追悼・船村徹(10) 高野は故郷の土に眠る
国道をそれて山道を入って行く。
まばらに人家と石屋さんの工場があるのみで、写真のような林が
続いている。道路は大郷戸の集落と隣接する集落を繋ぐための生活道路だ。
観光客やこの周辺に関係のある人以外には通らない道だ。
「別れの一本杉」の歌碑と地蔵があることなど土地の人以外には知らないだろう。
案内板もない。
山間の道がそろそろ終わり、大郷戸の集落に近くなったころ、
歌碑と石の地蔵さんと一本杉が現れる。
高野が作詞した「別れの一本杉」の歌碑のわきには
船村の自筆で次のように記されている。
公男の歌魂は
とこしえに
ふる里の山河に
ねむる
平成十五年 秋
船村 徹
歌碑の後ろに立っている杉の木の根元には、小さなお地蔵さんが祀られていました。
明らかに、歌碑を建てた人とは別人が設置したように思われます。
この一帯は御影石の産地で、
加工場も多く誰かが若くして夭折した高野の業績を偲び設置したように思われます。
礎石もなく花立もない。石と石の間に差し込まれた季節外れの造花がそれを物語っています。
「別れの一本杉」と「男の友情」に思いを馳せる人が、ひっそりと設置したと思えるような
♪♪石の地蔵さん♪♪です。
大郷戸の集落に入ると、前方左手に山の斜面にへばりつくように造られた墓地を
発見する。小さな集落だから個人の墓地以外は、「集落(地区)の墓地」として
管理されているに違いない。
一本杉地蔵がそうであったように、高野の墓も案内板など何処にもない。
道路わきに車を止め斜面の道をゆっくり登っていく。
斜面を登ったいちばん奥に、高野家の墓はあった。
この斜面を登っていくとやがて村社が現れる。境内は広々としており、
子どもたちの格好の遊び場所になるような空間だ。
おそらく、高野少年もこの境内で、棒切れなどを持って遊びまわったのだろう。
高野家の墓所。
ここにも船村が高野に呼びかけた
「友よ 土の中は 寒いのだろうか……」の全文が掲げられている。
【全文は、追悼・船村徹(7) 船村と高野 絆の譜に掲載してあります】
「別れの一本杉」歌碑があり、次のような碑も建っていた。
高野公男(吉郎)の譜
昭和五年二月六日 茨城縣笠間市大郷戸〇〇〇番
地に生まれる。昭和二十年三月 西茨城郡北山内
尋常髙等小学校を卒業後、上京、小松川工業髙校
向島工業髙校を経て東洋音楽学校に入学、詩作
の道に入る。音楽学校時代の親友 船村徹と共に
作詩、作曲のコンビを組み、戦後の日本歌謡界不
朽の名作と云われる「別れの一本杉」を始め「あ
の娘が泣いてる波止場」「男の友情」「早く帰っ
てコ」「ハンドル人生」「ご機嫌さんよ達者かね」
「三味線マドロス」等、多くの名作を残す。
昭和二十九年初夏、胸を病み、親友船村徹と
の数多い友情物語を残し、昭和三十一年国
立水戸病院にて没、二十六年間の短くも悲しい
ドラマはおわった。見知らぬ人の歌声と共に
※「大郷戸〇〇〇番地に生まれる。」と碑面にあり、正確な
番地も刻んでありましたが、観光目的の墓所ではないので
伏字にしました。
後ろ髪惹かれる思いで、大郷戸の集落を後にしました。
(つれづれに……心もよう№55)
次回は最終回です。船村徹の葬儀の様子を紹介します。
(2017.03.16記)
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