小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

おやりで食べる

2013年04月26日 01時07分31秒 | 日記
2010年7月9日(金)(2歳3か月)


 晩ご飯の時に春奈が、

 「とろとろ、かけて」

と、僕に言った。

 とろとろ?とろろのことか?と考えていると、
果たしてりえが、

 「とろろ昆布のことやで」

と、教えてくれたから、ごはんの上にとろろ昆布
をかけてやる。

 すると、

 「おやりで食べる」

と、春奈が言った。

 おやり?おやつのことか?

 「おやつはご飯の後やで」

と、言ったけど、おやつじゃないおやしだ、と
駄々をこねる。

 おやし???あ、もしかして「お箸」?と思っ
て箸を渡してみると正解だった。

 いつもスプーンで食べている春奈もそろそろ
お箸の時期かね。

幼児の解釈は自分が中心?

2013年04月24日 01時42分55秒 | 日記
2010年7月8日(木)(2歳3か月)


 毎週木曜日の和泉中央ファミリーの帰りに、僕と
みんたのいきつけの接骨院の前を通ると、春奈が、

 「今日はてんてえ(先生)お休み?」

と、訊いてきた。

 木曜日は休診日なので、みんたが、

 「お休みやで」

と、答えると、

 「とっかー(そうかあ)、てんてえ休み。モモちゃ
んとこ?」

と、言った。

 モモちゃんとは、和泉中央ファミリーのフェロウさん
ことである、

 なるほど、「今日は先生お休み?」と、言うのは、「今
日は、ママ接骨院に行かないのか?」という意味だったか。

 それで、「接骨院行かずに和泉中央のファミリーに行った
のか?」と、言ったのだな。

 そう理解して僕が、

 「先生が、お休みなんやで」

と、僕が言うと、みんたも、

 「今日は先生おうちやで」

と、言ったから、春奈が、

 「てんてえ、おうち行ったん?」

と、さらに訊いてきた。

 「おうち行ったんやなくて、おうち帰ったんや」

と、みんたが言ったけど、たぶん春奈は、「先生がわが家に
来た」という意味のことを言ったのだろう、と僕は解釈した
ので、

 「先生のおうちに帰ったんや」

と、言うと、春奈も納得してくれた。

 春奈とみんたのふたりだけなら噛み合っていない会話もも
う1人僕が加わることでうまく通じ合う。やっぱり2人より
3人、できればたくさん、という方がことばのやり取りには
ちょうどいいのだろう。
 

 春奈の意味の取り方は、自分を中心にしてるんじゃなかろ
うか?

 接骨院が休診だからヒッポに行った、ではなくて、通院を休
んでヒッポに行った、と言うのは自分の意思でやった、みたい
になる。

 先生はおうちにいる、も先生の家ではなく自分の家、と解釈
している。

 先日僕が春奈に、「枕は頭のせるもん」と言うと、春奈が頭
の上に枕をのせたことがあった。

 それだって、頭を枕に持っていくのではなくて、枕を自分の頭
に持ってくる、という解釈だ。

 幼児の意味の取り方は自分中心なのかもしれない。


 ところでヒッポファミリークラブのオリジナルCDの『世界に
広がる多言語仲間』の多言語版をかけていると、春奈が、

「やったれ、言うてる」

と、言った。

 ん?今かかっていたのは日本語の場面だったな。

 でも、「やったれ」なんて言葉あったっけ?

 と、一瞬考えたけどすぐにわかった。「やったぜ」だった。

 これって響く音なのか?

129 戸座と大物忌

2013年04月24日 01時37分56秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生129 ―戸座と大物忌―


戸座が仕える内裏の三所の竈神が、忌火、庭火、平野のことであることは
先にお話ししたとおりですが、庭火御竈は天皇の日常の食事を炊く竈、忌
火御竈は旧十一月の新嘗祭、六月と十二月の神今食(かんいまけ)神事の
御飯奉仕の竈で、この二所の御竈は神祇官から毎日朔日(ついたち)に祀
られました。
残る平野の御竈ですが、こちらは陰陽寮から毎月癸日(みずのとのひ)に
祀られ、天皇の御物忌日などの日のものと推測されています。

 御竈の置かれた内膳司は内裏の西北、乾の方角に位置します。
 同時にこのことは竈神の祭祀方角が内裏の西北になる、ということでも
あります。

 天皇が譲位し、上皇となると院の御所に移ります。この時、在位中の竈も
内膳司から院に移されるのですが、新しく置かれる場所もやはり御座所の
西北でした。

 竈神とは、『古事記』にあるオキツヒメのことであろうと推測されるので
すが、この神は女性神です。
 それに仕える戸座は、7歳から15、6歳までの少年。しかも、身長の面
で成長が著しくなると解任されたとありますから、まさに童男です。
 この関係性は、母と子に当てはまります。
 易で言えば、母は「坤」で、「地」になります。
 戸座は童男なので、「少男」。少男は「艮」で「山」になります。方位は
「西北」になります。
 すると、「少男」の戸座が西北にいて祭祀を行うのは当然のことになりま
すが、「母(坤、地)」の方位は北になりますから、竈神が西北に祀られる
のはおかしいことになってしまいます。
 それに、『説卦伝』においても、

 「坤を地となし、母となし、布となし、釜となす」

と、ありますから、母であり、釜である竈神はやはり北で祀られなくてはいけ
ない。

 今回は、吉野裕子の著『易と日本の祭祀』を参考にさせていただきながら進
めているのですが、この矛盾点についての吉野裕子は次のような解釈をおこなっ
ています。


 先天易では北は「坤」である。しかし後天易においては北は、「坎」(水)
なのである。土気で、しかも火気の竈神にとって、後天易が考慮に入れられる
場合、土剋水・水剋火と剋し剋されて、竈神とって北は生きた心地もしない方
角のはずである。
 そこで竈神は西隣の「艮」の座において祀られることになる。「艮」は「坤」、
即ち「竈」と同気の土気、しかも大きな土気の「山」であって、「地」の「坤」
とは互いに扶けあう仲である。
 西北の「艮」は、竈の座、即ち戸座となり、「艮」の象徴としての童男は、そ
の戸座の名をそのままに負う生きた竈、或いはその祭祀者となったと推測される
のである。


 なお、ここでもう少し解説を入れますと、文中にある先天易とは、天地自然を
表わすものです。
 一方の後天易は、人間の暮らしや営みをあらわすもので、周の文王によって始
められ、子の周公旦によって完成されたといいます。
 それから、土剋水・水剋火ですが、易では世界に存在するものは木火土金水の
五元素から成ると考えられています。
 この五元素はお互いに作用しあうのですが、「相生」と「相剋」の2通りの関
係があります。「相生」は、ある元素が別の元素を生み出していく関係、反対に
「相剋」はある元素が別の元素を打ち消していく様をあらわします。
 水剋火は、水が火を消してしまう様をあらわすものです。

 戸座が幼い少年ならば、伊勢神宮における大物忌は幼い少女でした。
 大物忌と天照大御神の関係は「天沢履」で、この卦は、上下の秩序が保たれ、
為政者は徳に満ちた政道が行われ、人民は礼節を守り安心した暮らしをおくるこ
とができる、というものでした。すなわち「天下泰平」なのです。

 それでは、戸座と竈神の関係はどうでしょうか。
 戸座は「山(艮)」で、竈神は「地(坤)」です。
 すると、「地山謙」になります。

 謙は、「謙亨。君子有終吉(謙はとおる。君子、終わりよし)」。

「謙」は謙遜、謙虚の謙で、君子は終わりを全うすることができる、という意味です。

 この卦は、高くて、尊いものが頭を低くして様を指します。山は、「動かざること
山のごとし」と言われるように、どっしりとした強さがあり、やはり泰平の状態をあ
らわすのです。

 一方、天照大御神と大国主の関係をあらわす卦は「地天泰」で、こちらは天地陰陽
がお互いによく交感交合して、万物は発生・繁茂・結実・枯死の循環が可能となり、
その結果、民生が安定し天下泰平となる、というものでした。

 皇祖神である天照大御神とそれに仕える大物忌との関係、天照大御神と大国主の関
係、それに加えて、天皇の元で竈神とそれに仕える戸座の関係。
 ここにも三所による天下安定の図式が描かれていたのです。


・・・つづく

長いものには巻かれる主義

2013年04月23日 01時10分56秒 | 日記
2010年7月7日(水)(2歳3か月)


 ゆうきがかなり眠そうだ。

 風呂から上がってパジャマに着替えると、
そのまま床に突っ伏して眠り出した。

 「ゆうき頭濡れたままやんか。ドライヤー
しなさい」

と、みんたに言わると、一応起きたのはいい
けど、雑にドライヤーをかけると、そのまま
和室に直行して寝床に入ってしまった。

 「まだ半乾き!」

と、みんたが言うと、春奈がゆうきを追いかけ
るように和室に入って、

 「ゆうき、寝たらあかん!」

と、叫んだ。

 いつもゆうきに遊んでもらっていて、春奈の
方からもゆうきにかまってもらいに行くくせに、
お母さんに叱られている時は手のひらを返した
ようにお母さん側につく。

 あいかわらず強い方についておこうという姿勢
は変わっていないようだな。

 だけど、その際に言うことが最近は適切なもの
になってきたような気がするなあ。


128 竈神と戸座

2013年04月23日 01時06分36秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生128 ―竈神と戸座―


 ここまでを少しまとめてみます。天孫降臨神話は、アマテラス
の子孫が地上に降り、ワタツミの神の娘たちと婚姻を重ねて皇族
の誕生へとつないでいくものでした。
 ワタツミの神は安曇氏の祖でもあるのですが(正しくはワタツ
ミの御子神ホタカミを始祖としています)、『古事記』の国譲り
神話に登場するタケミナカタも安曇氏と関係する神でした。
 『古事記』の国譲り神話には、天つ神側としてタケミカヅチが
活躍しますが、この神は石上神社とゆかりが深く、伊勢神宮と石
上神社、出雲大社は様々な点において結びつきを持っていたので
した。

 ここで、今一度、安曇氏に話を戻したいと思います。

今回考察していきたいのは、安曇氏が関係する戸座です。
 戸座(へざ)とは、内裏の竈神に仕える童男のことですが、内裏
の内膳司には三所の竈神が祀られていました。
 戸座になる少年は、7歳以上から婚時まで、と決まっていました
が、当時の婚期は15歳くらいでしたので、体が大人になるまでの
期間の男の子と考えてよいでしょう。
 戸座は神祇官に属しますが、誰でもよいというわけではなく、戸
座を輩出できるのは、阿波、備前、備中の三国から、と決められて
いました。
 この三国でもどこから輩出されるか、さらに決まりごとがあり、
男帝の時は阿波から、女帝の時は備前から、と定められていました。
 男帝であれば、当然皇后が選出されるわけですが、皇后の竈神の
戸座には備中から輩出される決まりとなっていました。
 『類聚三代格』によれば、阿波から輩出される戸座は、安曇部、
壬生、中臣部から、とされていますので、安曇氏の元からもこの戸
座が輩出されていたことになります。

 そもそも安曇氏は、践祚大嘗祭に際しては、


安曇宿禰火を吹く。内膳司、諸氏の伴造を率いて、各、その職を供
給して、御膳を料理す。


と、あるように、天皇即位の儀式において食事を供する役目を担って
いました。

 ちなみに、備前からは、壬生、海部、壬生首、壬生部から戸座が選
ばれ、備中からは、海部首、壬生首、笠朝臣から選ばれていました。 
 海人系の氏族が多いのが特徴といえます。

 この戸座は、天皇が代替わりすれば、それまでの戸座は解任され、
新たな戸座が選出されることから、内裏において重要な役目とみなさ
れていたと考えてよいでしょう。

 ちなみに、竈は「かま」、「かまど」と呼ばれていますが、本来は、
「かま」で、「かまど」は、かまを置く場所、「窯所(かまと)であっ
たものが、いつしか竈そのものを「かまど」と呼ぶようになったと言
われています。

 さて、内裏には三所の竈神が祀られていたわけですが、この三所と
は、忌火、庭火、平野の3つの竈のことです。

 次に竈神ですが、『古事記』には、大年神の系譜の中で次のように
記しています。


 また(大年神が)天知迦流美豆比売(アマチカルミヅヒメ)を娶って
生まれた子は、奥津日子神(オキツヒコの神)、次に奥津比売神(オキ
ツヒメの神)、またの名を大戸比売神(オオベヒメの神)。この神は諸
人の以ち拝く(もちいつく)竈神ぞ。


 以上のことから、内裏に祀られる竈神も、このオキツヒメのことと思
われます。

 なお、大年神は、『古事記』では、スサノオと大山津見神の娘神大市
比売(カムオオイチヒメ)の間に生まれた神であるとされています。

 ここからは余談になってしまいますが、スサノオとヤマタノオロチ神話
のクシナダヒメをとの間に生まれたのが八島士奴美神(ヤシマジヌミノミ
の神)で、ヤシマジミが、これまたオオヤマツミの神の娘、木花知流比売
(コノハナノチルヒメ)を娶って、生まれたのが布波能母遅久奴須奴神
(フハノモヂクヌスヌの神)で、このフハノモヂクヌスヌの子孫が大国主
神なのです。
 天孫降臨の段で、ホノニニギは地上でオオヤマツミの娘コノハナノサク
ヤビメを妻にしてホデリやホオリたちを生みますが、同じオオヤマツミの
娘でコノハナノチルヒメとあるのは大国主神話の誕生を探る上で興味深い
ものがあります。


・・・つづく