「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第123話 サラと、白鳥の湖

朝食を終えたサラが旅館の下駄を履き、表に向って元気いっぱい
駆け出していく。
「サラちゃん。無茶をしたらあかんえ。
あんたが思うているほど、日本の雪は甘いもんやおへん。
風邪を引いたら最悪どす。
寒いと思うたら、そうそうに戻ってくるんやで」
佳つ乃(かつの)の心配そうな声を、サラは背中で聞き流す。
「はぁ~い」と答え、カラカラと下駄を鳴らして、赤い橋を軽快に駆け抜けていく。
旅館の前と赤い橋の上は、雪が綺麗に掃いてある。
雪が積もっているのは、橋の前方に見える落合通りの路面からだ。
夕べからの雪が、そのままの状態で道路に降り積もっている。
通りの中央に、かすかな窪みが見える。
今朝、積善館から出発していった数台の車のわだちの跡だ。
赤い橋を渡り終えたサラが、ヒョイと、積雪の手前で急ブレーキをかけた。
(あら、あの子ったら素足で下駄を履いたまま、雪の中を歩こうというのかしら・・・)
佳つ乃(かつの)が、心配そうに身体を乗り出す。
戸惑いを見せていたサラが、そろそろと浴衣の裾を持ち上げていく。
すらりとした形の良い素足が、朝の光の中に惜しげもなくあらわれる。
「亜熱帯に育った子だから、雪が冷たいという概念が無いのだろう。
それにしても長靴も履かず、下駄のまま雪の中を歩くというのは見上げた根性だな。
インスタントラーメンじゃないが、3分間くらい、雪の中で我慢ができるかな?
賭けるかい、サラが雪の中で何分我慢できるか。どう思う、君は?」
「冗談を言っている場合ではおへん。風邪を引いたら大変どす。
けど。かといって素直に人のいう事を、聞く子やおへんからなぁ。
元気だけが取り柄の子どす。
いつも何を仕出かすやら、かたときも目が離せまへん。
あの子の無茶ぶりには、いつも、ハラハラドキドキさせられぱなしどすさかい」
道路には、たっぷりの雪が積もっている。
足袋を脱ぎ捨てたサラが、遂に元気よく、「エイッ」と雪の中へ飛び込んだ。
冷たさに飛びあがると思いきや、両手を腰に当てて、ピョンピョンと妙な手つきのまま、
浴衣の裾を翻して、雪の中で舞いはじめた。
(京舞の形じゃないな・・・あの手の振り方は・・・
まるでバレーの真似をしているような、雰囲気がある。
あっ、白鳥の湖だ。第2幕に登場してくる、4羽の白鳥たちの愛嬌に満ちた踊りだ。
しかしあいつ。冷たくないのか。足袋を脱ぎ捨てた裸足のくせに・・・)
事態を見つめていた似顔絵師が、「あっ」と声を上げる。
(あいつ。雪が氷点下のときに降るということを、まったく理解していないんだ!)
「まずいことになる」と大きな声を上げた似顔絵師が、下駄も履かず積善館の玄関から
あわてて飛び出していく。
事態を察した佳つ乃(かつの)も、ただ唖然と立ち尽くす。
「まぁあの子ったら、なんてことを・・・」と口に手を当てたまま玄関先で、ただ呆然とする。
サラが足先の感覚を失って雪の中に立ち尽くすのと、似顔絵師が抱き上げるのが
ほとんど同時の出来事だった。
「兄さん、すんまへん」と横抱き状態のサラが、似顔絵師の首へ両腕を回す。
「無茶するねぇ君も。大丈夫かい、足は?」と似顔絵師が、サラの顔を覗き込む。
「氷以上に冷たいんどすなぁ、雪っちゅうもんは。ウチ、初めて知りましたぁ」
とサラが、ほんのりと頬を染める。
「雪と言えば、思い出すのは、チャイコフスキーの白鳥の湖でっしゃろ。
そう思った瞬間。ウチ。雪の中へ飛び込んでしまいましたぁ。
けど冷たいどすなぁ、あっという間に、ウチの足が凍り付いてしまいましたなぁ」
「あたりまえだ。無茶するのにもほどが有る。
佳つ乃(かつの)姐さんに、あとでたっぷりと説教されるぞ」
「そうどすなぁ。けどウチが見境なさすぎるんどす。それもしかたありまへん。
あっ、兄さん。下駄と足袋がそこへ脱ぎっぱなしどす。
ウチが拾い上げますさかい、少し、態勢を低くしてください」
言われた通り似顔絵師が、サラを横抱きにしたまま態勢を低くする。
サラが両手を伸ばし、脱ぎ捨てた足袋と下駄を拾い上げる。
足袋と下駄を胸元に収めると、サラがふたたび似顔絵師の首へ両手を巻き付ける。
「こういうのを日本では、お姫様抱っこと言うんでしょ」と、サラが片目をつぶる。
「うん。こんな風にして女性を抱き上げたのは、初めてのことだ」
「あら。佳つ乃(かつの)姐さんが、まだ未体験やいうのに姐さんを差し置いて、
ウチがお姫様抱っこの一番乗りどすかぁ。
あきまへんなぁ、兄さんには迷惑のかけっぱなしどす。
迷惑のかけついでどす。
混浴の岩風呂まで、抱っこをしたまま、ウチを連れて行ってください。
お礼の代わりに、ウチの全部を兄さんにお見せいたしますぅ」
「勘弁してくれ。
新しい火種が増えると、今度は俺が、窮地に追い込まれることになる。
岩風呂までお姫様抱っこで運んでやるが、風呂には佳つ乃(かつの)と
2人で入ればいい。
青臭いお前さんの裸なんか、俺は見たくない!」
「それは残念どすなぁ。
青臭い言いますが、脱いだらそれなりにウチも凄いんどっせ。
姐さんにはかないませんが、ウチには、ピチピチとした若さがあんのどす。
そうや。姐さんに捨てられたら、内緒で電話をしてくださいな。
ウチが精一杯の愛情をこめて、兄さんを、優しく慰めてあげますさかい」
「いい加減にしろ。口を縫い付けるぞ、口の減らないおしゃべる娘め。
助けるんじゃなかったな。雪の中で、凍りつく寸前だった生意気な白鳥なんか!」
第124話につづく
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