@米沢藩主上杉鷹山の師匠は細井平洲、細井平洲の師匠は中西淡淵という学者。いずれの思想・学問の基本は「学問の目的は、世の中の役に立つ事を学び、実行する事」とある。今の学校での勉強はその域を超え、受験の為、点数で他人を超え、世間一般では役に立たない質問でも回答することが優等生として表彰する仕組みに変わっている。 それと筆者の「日本人は生きるための目的と哲学を持たない民族」とあるが、そうかもしれない。何の為の勉強なのか、目的は何なのか。親は大学に入れば役割終了とする目的しかないのか。 私の知る、米国、ベトナムでも勉強は小中学校から社会の一員としての才能を生かした人間性をしっかり見据えている。「世の中に役に立たない勉強」を何故、殊更難しく教育者は教えているのか。今の無駄な時間と無駄な勉強を思い切り切り捨て、ここにあるような師匠、個人カウンセラーで生徒の適した、才能を見出し「道」を案内する職が、そろそろ必要だと感じる。
『細井平洲』二宮隆雄
- 「人を育て、善政を助けた実学の人」
- 細井平洲こと甚三郎(17歳)の師は中西淡淵であり、その教えは「学問は知識の量ではなく、また細かい字句の研究でもない。学問は書物から学んだ事を、日々の暮らしにどう生かすかが大切だ。」、また「他人の目を気にすることなく、人間それぞれの個性を尊重し、それぞれの能力において、世の役に立てるようにするのが学問だ」
- 中西淡淵は名古屋城下の円頓寺の下屋敷「叢桂社」学問所を営む学者、甚三郎は尾張国平島村の豪農細井甚十郎の次男であった。両親は甚三郎に勉学をさせる道を選び、名古屋、京都、長崎での生活費等を出したが、甚三郎はほとんど書籍を購入し読み漁る日々を続けた。才能を見抜いたのは近くの義寛和尚で「人の人生は、火打石の花火のように短いものじゃ。あのカタツムリの歩みはいかにも鈍いが、あやつにすれば懸命に行動している。カタツムリに暇がないように、わしにも暇など感じておられぬ。教えることはもうない、名古屋に出て学問を続けるべきじゃ」と勧めたことがきっかけで学問を追求するようになる。
- 中西淡淵に勧められ長崎で漢詩を学ぶ。そこで、中国語・漢語を学ぶ。特に孔子の「詩経」であった。中西の支援で、その後江戸に出る。雄藩の学問所「昌平黌」に出向くが朱子学以外は別物と自分で塾を開講する。塾生も増えたが、平洲は「辻説法」という路上で説法をするという教えで自分自身への修行としたことだ。この意義は民衆に日々の生活の参考になることをわかりやすく教え、耳を傾けてもらい、納得してもらえるのかを試す修行をしていた。それは平洲の哲学「仕官をして、他人がもたらす富で楽に暮らすことと、学問で自立して、貧に甘んじることと、どちらが学問の道に適っているのかを説いた」
- 「米沢藩」財政難であり藩を立て直すことが先決とした藩は藁科松柏(藩医)が平洲を見立て藩主の学師として招く事に。高鍋藩主の次男を藩主(のちの上杉鷹山)に決定し、藩革命を実行する事になる。
- 平洲は鷹山に毎月2回「大学」の講義で、「学問の目的は、『実行』の2文字に尽きる、行われない学問など机上の空論に過ぎない」と。
- 「鷹山の改革」
- 教育の振興(人づくりが一番大切)
- 経済の再建(節約・倹約から経済・収益を立て直す)
- 全て「勇なるかな、勇なるかな、勇にあらずんば、何を持って行われんや」と『勇気を持って実行する事』を第一とした。
- 間引きの禁止(人口減少は収入の減少につながる)
- 農民への税を軽く、農地を回復させる工夫をする(植樹)
- 農民のゆとりを持たせるための施策(苗木・補助)
- 江戸大火での復興施策(武士・大工・農民の一致協力)
- 「国元での鷹山の行動指示」
- 老人の話に耳を傾け、重臣から足軽まで自分で声を掛ける
- 賞罰を決め、罪人を許す
- 粘りつよく立ち向かい継続させることが肝心とした
- 元藩主重定には随時丁寧に説明し、後日賛同を得る。それは七人の家臣の弾劾書を突き返し、七人に対して切腹・蟄居沙汰をする事になる。(どんなによく効く良薬があっても、1粒か2粒の毒が混じれば、その毒で良薬の効力が消えてしまう)
- 「鷹山は平洲を国元に呼び、行った行動」
- 藩主への講義も含め農民・誰もが参加できる講話をする
- 講話の内容は親の道、子の道など判りやすく笑いあり、涙あり
- お礼の金銀、服などを返礼した(無法報酬、自分への修行)
- 「ふるさと尾張藩での講義」
- 尾張徳川・地元の先輩・長老の話を聞くなどの配慮
- 「人の上に立つ力を持つと、自分の勢力を大きくして、ぬるま湯に浸かってわがままに振舞いたいために、自分に擦り寄るものだけを集めて徒党を組むことなど一切好まなかった。」
- 「日本人は生きるための目的と哲学を持たない民族」、平洲は「好きなことを終生やり抜く・・・」人生だった。