落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第130話 2年越しの雪

2015-03-09 10:51:41 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第130話 2年越しの雪




 ゆずりは公園を後にして、15分ほど歩く。
四万街道を下っていくと前方に、赤い欄干の落合橋が見えてくる。
昼間なら赤い橋の下を流れる、独特の四万ブルーと呼ばれる清流が見える。
だが、深夜の今はそれも見えない。
はらはらと舞う雪が、黒い川原に静かに吸い込まれていくだけだ。


 「2年越しの雪になりましたなぁ・・・」


 川面を覗き込んだ佳つ乃(かつの)が、ポツリとつぶやく。
寄り添うように歩いてきた佳つ乃(かつの)が、橋の真ん中で立ち止まった。
「女は恋に生きるものどす」と最後に佳つ乃(かつの)が語ったきり、
2人は交わす言葉を見失ったまま、落合橋まで下って来た。


 せせらぎの音は、橋の上まで響いてくる。
だが、水の音は聞こえても、川面は暗い底に沈んだままだ。
それでも佳つ乃(かつの)は、見えないはずの暗い川面を覗き込む。



 赤い橋を渡りきると、落合通りの狭い商店街がはじまる。
通りをすすめば、宿泊している積善館の前に出る。
商店街と言っても、寂れ切った田舎の路だ。
客の少ないスマートボールの店と、昭和を思わせるような古いたたずまいの
商店が、ポツポツと現れるだけの、静かな通りだ。
3分もあれば、通り抜けてしまう短い商店街だ。
ポツリと光っているのは、理事長が飲みなおしているスナックの明かりの様だ。


 「あんたかて、ホンマは、2の足を踏んどるやろ。
 自分自身の生き方やいうのに、決心がつかないでただ揺れているだけやなんて、
 情け過ぎますなぁ、ホンマ、ウチ等は・・・」


 (悩ましい新年が、やってきましたなぁ・・・)と佳つ乃(かつの)が、
小さな溜息を洩らす。



 「祇園の芸妓が、母になることなら可能どす。
 けど、芸妓として生きている限り、結婚することは出来ません。
 内縁の妻として、男はんと暮らしてはるお方も中にはおりますが、
 ウチには、そんな生き方は無理なようどす。
 引退して普通のおなごになるか、屋形の女将にでもおさまれば家庭が持てます。
 芸妓を辞めさえすれば、ウチも人並みに結婚することは可能どす。
 実に簡単な話どす。
 けどなぁ、それが分かっていながら、清水の舞台から跳べんのどす。
 もう少し勇気が有れば、白蓮のように恋に生きたと思います。
 申し訳ありません。
 どないしても、ウチにはまだ、その勇気がここにないんどす」


 「すんまへん」と佳つ乃(かつの)が胸に手を当て、唇を噛む。
(あんたには、迷惑のかけっぱなしやなぁ・・・)と、小さな声でさらに付け加える。
面倒くさい女どす、ウチは・・・ともう一度、佳つ乃(かつの)が、唇を噛む。
芸妓を辞める決意を固めきれない女と、農家を継ぐ意志を固めきれない男が
赤い欄干に寄り添ったまま、暗い川面をじっと見下ろす。



 雪が、いつの間にか勢いを増してきた。
勢いを増した雪が、佳つ乃(かつの)黒髪へ舞い降りる。
大粒に変った雪が次から次へ、暗い川面へ落ちていく。
風に揺られた雪がふわりと飛んで、佳つ乃(かつの)のほつれ毛にまとい着く。
振り払おうとした似顔絵師の手を、佳つ乃(かつの)の左手が受け止める。


 「しがらみが多すぎる女どす、ウチは。
 ウチを、実の子供のように可愛がってくれたバー「S」のオーナーの、
 期待を裏切ることはできません。
 置屋のお母さんや、お茶屋の女将さんたちの期待も、ウチは裏切ることができません。
 佳つ乃(かつの)は芸妓になるために、祇園に生まれた女の子どす。
 最初から芸妓になる運命を背負って、ウチは生まれてきたんどす。
 ようやくのことで皆はんに、恩返しが出来るとこまで来たんどす。
 まだ簡単に、辞めるわけには、いかへんのどす・・・
 ウチのここにもっと勇気というもんが有ったなら、ウチは、
 恋に生きる、普通の女になれんのに、なぁ・・・」


 佳つ乃(かつの)の左手が、似顔絵師の指先を心臓のある左胸の上に導く。
にわかな風が、赤い欄干へ吹いてきた。
舞い落ちる雪が風にあおられて、突然向きを変え、激しく横に流れていく。
「あっ」と小さく声を上げた佳つ乃(かつの)が、似顔絵師の胸に、
あわてて顔を埋める。


 佳つ乃(かつの)の手から離れた傘が、風に乗って、空中高く舞いあがっていく。
2度。3度。空中で揺れたあと、傘が暗い川面に向かって舞い落ちていく。
「傘が飛んでしまいました。やっぱりウチらの前途は、多難のようどす・・・」
しっかりと抱きとめられた似顔絵師の腕の中で、目を細めた佳つ乃(かつの)が
「絶対に、離さんといてな」と、もう一度小さな声で、そっとささやく。


第131話につづく

 落合順平の、過去の作品集は、こちら