落合順平 作品集

現代小説の部屋。

「舞台裏の仲間たち」(22)   第五章(1)「動」と「静」

2012-09-13 10:48:58 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(22)
  第五章(1)「動」と「静」



 「あなたが今、
 おつきあいをしていらっしゃるお嬢さんと
 ちょうど同じくらいの年頃の娘が、私どもにも一人おりました。
 といっても、もう10年も前に亡くなってしまったのですが・・・
 すこし失礼な言い方ですが、
 あなたを見ていて、腫れものか壊れものに触るような
 初々しさを感じていましたので、
 もしかしたらまだ、結婚をされていないのではと
 密かに私は見ておりました。
 間違っていたら非常に、申し訳ない話です。」



 「ご推察の通りです。
 つき合ってはいますが、まだ結婚にはいたっておりません。」



 「やはり、そうでしたか。
 女性へのいたわり方に、
 なにか・・・遠慮のようなものを感じましたもので
 ふと、そんな失礼を申し上げてしまいました。」



 「交際中と結婚後では
 見る人にとって、変化が現れてくるのですか?
 どんな風に変わるのでしょうか、
 大変に興味のある話です。」





 「いえいえ、たぶん
 外見上は、何も変わりはありません。
 夫婦となり、肌を合わせることによって「情」というものが生まれ、
 それが長い時間をかけて、男と女の間で熟成を重ねます。
 まぁ、そんな気配のようなものが、自然とお互いの身に着いてくるようです。
 恋人たちの間では、まだそういう空気も
 匂いも雰囲気さえも生まれては来ないと思います。
 たぶん、長く情を交わし合った夫婦特有のものでしょう。」


 「はあ・・・
 経験はありませんが、
 なんとなく、わかるような気がします。」



 「素直な方です。
 そういえば、碌山美術館は初めてではありませんね。
 何度かお見えになったような気配でしたから。
 慣れた足取りで、中庭の散策なども楽しんでおいででしたし、
 何度目ですか?」

 「今日で、3度目です。
 それにしても、鋭いですね・・・
 全部、お見通しの通りです、、おそれいりました。」




 「話を元に戻しましょう。
 わたしどもの一人娘に縁がありまして、30歳近くになって
 ようやく嫁いでくれました。
 半年ほどで子供も始まり、やれ、孫の顔が見られると
 二人して喜んでいたのもつかの間でした。
 不運な事故に遭遇してしまい、
 母子ともどもに帰らぬ人になってしまいました。
 実は、それからなのです。
 うちのがあんな風に変わり始めてしまったのは・・・
 別に病気と言う訳ではないのですが、
 同じくらいの年頃の娘さんを見ると、
 なにかと世話を焼きたがるように変わり始めました。



  いやいや、そちらにすれば大変に、迷惑な話だと思います。
 しかし、あれにしてみれば、
 そのようなことで、寂しさを紛らわしているのかもしれません・・・
 今朝ほどもそうでした。
 あれが、娘が帰ってきたと大喜びをしていたのです。
 そんな馬鹿なと思いましたが、遠めに見ると
 背格好と言い、雰囲気といい、なるほどあれが言うとおりに
 私にも、本当に娘が返ってきたように見えてしまいました。
 もうそうなると、二人してどうにもなりません。
 大変に無理なお願いをしてしまいました。
 いやいや私にしてみれば、無理を聴いていただいただけでも
 たいへん感謝に堪えません。
 さァ、もう一杯、いきましょう。」




 もう一度すすめられたので、気分よくまた盃を干しました。
勢いに乗った形で、おじいちゃんに返杯を注ぐと、嬉しそうに目を細めて、それを丁寧に呑みほしてくれました。




 「男女の情と言うお話を伺いましたが
 具体的には、どんなことを指すのでしょうか?。」


 「静中の動、動中の静、
 という言葉を、お若い方たちはご存知ですか。
 ・・・例えばですが、
 碌山の彫刻にもこの動と静が
 実に巧みに取り入れられています。
 要は、相容れないはずのふたつのものが、実に見事に
 融合をするということの例えです。
 長野出身のある写真家が、碌山の彫刻の特徴を、
 西洋彫刻に見られる【動】の魅力と、
 日本の仏像などに特徴的な【静】の融合だと
 説明をした事がありました。
 まさに、その通り、
 けだし名言だと、私は思っています。」


 
 ご主人がまた、熱燗をすすめてくれました。
ホロ酔い加減となってきたおじいちゃんは、本当は大変な饒舌家でした。
酔いが回るにつれて、あれ(奥さん)がとびきりの”黒光”ファンであることを暴露してしまいました。
碌山美術館へ足まめに通っているのも、碌山芸術への関心より、”女”の中に秘められている黒光への思暮や、
情熱ぶりを見ることが大好きなのだと言い切りました。


 たぶん家でも今頃は、女同士で、黒光の少女時代の話から始まって、ただ絵を書くことだけが好きだった
少年時代の碌山との出会いについて語っているでしょう・・・と、声をたてて笑いました。
ところで、と、また話題をもとにもどしました。
 


 碌山の彫刻に込められている「静中の動」と「動中の静」について、自身の考えを語り始めました。
日本の古い仏像などによくみられる「静中の動」を今すぐ見たいのなら、
一本の木の下に立って見上げればよい、と言い始めます。


 幹を通り四方八方に向かって枝を通して伸びていくその姿の中に静中の動がある、と説明をしました。
その動勢(どうせい)を彫塑や、絵画などの内側に作り出していくためには作家自身の洞察力と、
造形に対する深い想(おも)いが必要となり、そしてなによりも技術が
問われると強調をしました


 碌山がロダンの彫刻に見つけた「動中の静」を共感したければ、風に揺れ動く木を見ればよいと言いだしました。
木は荒ぶる風に翻弄(ほんろう)されているように見える、と語ります。
だが幹は、内なる螺旋(らせん)構造を解いたり締めたりして風を受け流し、軸は揺るぐことのない
動中の静を保っている、と説明をしてくれました。



 う~ん、なるほど、共感をしてしまいました。


 たしかに、碌山の絶作にあたる【女】には、複雑な構成であるのにも関わらず、
内部構造は自然の理にかなっていて、天空に向うその動勢ぶりを見事に表現をしていました。
また、【女】を右横から眺めてみると、膝から上の姿勢がスキージャンプで力を溜めて、
踏み切る瞬間の姿と重なっていています。
まさに、静中の動のひとつの典型を示しています。



 一方で、膝下を前後させて、胴体へと至る螺旋の動きを作ることで、動中の静をつかさどり、
大地から天空へと伸びていく軸の存在を予見させていました。
明治に生まれたこの彫刻、【女】は、西洋と日本人独特の見方をすりあわせたという彫塑の将来性を
垣間見せてくれた、一大傑作だと強調をした後で「男女のことも、また似たようなものである。」と、おじいちゃんが、
勝手に話を締めくくってしまいました。



 結局、静と動に関してはよく理解は出来ましたが
男女の「情」については、見事にはぐらかされてしまいました・・・
やはり自分で「見つけろ」ということなんだと思います。





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