小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

473 難波と大和と神婚譚②

2016年01月22日 01時48分59秒 | 大国主の誕生
 ご無沙汰しておりました。
 個人的な事情で少しの間更新をお休みさせていただきました。
 再開しましたので、またお付き合いの程よろしくお願いします。
 
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 大国主の誕生473 ―難波と大和と神婚譚②―
 
 
 夫の正体がわからない、という伝承は『肥前国風土記』の弟日姫子や『古事記』の活玉依毘売
だけではありません。
 「山城国風土記逸文」とされる鴨氏(鴨縣主)の始祖伝承である玉依日売(タマヨリヒメ)や『播磨
国風土記』の道主日女命(ミチヌシヒメノミコト)、それに『常陸国風土記』の努賀毗(ヌカビメ)の
伝承も同様です。
 鴨縣主の始祖伝承では、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしている時に河上から流れ
てきた丹塗矢を家に持ち帰って寝床の側に挿して置くと、懐妊して男の子を生みます。
 その男の子が鴨県主の始祖となる賀茂別雷命(カモワケイカヅチノミコト)で、この子が成長した
時に、玉依日売の父の賀茂建角身命(カモタケツミノミコト)が、神々を集めて七日七晩の宴を催し、
 「お前の父と思う者に酒を飲ませよ」
と、賀茂別雷命に告げると、賀茂別雷命は杯をかかげたまま、屋根を突き破って天に昇っていった
ので、玉依日売が拾った丹塗矢は、天つ神の火雷神(ホノイカヅチの神)であることがわかった、と
いうものです。
 
 『播磨国風土記』の道主日女命の伝承もこれと酷似しており、夫なく子を生んだ道主日女命が
盟酒(呪術的なことに用いる酒のこと)を造るための田を作ると七日七夜のうちに成熟し、女神は
それで酒を造ると、諸々の神を集め、わが子に、
 「父神にこのお酒を捧げなさい」
と、言うと、その子は天目一命(アメノマヒトツノミコト)に向かって酒を捧げたので、道主日女命は
夫の正体を知ります。
 
 道主日女が盟酒を造った後、この田は荒れてしまったので、この地を荒田と呼ぶようになった、と
『播磨国風土記』は記します。
 これが、オオタタネコの住んでいた陶邑に比定されている堺市中区の陶器に鎮座する陶荒田神社
との関係を推測させるものであるのですが、オオタタネコの始祖である大物主神も、三島ミゾクイの
娘セヤタタラヒメのもとに、丹塗矢に姿を変えてたずね、イスケヨリビメ(神武天皇の皇后)を生ませた、
と『古事記』は記しています。
 つまり、「山城国風土記逸文」と『播磨国風土記』と『古事記』にある伝承は、大物主・オオタタネコと
関連づいているのです。
 
 それと、「山城国風土記逸文」の玉依日売の夫が雷神であった、という点にも注意を必要とします。
 『常陸国風土記』の努賀毗の夫も雷神であると思われるのです。
 
 この伝承では、夜になると、正体を語ることなくヌカビメを訪ねる男がいて、ついには夫婦となりヌカ
ビメは一夜で懐妊した、とあります。
 やがて臨月が来てヌカビメが生んだ子は小さな蛇でした。
 蛇は次第に大きく成長し、ヌカビメは蛇に、
 「あなたはきっと神の子にちがいありません。ですが、わが家の財力ではあなたを養うことができま
せん。あなたは父のもとに行きなさい」
と、言えば、蛇も涙をぬぐって言います。
 「母さまがそのようにおっしゃるならば従いましょう。ですが、ひとつお願いがございます。身一人では
心細いのでどうか従者を1名つけていただけませんか?」
 これに対してヌカビメは答えます。
 「この家にいるのはお前のお婆さまと伯父さま(ヌカビメの兄)だけしかいないことは知っているでしょう?
従者となる者はおりませんよ」
 このことを蛇は恨み、いよいよ旅立ちの時になっても怒りがおさまらず、雷で伯父のヌカビコを殺し、
それから天に昇ろうとします。
 この行為にはヌカビメも驚き、器をわが子に向けてぶつけると、蛇は天に昇る力を失い、そのまま
晡時臥山(くれふし山)の峯にとどまった、というのがこの伝承の内容です。
 
 ヌカビメの生んだ蛇が雷で伯父を殺したことで、この蛇の父親が雷神だと推測されるわけです。
 
 そして、蛇と雷神が結びつく説話が他にもあります。

学校の授業って・・・

2016年01月16日 01時40分17秒 | 日記
2013年1月4日(金)(4歳9か月)
 
 
 正月は時代劇がクローズアップされる時でもある。
 
 何しろテレビで時代劇のドラマが放送されるし、少しすれば
大河ドラマの新番組もスタートするから、いろいろ話題性に
富んでいる。
 
 ただ、これらは史実を基にしたフィクションなのだけど、
どういうわけか真実と信じて観る人が多い。
 
 もしかすると、これは学生時代の悪癖にあるのかもしれない。
 
 中学や高校の日本史、世界史の授業について、「暗記
すればテストで点が取れる」と思っている人が多いのだ。
 
 これは、「教科書に書かれていることを暗記してしまえ」と
いうことで、それがそのまま「教科書に書かれていることは
史実」と思い込んでしまうのではなかろうか?
 
 歴史なんてものは書物に書かれたものから推理される
もので、何が真実なのかはわからないのだ。
 
 教科書だって、昔は鎌倉幕府の成立は1192年と書いて
あったけど、現在では1185年になっている。
 
 実は、昔から鎌倉幕府の成立はいつなのか諸説あった。
 
 なぜなら、初代将軍の源頼朝が「今から幕府を開きます!」
と宣言したわけじゃないからだ。
 
 それで、昔は頼朝が天皇から征夷大将軍に任ぜられた
1192年が鎌倉幕府成立の年、ということにされていたのだ。
 
 しかし、今では鎌倉幕府の機構は1185年にほぼ出来
上がっていた、という理由で1185年に成立となっている。
 
 本当かどうかわからないけども、左派と呼ばれる学者たちの
間では、天皇から将軍に任じられたから成立、という考えが
気に入らないのだとか。
 
 ただの噂かもしれんけど。
 
 
 でも、同じことが英語の授業でも言える。
 
 今でもまだ、英語は勉強しないと話せるようにならない、と
いう考え方が幅を利かせているのである。
 
 しかも、読み書きが優先で会話はその次にくる、みたいな。
 
 そんなことしなくたって、赤ん坊から幼児にかけての期間に
子供は勉強しなくたって言葉が話せるようになっているよ?
 
 春奈も今ではほとんど大人と変わらなく話せている。
 
 もっとも、まだまだ言葉も成長中だけどね。

472 難波と大和と神婚譚①

2016年01月15日 01時10分43秒 | 大国主の誕生
 大物主の誕生472 ―難波と大和と神婚譚①―
 
 この多神社の祭祀氏族は太氏(多氏)ですが、古代においてオオ(あるいはオウ、
オホ)の名を持つ3氏がいます。
 太氏、身狭村主青(むさのすぐりおう。ただしむさのすぐりあお、ともいわれます)、
それにオオタタネコです。
 このうち、身狭村主青の場合は氏族名が身狭村主で、オオタタネコに関しても
オオタが氏族名だとする説もあります。
 そして、太氏もオオタタネコもともに大物主の子孫を称しているのです。
 
 ではここで大伴氏のところで紹介した『肥前国風土記』にある伝承を再び採り上げ
てみたいと思います。
 大伴狭手彦連が任那に向けて発ったその五日後、ひとりの男性が弟日姫子のもとを
訪れるようになった。その者は毎晩訪ねてきて弟日姫子と寝て、夜明けとともに帰って
いくようになりました。その姿や顔立ちは狭手彦にそっくりだったのです。
 弟日姫子はその男性の正体を知りたいと思い、続麻(うみお)を用意すると、密かに
男性の裾に麻糸をかけます。
 男性が帰った後、麻糸を追っていくと褶振の峯にある沼にたどり着き、糸の先には蛇
が眠っていたのでした。
 その蛇とは、体は人間で沼の底に沈み、頭は蛇で沼の岸辺にあった、と『肥前国
風土記』は記します。
 
 麻糸を相手に引っかけといて後から追いかけて正体を知ろうとするのは大物主にも
存在します。
 
 『古事記』によれば、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)のもとに、毎晩ひとりの美男子が
訪れ、姫は妊娠をします。
 姫の両親は、わが娘に、その腹の子の父親は誰なのかと尋ねましたが姫もその美男子の
正体を知りませんでした。
 そこで両親はその相手の正体を知るために、姫にこう言います。
 「今度その男性が来たなら、赤土(はに)を床の前にまき、閇蘇紡麻(へそお=紡いだ
麻糸を環状に幾重にも巻いたもの)を針に通し、相手の服の裾に刺しておきなさい」
 そこで姫は男性が来た時に、親に言われた通りに、相手の服に針を刺したのでした。
 次の朝早く見てみると、針に通してあった麻糸は戸の鍵穴を通って出て行っており、
部屋に残っていた閇蘇紡麻はたった三勾(三輪)だけでした。
 ただちに糸の先を追いかけてみると、三輪山の神の社へと続いておりました。それで、
姫のおなかの子が神の子であることがわかったのでした。
 
 他にも、大物主とは関係がありませんが、「常陸国風土記逸文」とされるものの中に、
同じく麻糸の話が登場します。
 
 昔、兄と妹が同じ日に田植えをしました。「遅い時間に植えた者は伊福部(いぶきべ)の
神の崇りにあって殺されるぞ」と、言われていたのに、妹は遅い時間から田植えを行いま
した。すると、雷が落ちて妹を殺してしまいまったのでした。
 兄は嘆き、かつ恨んで仇を討とうと思いましたが雷神の居場所を知りません。
 その時一羽の雌雉がやって来て兄の肩にとまったので績麻(へそ=紡いだ麻糸を環状に
幾重にも巻いたもの)をその雉の尾羽根にかけると、雉は伊福部の岳に飛んで行きました。
 兄が績麻の糸をたどっていくと、とある岩屋にたどり着き、中をのぞくと雷神が寝ていたか
ら、刀を抜き、雷神を斬ろうとしたところ、雷神は、あわてて起き上がって命乞いをしたので
した。
 「そなたに従い、百年の後もそなたの子孫には雷を落とすことはしません」
 兄は雷神を許し、また雉に対しては、
 「生涯この恩を忘れはしない」
と、誓ったので、以来、この地に住む者は雉を食べない、といいます。

えぐじゃいる

2016年01月13日 01時20分55秒 | 日記
2013年1月3日(木)(4歳9か月)
 
 
 わが家の3人娘はまだ大晦日の紅白歌合戦の影響が
残っているらしく、紅白出場歌手が歌った歌を家の中で
でかい声で歌っている。
 
 今年は春奈にも強く影響が出ている。
 
 春奈の好きなきゃりーぱみゅぱみゅも出ていたし、
EXILEも出演して春奈の好きな『Rising Sun』を歌った
ことも影響大のようだ。
 
 ただ、春奈はEXILEのことを
 
 「えぐじゃいる」
 
と、言うので、ゆうきが面白がって何度もそれを言わせる。
 
 もっとも、春奈は、
 
 「エグザイル」
 
と、言えているつもりである。
 
 こういうケースは他の子にもよく見られることだ。
 
 言えていないけれど本人は言えているつもり、という。
 
 そして、ゆうきが面白がって、いつまでも春奈に言わせる・・・。

471 臣から連への時代⑨中臣氏と海人系神話

2016年01月11日 02時28分59秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生471 ―臣から連への時代⑨中臣氏と海人系神話―
 
 
 記紀神話におけるタケミカヅチと言えば国譲りで事代主からは承諾を得て、建御名方を
屈服させる活躍を見せる神ですが、『琉球神道記』にあるタケミカヅチはこれとは大きく
異なるわけです。
 しかしタケミカヅチと阿曇磯良が同神とはどういうことなのでしょう。
 そのひとつの解釈として、鹿島神宮の祭神は、本来は阿曇氏の祭祀する神であったと
する説があります。
 たしかに、鹿島神宮の御神体が海中にある巨大な甕であったとする話は海の信仰を
彷彿させるものではありますし、また阿曇氏の本拠であったという志賀島(しかのしま)の
地名が鹿島と似ているのがその根拠の一つに挙げられることもあります。
 しかし、この説には問題となる点があります。まず、阿曇氏(阿曇連)の始祖は綿津見神
(わたつみ神)なのです。
 それに、鹿島神宮の祭神が阿曇氏の祭祀する神であったならば、中臣氏とはどのように
つながるのか、という疑問もあります。
 
 『古事記』では、神功皇后と建内宿禰に信託する神が天照大御神と住吉三神であるの
に対し、『日本書紀』ではここに中臣烏賊津連が加えられ、信託する神にも海人系氏族が
侵攻する神であったと松前健(『日本神話の形成』)が考察する天事代虚事代玉籤入彦
厳之事代神が加えられていることから、中臣氏が海人系の神に関係していると見られる
のですが、これもまた、中臣氏がなぜ海人系の神とつながるのかという疑問をしょうじさ
せるわけです。
 
 雄略朝時代に台頭してきた連(むらじ)の姓(かばね)を持つ氏族たち、すなわち物部連、
大伴連、中臣連は天孫降臨に関係し、天孫ホノニニギに従う形になっています。そうして、
そのまま天皇の側に仕える存在を主張しているわけです。
 ならば、この問題にも天孫降臨神話が関係していると考えるべきではないでしょうか。
 天孫降臨が皇室の誕生を語る神話となっていることは今更言うまでもないことなのです
が、ホノニニギの子がそのまま皇室になるわけではないのです。
 ホノニニギの子がホヲリノミコトで、その子がウガヤフキアエズノミコト、その子が神武天皇
です。つまり神武天皇はホノニニギから数えて四代目にあたり、その間にホヲリ、ウガヤフ
キアエズの二代が挟まるわけです。
 そして、このホヲリとウガヤフキアエズはともに綿津見神の娘を妻に迎えているのです。
このことは神武天皇の母が綿津見神の娘であるということでもあるのです。
 皇室の父方の祖は天照大御神であり母方の祖は綿津見神である、つまり皇室と阿曇連は
ともに綿津見神を祖に持つことになるのです。
 
 ところが、ここにひとつの問題が生まれたのです。
 それと言うのは、16代仁徳天皇から17代履中天皇へと代替わりがなされた時に、履中
天皇の同母弟であるスミノエノナカツ皇子が謀反を起こし、これに阿曇連浜子が加担した
ことです。
 皇室と祖を同じとする阿曇氏の、謀反への加担は皇室神話が成立する上で大きな問題
となったはずです。
 このことは皇室神話にも影響が見られます。
 ホヲリは別名を山幸彦といいますが、兄に海幸彦の別名を持つホデリノミコトがいます。
 この兄弟は対立し、山幸彦ことホヲリが海幸彦ことホデリを屈服させることでホノニニギの
後継者となったという話になっているのです。
 
 中臣氏は天孫降臨の神話に関わるようになった時に、これに含まれる海人系の部分に
強い影響力をもつようになったのではないでしょうか。
 
 もうひとつ、『日本書紀』には、市磯長尾市が倭大國魂神を祭祀するようになったきっかけ
に中臣探湯主が絡むという異伝を載せています。
 市磯長尾市は倭氏の祖ですが、始祖はサオネツヒコ(シイネツヒコとも)という神です。
 この神は、神武天皇が船で瀬戸内海を大和に向けて進んでいる時に、海上に現れて海の
道の案内をするという海神の要素を持つのです。
 さらにこの神は天香久山の土を採取する任務にあたっているのですが、これが住吉大社の
「埴使」の神事と共通することは前に紹介した通りです。
 これも、中臣氏による海人系の神話への関与を思わせるものではないでしょうか。