艦は横須賀、第4号艦は呉海軍工廠で予定された。いずれも7万トン級の戦艦であった。
  • 「大きな問題は船台」の幅38m、長さ305m(戦艦長門は幅29m、長さ213m)への推進台(松材)と増設作業に資材6801トン、鋲数58万9097本、鉄の溶接部分の長さ3万5740m、工員数21万6478名。対岸に艤装するための岸壁を増設作業(16万m3・11mの深さ)
  • 「極秘の為の目隠し」に大規模な棕櫚縄を買い占め、覆いを作った(高さ3mまではトタン、その上10mに棕櫚を張り巡らせた)、またイギリス・アメリカの領事館前には大規模な軍事倉庫を建て海側を遮断。
  • 「推進式」に於いては、満潮時に綿密な計算のもと滑り出すスピード(獣脂・菜種油・軟石鹸を使い2時間)と戦艦の横ぶれ、また棕櫚の扱い、当日は防空訓練として住民に対する規制管理(1200名の警戒隊員と警察)、海上交通を禁止、海上での煙幕など10月31日に決行した。が途中2本の推進台の内側で亀裂が発生したが無事に推進式を断行できた。2年8ヶ月の船体工事と推進準備に19時間を要した。
  • 船体の重さは3万6千トン、舷側に貼る鋼鉄は厚みが40cmなど大型の甲鉄は全て呉からの搬入で、艤装作業でも15百名の技師、工員が大砲大型重機等も揃えられた。艦橋の長寿おは水面から40m、艦底から50m(国会議事堂と同じ高さ)、内部は13階となっていた。斬新なことは2枚の舵は左右離して取り付けられた。これは魚雷で攻撃があっても片側だけは作動するように設計されていた。
  • 山本五十六、連合艦隊司令官は当初大和に乗船、連合艦隊の旗艦だったがその後武蔵に移った。武蔵の乗員は2500名、重油搭載は6300トン、航続距離は最大速力27ノットで4100里、16ノットで12000里、大和も武蔵も貴重な重油を軽減するためトラック諸島での出番を待つことが多く、山本五十六はラバウル上空で戦死。武蔵はその遺骨を持って日本に帰還した。横須賀では天皇の見学含め外装を塗り替え燃料等を補充し再びトラック諸島に出向する。昭和19年には米の空有軍の集中攻撃があり、数度の日本帰還後ボルネオ島へ他の戦艦等も急行、ミッドウエー海戦以来、ほとんど自殺行為に近い戦いをしており、武蔵はミンドロ島近くにて100機以上の敵機の攻撃を受け、シブヤン海に座礁させるべき航海したが沈没。猪口艦長は武蔵とともに殉死、乗組員2399名中1376名が生存した。だが、生存者でも帰国した者、再度戦闘へ出向き玉砕された者も多かった。