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植民地時代の犠牲『アウンサン将軍と三十人の志士』

2019-05-28 07:52:07 | 世界の動きから見えるもの

@120年間もの長期に渡る植民地国家、ミャンマー(旧ビルマ)が今新たな国家になろうとしている。独立への英雄「アウンサン将軍」(日本名面田紋次・軍人名ボ・テーザ、独立直前に暗殺)アウンサン・スーチ氏の父である。日本・海南島で軍事訓練など、母国ビルマを独立させるために日本軍の支援を求めた。だが、戦争は悲惨である。戦前のイギリス植民地から奪回する協力の合意を得ていた日本が裏切り、その後イギリス含めた連合軍も独立拒否続けた結果、このような長期の植民地政策のまま存続したのである。結局「力は権力=武力」しか通用しなかった現実はとても悲しい。だが、漸くその前途の光が見え始めたような気もする、ミャンマー。歴史を知ってミャンマー・ヤンゴンを訪れる事でより文化・国民生活が理解できる。日本、世界からの投資、支援はこれから。これからの若きミャンマーに元気が見えた。下記の写真は2019年4月に訪問した時のヤンゴン市内である。

『アウンサン将軍と三十人の志士』ボ・ミンガウン

  • ビルマの独立義勇軍と日本。祖国独立を夢見るアウンサン以下30人は南機関の手により、密かにビルマを脱出、日本に向かった。行く手には各地での厳しい軍事訓練が待っていたが、30人は国民性の違いが生む様々な戸惑いと障害をアウンサン統率の下若い情熱によって克服し、日本軍のビルマ侵攻に義勇軍を結成して参戦、イギリス統治下の祖国奪回に成功した。しかし、この後、ビルマは真の独立を目指して日本軍に対する一斉蜂起を敢行した。
  • 1826年ヤンダボ条約によりイギリスに割譲、1947年のアトリー条約(ビルマの独立を決めた条約)約120年間、ビルマ国民は植民地として苦しみを味わった。国の独立を懇願する仲間、ドバマ協会に集まったタキン・アウンサン(1915〜1947年)やタキン・ミャ(1897〜1947年)らは1930年に反英国の暴動を機に武装闘争の準備をしていた。イギリス政府は当時、サヤー・サン(元医師・僧侶)など78人を処刑、死傷者3千人、逮捕者8300人。その時、サヤー・サンの叫びは「余を処刑せよ、しかし余の精神は滅びない。死後もあくまで邪悪なイギリス人に抵抗する」を残した。
  • アウンサンは海外からの協力を得ようと1940年中国に向かうが、資金が底を尽き上手く運ばなかった。そんな時日本政府と手を組んだのが南方軍司令部の鈴木大佐(有力新聞記者として派遣されていた)とドバマ協会の目的である英国植民地政府軍への反抗と独立、日本軍の目的であるビルマからの外国物資の中国への輸送阻止で合意する。「同じアジア人じゃないか、手を繋いで一緒にやろう」と言うことになる。
  • 1941年、25歳だったアウンサンら30名は母国を離れ軍事訓練と資金・武器を確保するために日本に向かった。「悪しき選択の中での最良の道」(中国から日本・一部ファシスト系)を選んだ30人は東京、京都、大阪、横浜、名古屋、富士山など見学後、箱根から軍事訓練のため海南島へと向かう。日本軍としてはビルマ人を確保し軍事訓練している事を孤島で秘密保持し、当時は日本軍がビルマに侵攻する計画はなかった。
  • 軍事訓練ではゴミ拾い、掃除などが中心で根性、勇気、それに何よりも忍耐力・忍耐心が鍛えられた。ビルマ人には味噌汁・たくあんはまずく合わなかった。また、ビルマでは平手で頬を殴るは最大の侮辱でありそれにも耐えた。数ヶ月後、ビルマに派遣されたのが2名、あとはバンコクへ送られた。1941年27人はバンコクでビルマ独立義勇軍(BIA)を設立、ビルマで内乱を起こさせ、侵攻する戦略だったがだが、日本軍第15軍との話し合いが合わず阻止される。また、独立への意思も削がれ日本軍が中心に戦略・侵攻指令が出されるようになる。それはビルマの石油、亜鉛、タングステンなどの鉱物資源を軍が確保する目的に変わり、次第に不穏な関係へと繋がっった。
  • 2月末にようやく日本軍とともにBIAがビルマに侵攻、祖国に凱旋し、ビルマ到着数週間で住民などの強力で20万人に正規軍が増えた。やがて3月8日にはヤンゴンを制圧、その後日本軍、BIAはビルマ全土を占領、統治する計画に入った。だが、日本軍はBIAに対し独立を与えるどころか6月には軍政を布い、BIAは日本軍に対して警告を発した「日本人がこう言う事を続けるなら、我々は反乱を起こすかもしれない。もうこれ以上我慢できない」とまで当初の合意に対して独立統治を迫った。ビルマは多民族であり、カレン族はキリスト教・イギリス側を支援などビルマ独立はまだ先だと迫っていた。
  • 1945年3月27日、アウンサン将軍率いるビルマ国軍(BIA)は日本軍に対日決起を踏み切る。約177回の戦闘を繰り返し、4月23日、日本軍3023名の死者で日本軍は撤退する。やがて英国・インド軍がヤンゴンに侵入し、連合国軍の指揮下に入り、独立交渉をする。が、又しても交渉は決裂、1945年8月、アウンサンは軍を離れ政治活動に専念する。
  • 1947年7月19日、戦前首相を務めた保守派政治家ウー・ソオによって送られたテロリストがアウンサンたち7名の閣僚を暗殺する。動機は最大の政治勢力であるパサパラ内部に共産党など左翼性の勢力への焦りとアウンサン個人への嫉妬心と権力への野望であった。
  • 1988年8月26日、43年後、アウンサンの娘が集会で演説、一党軍事政権から複数政党性への意向を訴えた。軍事政権の国軍参謀総長筆頭は三十人の一人ネウインであり、反政府武装勢力を鎮圧させビル連邦崩壊の危機を救った。だが、ここにきてアウンサン将軍の娘アウンサン・スーチが対抗してきた。