農協おくりびと (67)光悦に、兄が居た
「ワシにも考えがある」と長老が、はっきり口にした。
「だがなぁ、事態はきわめて複雑じゃ。簡単に解決の糸口は見つからんじゃろう。
お前さんが、どうしてもお寺の大黒さんになりたいというのなら、話は別じゃ。
方法がまったく無いわけではない。
しかしなぁ。もうひとりのちひろという存在が有るからなぁ・・・」
長老の口からまた、もうひとりのちひろの名前が飛び出してきた。
僧侶の奥さんのことを「大黒さん」と呼ぶ。
「坊守(ぼうもり)さん」と呼んでいる宗派も有る。
僧侶たちは長い時代にわたり、妻をもつことが禁じられてきた。
僧侶の妻帯が許可されたのは、明治5年。
誕生したばかりの明治政府が、『いまより僧侶の肉食妻帯蓄髪勝手たるべし』
の布告を出したときからだ。
この布告により戒律を守るべき僧侶が、肉を食べ、妻を持ち、髪を伸ばしても
自由とはじめて認められた。
『大黒さん』や『坊守さん』という呼び方をしていたのは、
妻帯が許されなかった封建時代の名残だ。
長楽寺の檀家総代役の長老は、どこへいっても顏が効く。
長楽寺は、武士が力を持ちはじめた鎌倉時代からの、古い歴史を持っている。
このあたりで最大級の規模を誇る寺院でもある。
同じ宗派という事もあり、隣りの集落にある光悦の寺とのつながりは深い。
他人が知らない光悦の情報を、たくさん知り尽くしている。
その長老の口から、突然、もうひとりのちひろの名前が飛び出してきた。
もうひとりのちひろを知っているということは、当然、ちひろが産んだ双子の
存在も知っていることになる。
「その双子のことですが・・・」と口にしたとき。
腕時計を覗き込んだ長老が、『少し待て』とちひろをさえぎる。
「すまんのう。明日の準備でワシも死ぬほど忙しい。
お前さんが知りたいことは、山ほどあるじゃろうが、今日のワシは
塩梅が悪い。お、そうじゃ。お前。
光悦に年の離れた兄貴が居たことは、知っておろう?」
「はい。会ったことはありませんが、噂は聞いたことが有ります。
不治の病気で亡くなったと、聞いていますが」
「知っておったか。ならば、話は早い。
いや・・・いまのはワシの独り言じゃ。執着するな、忘れてくれ。
では明日になったら、また会おう」
「おお、忙しい!」と長老が、あたふたと消えていく。
今日もまた忙しさを口実に長老の口から、真実を語られることはなかった。
(長老は何もかも知っている。知っているけど、語りたくない複雑な事情があるようです。
まいったなぁ。いつまでたってもわたしは、光悦の蚊帳の外です・・・)
光悦に兄が居たことは、ちひろも知っている。
だがちひろと光悦が境内で遊び始めた頃から、寺に兄の姿は無かった。
先代の奥さんが産んだ腹違いの子が、光悦の兄だ。
兄を産んだ先代の奥さんは、ちひろが生まれる前に亡くなっている。
光悦はその直後に嫁いできた後妻の子だ。
兄の居なくなったいま、光悦は、唯一の寺の跡取り息子ということになる。
なぜこんなことになるのか。寺には雑用が無限に有る。
境内や伽藍の清掃。日々顔を出す檀家信徒たちの接待。寺の経理。
住職の世話などなど多岐にわたる。
こうしたすべての雑用を『寺族』と呼ばれる人たちが、無報酬でせっせとこなす。
ほとんどの寺院に、手伝いの僧をおける経済的余裕が無い。
したがって法要ひとつ営むにしても、会場の設営から後席の準備まで、すべてを
『寺族』がこなさなければならない。
妻と言う『寺族』居なければ、人手が足らず、すぐに運営に支障が出る。
前妻が亡くなれば、すぐに後妻をもらう必要が出てくる。
貧乏寺院に欠かすことの出来ない戦力、それが妻と言う名の『寺族』なのだ。
(68)へつづく
新田さらだ館は、こちら
「ワシにも考えがある」と長老が、はっきり口にした。
「だがなぁ、事態はきわめて複雑じゃ。簡単に解決の糸口は見つからんじゃろう。
お前さんが、どうしてもお寺の大黒さんになりたいというのなら、話は別じゃ。
方法がまったく無いわけではない。
しかしなぁ。もうひとりのちひろという存在が有るからなぁ・・・」
長老の口からまた、もうひとりのちひろの名前が飛び出してきた。
僧侶の奥さんのことを「大黒さん」と呼ぶ。
「坊守(ぼうもり)さん」と呼んでいる宗派も有る。
僧侶たちは長い時代にわたり、妻をもつことが禁じられてきた。
僧侶の妻帯が許可されたのは、明治5年。
誕生したばかりの明治政府が、『いまより僧侶の肉食妻帯蓄髪勝手たるべし』
の布告を出したときからだ。
この布告により戒律を守るべき僧侶が、肉を食べ、妻を持ち、髪を伸ばしても
自由とはじめて認められた。
『大黒さん』や『坊守さん』という呼び方をしていたのは、
妻帯が許されなかった封建時代の名残だ。
長楽寺の檀家総代役の長老は、どこへいっても顏が効く。
長楽寺は、武士が力を持ちはじめた鎌倉時代からの、古い歴史を持っている。
このあたりで最大級の規模を誇る寺院でもある。
同じ宗派という事もあり、隣りの集落にある光悦の寺とのつながりは深い。
他人が知らない光悦の情報を、たくさん知り尽くしている。
その長老の口から、突然、もうひとりのちひろの名前が飛び出してきた。
もうひとりのちひろを知っているということは、当然、ちひろが産んだ双子の
存在も知っていることになる。
「その双子のことですが・・・」と口にしたとき。
腕時計を覗き込んだ長老が、『少し待て』とちひろをさえぎる。
「すまんのう。明日の準備でワシも死ぬほど忙しい。
お前さんが知りたいことは、山ほどあるじゃろうが、今日のワシは
塩梅が悪い。お、そうじゃ。お前。
光悦に年の離れた兄貴が居たことは、知っておろう?」
「はい。会ったことはありませんが、噂は聞いたことが有ります。
不治の病気で亡くなったと、聞いていますが」
「知っておったか。ならば、話は早い。
いや・・・いまのはワシの独り言じゃ。執着するな、忘れてくれ。
では明日になったら、また会おう」
「おお、忙しい!」と長老が、あたふたと消えていく。
今日もまた忙しさを口実に長老の口から、真実を語られることはなかった。
(長老は何もかも知っている。知っているけど、語りたくない複雑な事情があるようです。
まいったなぁ。いつまでたってもわたしは、光悦の蚊帳の外です・・・)
光悦に兄が居たことは、ちひろも知っている。
だがちひろと光悦が境内で遊び始めた頃から、寺に兄の姿は無かった。
先代の奥さんが産んだ腹違いの子が、光悦の兄だ。
兄を産んだ先代の奥さんは、ちひろが生まれる前に亡くなっている。
光悦はその直後に嫁いできた後妻の子だ。
兄の居なくなったいま、光悦は、唯一の寺の跡取り息子ということになる。
なぜこんなことになるのか。寺には雑用が無限に有る。
境内や伽藍の清掃。日々顔を出す檀家信徒たちの接待。寺の経理。
住職の世話などなど多岐にわたる。
こうしたすべての雑用を『寺族』と呼ばれる人たちが、無報酬でせっせとこなす。
ほとんどの寺院に、手伝いの僧をおける経済的余裕が無い。
したがって法要ひとつ営むにしても、会場の設営から後席の準備まで、すべてを
『寺族』がこなさなければならない。
妻と言う『寺族』居なければ、人手が足らず、すぐに運営に支障が出る。
前妻が亡くなれば、すぐに後妻をもらう必要が出てくる。
貧乏寺院に欠かすことの出来ない戦力、それが妻と言う名の『寺族』なのだ。
(68)へつづく
新田さらだ館は、こちら
可愛そうに・・でもとんでも事件が待っている?
さてさて・・続きが楽しみです
いよいよ推理小説になってきました
田舎に暮らしてすでに60余年。
学童たちに農繁休暇と言う休みが有った頃から
農業を見つめてきました。
いま風の植え付け機械など無く、おおぜいのひとたちの手で
田植えがされていたのを思い出します。
これから先も、日本の田舎を見つめながら
小説を書いて行こうと思います。