上州の「寅」(4)
寅は冷めているわけではない。しかし熱くなることはほとんどない。
彼女は居ない。いや、女ともだちすら存在しない。
欲しいと思ったこともない。
20歳を過ぎたというのに、いまだ初恋を経験していない。
「親もおらんし、兄弟はアルバイトと部活で留守か。
となると実家へ帰っても意味はない。
ということは年末年始は八王子の、この部屋で過ごすことになる」
困ったもんだと、ごろり寝転ぶ。
石橋を叩いて渡らないどころか、そのまま帰ってしまうのんき者。
対策を考えているうち、いつしかウトウト。そのまま深い眠りの中へ落ちていく。
「あれ・・・」
目覚めた時。窓の外はすでに真っ暗。いつの間にか日が暮れている。
「よく寝た。腹減ったな」
冷蔵庫を開けてみる。中は空だ。
何もない。買い出しもしていない。実家へ戻る予定でいたからだ。
「しょうがねぇ。ラーメンでも食いに行くか」
八王子にはご当地ラーメンがある。
醤油ベースのあっさりしたスープに、刻みタマネギがたっぷり入る。
スープの表面に薄い油の膜が張っている。
この油が玉ねぎの辛みをうまく抑える。
ふらりと出た寅が馴染みのラーメン屋ののれんをくぐる。
「いつもの!」
「あいよ。毎度。
あれ・・・なんでぇ。まだ居たのか。上州へ帰るはずじゃなかったのか。
電車賃でも落としたか?」
「金は落としていない。
銀婚式で両親はハワイ。兄弟はバイトと部活で実家は無人。
というわけで今夜からここで、わびしい夕食を喰うことになる」
「なるほど。それは災難だ。
ということは暇を持て余しているな、この年末年始」
「予定は皆無」
「そいつは好都合だ」
「好都合?」
「人探しを頼まれているんだ。年末年始のアルバイトの」
「年末年始のアルバイト?」
「1日、1万五千円。どうだ。わるくないだろう」
「いいね。どんな仕事?」
「接客業。とだけ聞いている」
「接客業か。できるかな。俺に」
「簡単だから誰でもできるそうだ。
その気があるのなら電話してみな。これが先方の番号だ」
マスターがカウンターの上へメモを置く。
大晦日から5日間。正月用品を販売するかんたんな仕事。
日当1万五千円。経験不問。男女問わず先着3人。
連絡先は住友総合商社、人事担当、大前田と書いてある。
(5)へつづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます