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いじめ問題を考える。第9回目。

2017-08-01 | メンタルヘルス
 8月1日 火曜日

 おはようございます。 酒好きの思想家です。


いじめ問題を続けます。


いじめる側にせよ、いじめられる側にせよ、

どちらにしても、イジメに対する明確なビジョンが必要だ。

イジメ社会が一致団結する、燃えるような大いなる目的が必要だ。

目的が無ければ嫌でも逃げ出したくなるのが人情にも拘わらずに、それがない。

実際、人間の大権利である自己保存でさえ、

ビジョンが無ければ憎しみや怒りがこみ上げてくる現実の中で、

私のやり方とか、あなたのやり方という手段ではなく、

やはりイジメに対して何らかの明確な目的の強調が協調となり、

人間心理にせよ、社会現象にせよ、イジメ問題にせよ、

今までかみ合わなかったものも、より話し合えるようになるのではなかろうか。


自分のことしか考えられないと、人生に価値が認められないように、

イジメの目指す方向が同じ時、イジメの価値とレベルはさらにパワーアップする。

明確なビジョンがそれを信じさせ、導いてくれるからだ。

目的の良いところは、それは必ず達成することにある。


イジメの心配事は社会共通の問題であると同時に、個人が解決するカルマでもあって、

心配事ばかりに目を奪われて、ウィン・ウィンを置き去りにしていてはどうしようもない。


イジメや心配事の多くは、一度表面化して軽く見えてしまえば消えて無くなるように、

苦しい時や辛い時は一度、立ち止まって問い直してみると楽になる。



イジメを複雑にするものとはいったいどこから生まれてくるのだろうか。 考えてみます。



 私は子供の頃から「お前はいじめっ子だ。」と、よく言われてきましたが、

私はイジメても良いのです。

なぜなら、「愛がある」 からです。

愛があればイジメは単に人を傷付けるものではなく、愛のムチだからです。

逆に言えば、イジメを無くすことは愛のムチを無くすことでもある。

悪いイジメには良いイジメで対抗する「目には目を」という大作戦だ。

したがって、イジメに対する明確なビジョンとは、「愛のあるいじめ」 となる。

「愛がある」ならば「愛のない」イジメをいじめても良く、正義のイジメなのである。


なぜ、「愛のある」イジメが正義かと言うと、


不幸や苦しみが人を強くするのは、不運や苦痛によってその人物を愛に向かわせるからであり、

現実が厳しければ厳しいほど私たちは愛に生きるしかなく、

楽ばかりして甘えていては、幸福と不幸は表裏一体であるように、

幸せに満ちた刺激的な毎日を味わうことが出来ないのだから、

イジメを愛へと向かわせる方法を見出せられるのならば、「ウィン・ウィン」となるように、

ぶっちゃけた話、大人も子供も社会全体も、現代は「愛が感じられない」のが悲しい現状であって、

事実、大人社会に質問してみると解るように、誰も愛について説明出来ないにもかかわらずに偉ぶり、

そのくせ、説明出来ないということは、「アダルト・チルドレン」の証明であるからイジメたくもなる。



重要なのは、その愛とは何ぞや。 です。



愛を大きく分けると三つ。

一つは性欲である「動物愛」

二つ目は、子供たちの「感情愛」

三つ目は、大人たちの「理性愛」 です。

この三つをコントロールすることが 「人間愛」 と呼ばれるものです。


愛とは思想であり、理性愛とは頭の中に存在するから、

ゆえに脳の中に愛が無ければ、あなたは人間愛の無い人になり、

この世界に愛が存在していない生涯ということになる。

理性愛をほったらかしにしては自己破滅的な人間脳であるから、

愛の概念を理由付け説明することが何よりも重要なのである。

そうしなければ自らの脳がすぐに被害妄想や疑心暗鬼に囚われ、悪いことばかりを考え出しては犯罪を冒す。

つまり、怠け脳と馬鹿には愛の概念が無いということになる。

だから、馬鹿や怠け者では自滅する確率が99%。幸せにはなれない理由がここにある。

また理性愛とは他人に与えられるものではなく、自ら考え見出すものであり、

助けを求めているうちは、永遠に手に入らない神業なのである。


理性愛をもっと具体的な形に表せば、

理性愛とは私の脳とあなたの脳との交互能力、交換能力であり、

理性愛とは交換日記であると言えるのだ。

理性愛とは交換日記で表面化され、受け継がれるものなのです。

なぜなら、

人間という意思の疎通は話を交わすだけではお互いに理解が難しくて上手く伝わらず、

交換ノートの記録によって初めて目に触れ考えさせられるものだからである。

イジメ問題の多くは理性能力の欠陥による感情動物的本能によるものだから、理性喪失状態だ。

そんな動物本能に対抗するのに役立つものが記録、すなわちノートである。ノートとは脳への扉でもあるからだ。

言葉ではなかなか言えないことでも、記録を残して大人に見せることは誰にでも容易である。

それは自己主張ではなく、妥協でもなければ、怒りの感情でもない。

人間にしか知ることの出来ない知恵であり英知であり、それが理性愛なのである。


恋愛も同様、二人の理性愛による記録の積み重ねにこそ本当の意味での絆になり、

二人だけの大切な思い出であって、愛ある一体感なのである。

邪魔することも真似することも出来ない、他に類のない「二人だけのラブ・ストーリー」であり、

その良き物語の思い出こそが 「赤い糸」 なのである。


この二人だけの交換ノートこそが、人間愛を生み育て、記録そのものが理性愛を発達させ完成させる。

感情愛だけの恋では一瞬で冷めるが、物語は一生である。動物愛では単なるスキンシップで終了だ。

それに相手のことが本気で好きなら、交換ノートの苦痛は快楽に変わるから心配は無用。

恋愛とは二度と経験出来ない失望や悲哀こそ、純粋なものであって、

感情愛や動物愛だけではすぐに飽きられ捨てられる。

あなたの運命や宿命、そして人間愛は、交換ノートを始めなければ一切皆空、所行無常なのである。

それはどうしてかと言うと、

あなたはあなたのメッセージを今この瞬間に残さなければ、

誰もあなたの存在に気づかないし、見向きもされないし、誰もあなたのことを解らないのだ。

性欲や感情だけの良き思い出では、後で苦痛を2倍にするから、

交換ノートとは理性愛の道しるべであり、人格を形成するものは交換ノートであり、

それこそが人間愛であると断言して、イジメ問題をさらに続けたいと思います。










   つづく。