最後の供養花火 (同窓会通信)
令和元年8月3日。
私たちが遊んだ「思い川」の花火大会が開催されました。
数えて第15回になります。
私たち同窓会の供養花火の打ち上げは、
広沢琢也の発案で、有志のみなさんの協力の下に長い間続けてまいりましたが、
残念なことに花火大会もいろいろの事情があり今年で最後となりました。
そんなわけで私たちの供養花火も終わりを迎えることになりました。
ここ数年私は雑踏の喧騒を離れた場所から、
遠花火を眺めながら、
遠い昔、
今は無くなってしまった旧川原小学校の学び舎の小使いさんが鳴らすカネの音や、
汚れた足をポンプの水で洗った時の気持ちよさなどを思い出していました。
近くには文房具などを売っているお店が二件ありました。
中山敦子さんのお母さんが切り盛りする小さなお店でした。
親一人子一人のお店に、
学校が終わると私たちはこのお店で遊んでいくのが一つの楽しみでもありました。
学校から少し離れたところには「醬油屋」という屋号を持ったお店がありました。
村の中では昔からの軒構えの大きな家でした。
伊坂雅子さんが生まれた家です。
この二人は、私たち悪ガキの間ではマドンナとしての輝きを持っていました。
懐かしい思い出が打ち上げ花火の音と一緒に湧き上り消えていきます。
遠花火を見るのもこれが最後と思うと一層、懐かしさがこみ上げてきました。
仮の世のはかなきものに遠花火…………細川コマエ
遠花火今宵は逝きし人のこと …………中嶋昌子
悔いなしと言へぬ半生遠花火 …………久保田雪枝
ここに「逝きて還らぬ人」となった人たちの名を挙げてご冥福を祈りたいと思います。
(原文ではすでに彼岸に旅立った32名の名前をあげましたが、ここではカットさせていただきました)
………
ついに私たちも後期高齢者の仲間入りをする年になりました。
一日一日を健康に生きたいと誰もが願います。
最後の人生行路を慈しみ、
豊かに生きていくことを願いがら、
残りの人生に繋げていきましょう。
(同窓会通信をブログ用にアレンジしました。個人の名は仮名としました)
(2019.10.4記) (つれづれ日記№79)
小さな村の学校でした。学年会ですから、3組合わせて80人いた同期生も年々減少していきます。
彼岸に旅立つ人、後期高齢者の年齢になって、どんな事情があったのでしょう、突然の疾走者などもあり、この年になっての疾走はとてもつらいものがあると思います。
中には、行方を追いかけたが、いろいろの事情があって行方不明として蓋をしてしまう場合もあります。
人生の縮図がぎっしり詰まった同窓会で、追跡調査も随分しました。
同窓会の内容については、不参加者全員にその様子を記録し、郵送しています。
「竹馬の友」が名前だけでなく、打てば響く関係として長年継続が維持できるよう皆さんが協力してくれています。隔年おきに宿泊同窓会もやっていましたが、今年からは宿泊はやめにし、地元での同窓会に切り替えました。
健康であることの小さな幸せを会えば、酒を酌み交わし語り合える楽しい同窓会です。
羨ましくもあり、供養花火で供養される方の32名との多さに少し悲しくもあります。
反対に、15年の長きに亘り繋がってきた供養花火に感動を覚えます。
最後の四行を引用させて頂きます。
「一日一日を健康に生きたいと誰もが願います。
最後の人生行路を慈しみ、
豊かに生きていくことを願いがら、
残りの人生に繋げていきましょう。」
自分自身もかくありたいと思った次第です。
ありがとうございます。