「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第44話 竹林を歩く
佳つ乃(かつの)足の速さには、異常なものがある。
着物姿の大きなお姐さんたちを見つけた瞬間、あっという間に門を飛び出し、
竹林の中に、姿をくらましていた。
姐さんたちの一行を駐車場まで見送った後、似顔絵師が戻ってくると、
竹林の中から佳つ乃(かつの)が、何食わぬ顔で姿を現した。
「悪戯をしているわけではないから、姿を隠す必要はないそうだ。
それにしてもあなたは、足が速いねぇ。
普段は着物でしゃなりと歩いているから、気がつかなかったけど、
100メートルを走らせたら、金メダルが取れそうだ」
「そうどすやろ。
逃げる必要はまるっきしなかったんいうのに、気が付いたら
反射的に走っとたんどす。
きっと履きやすくて、軽量過ぎる、この運動靴のせいどすなぁ。
そういえばさいぜん、おっきいお姐はんから、何や預かったようどすなあ?」
「君に渡してくれと、2つの品を預かった。
芸妓さんが必携のはずの日傘と、顔を隠すためのサングラスだ。
ついでにあんたが、売れっ子芸妓の佳つ乃(かつの)の新しい恋人かって、
しつこく、さんざん追及された。
君ってさぁ、もしかして、恋多き祇園の女なのかい?」
サングラスと日傘を受け取った佳つ乃(かつの)が、ふふふと小さく鼻を鳴らす。
そのままサングラスを頭に乗せ、はらりと音を立てて、日傘を開く。
「30を過ぎてしもうた女に、いまさら、過去の恋愛なんか聞かんといて。
ひとつも有りませんと言えば、嘘んなります。
けど、うまくいかなかったから、いまでも独り身のまんまどす。
哀れな女は祇園甲部には、掃いてほかすほど、おりますゆえ」
「花街の人たちは、揃いも揃って恋愛が下手という意味なのですか。
もしかして?」
「聞き捨てなってませんなぁ。
あんたっていうお人は、花街の独身を、全員そろって敵に回すつもりどすか。
そうではおへん。恋愛をする余裕があらへんのどす。
女の一番大事な時期を、芸事の修練と、お座敷で明け暮れるからどす。
毎日が忙しすぎて、恋愛に浸っておる隙間なんか、あらへんのや」
「でも君は、実際に恋をしてきただろう。
過去に1度や2度、人を熱烈に好きになったはずだろう?」
「いけずやなぁ、あんたはんも。
はいはい、ウチも人並みに、殿方に恋をしてきましたぇ。
けどなぁ、どれもこれもみんな、ウチの勝手な片思いばかりどす。
好きんなるのはみんな、奥はん持ちの、年配者ばかりどす」
「そうか。成功した年配者に懲りて、今度は若い男にターゲットを
絞ったわけか。多少は、学習能力が有りそうだな、君にも。うふふ」
「いけずやなぁ。ほんまに。
あんたを応援するとは言うたけど、まだ、恋人にするとは言うてへん。
人生に成功した人たちも嫌いやけど、出世の階段を登り損ねて、
いまだに愚図愚図しとる人も大嫌いや。
ウチ、ホントは考え方が、天邪鬼(あまのじゃく)やねん。
ああ・・・何度も恋することにしくじったとはいえ、なんでいまさら、
あんたみたいな変なのを拾ったんやろ。
拾うてしもうた自分が、信じられへん。なんでやろ・・・」
くるりと背を向けた佳つ乃(かつの)が、竹林の中をスタスタと歩き出す。
拗ねた時の佳つ乃(かつの)は、気配だけですぐ分かる。
寂しそうな背中が、暖かい手の到着を待っているからだ。
すぐに追いついた路上似顔絵師が、佳つ乃(かつの)の背中へ手を回す。
クスリと笑った佳つ乃(かつの)が、眩しそうに目で、似顔絵師の顔を見上げる。
(あんたと本気で、夫婦になる日は来るんやろか・・・
弟みたいに思うとるけど、まだまだ男性としての魅力は、不十分過ぎる。
添い遂げたい気持ちは有るけど、この竹林と同じように、出口は見えんまんまや。
いけんいけん。先を急いだらいけん。
この人の、澄んだ瞳を好きになったしもうた、ウチが悪いんや。
ウチの本心は当分の間、封印したまんまにしておこか・・・
我慢や、我慢。
ああ、ウチの恋愛はどうしていつも、こんな風に傾くんやろ)
奥嵯峨野の竹林は、まるで海のように、どこまでも果てしなく続いていく。
青い木洩れ日が、2人の行く手にゆらゆらと揺れている。
いつだったかこんな風にしてこの道を、片思いの男性と歩いたことを、突然
佳つ乃(かつの)が思い出す。
(あっ、あかん・・・やっぱりここは、縁起の悪い道や。
堪忍してな路上似顔絵師はん。破談になったら、やっぱりウチのせいや。
ウチは恋をしたら、いけん運命の女かもしれんなぁ・・・)
まいったなぁ、と佳つ乃(かつの)が、くるりと日傘を回してみせる。
第45話につづく
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