小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

生意気をとおりこしてる!!!

2013年04月09日 00時34分19秒 | 日記
2010年6月26日(土)(2歳2か月)


 春奈がリビングでみんたのバッグを引きずって
遊んでいる。

 それはそれでまずい。

 バッグの突起物で床を傷つけてしまうから。

 だからと、みんたにバッグを取り上げられて、
春奈が泣く。

 そこで僕があやしていると、春奈が、

 「それちょうだい」

と、ビニールの風船を指さした。

 正確には「それ」ではなく、「あれ」である。

 でも、そんなことは指摘せず、風船を取りに行っ
て春奈に渡してやると、そのビニールの風船で僕の
顔をバシッ!

 こいつ信じられへん!

 八つ当たりしよった!

 ホンマありえへん!!!

 生意気なだけじゃなく暴力まで振るうようになっ
たか!

122 伊勢・信濃・出雲①

2013年04月09日 00時29分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生122 ―伊勢・信濃・出雲①―


 そうすると、タケミナカタは元来大国主とは何の関係もない、安曇氏系
の神ということになるのですが、それならなぜ大国主と結びついたのか、
という謎が残ってしまいます。

 実は、ここにこそ、伊勢神宮と出雲の関係が見え隠れするのです。

 『延喜式』に載る、トヨタマビメの名を冠した神社は、阿波の名方郡に
和多津美豊玉比売神社と天石門別豊玉比売神社の2社がありますが、天石
門別は忌部氏に関わる神名ですから、天石門別豊玉比売神社は忌部氏が祭
祀する神社であったと考えられます。
 阿波の忌部氏については、『続日本紀』の神護景雲二年七月の条に、

 阿波国麻植郡の人、外従七位下忌部連方麻呂、従五位上忌部連須美等十
一人に宿禰の姓を賜う

という記事があり、麻植郡が本拠であったことがわかります。

 また、『延喜式』には、阿波国麻植郡の条に、忌部神社と天村雲神衣自
波夜比売神社を載せています。
 忌部神社の祭神は天日鷲命(アメノヒワシノミコト)で、天村雲神衣自
波夜比売神社の祭神は天村雲神(アメノムラクモの神)と伊自波夜比売
(イジハヤヒメ。伊志波夜比売とも)とされていますが、アメノムラクモ
は、阿波忌部氏の祖アメノヒワシの父神ですが、同じアメノムラクモの御
子神に、伊勢の度会神主の祖天日別命(アメノヒワケノミコト)でもあり
ます。
 また、伊勢国造もアメノヒワシを始祖としていました。
 アメノヒワシとアメノヒワケは、その名前が酷似していることから同神
とさる研究者もいますが、『先代旧辞本紀』では、アメノムラクモをホア
カリの孫とし、尾張氏の祖オキツヨソの父神としているので、阿波忌部氏
は尾張氏や度会神主と同族ということになります。

 阿波の忌部氏の本貫は阿波国麻植郡忌部郷ですが、伊勢の忌部氏の本貫
は伊勢国員部郡(いんべ郡)で、信濃の伊那郡も、忌部からきたものと思
われます。伊那郡には伊那部(いなべ)という地名もあります(現在の伊
那市伊那部)。
 信濃の伊那郡の大領は、諏訪大社の下社大祝の金刺氏で、金刺氏は信濃
国造でもありました。
 伊勢の船木氏も金刺氏と同族でした。このことは、『古事記』に、神武
天皇の皇子神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の子孫たちを、


神八井耳命は、意富臣、小子辺連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑
紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、
道奥の石城国造、常道の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、
島田臣等の始祖。


と、記していることで、これによれば太安万侶の太氏(意富臣)とも同族で
した。
 そうすると、はじめアマテラスの祭祀が宮中より太氏の本拠地である笠縫
に遷されたのも無関係ではないでしょう。
 

 ところで、タケミナカタの妃神である八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)
を、『上宮御鎮座秘伝記』や『諏訪上宮神名秘書巻』は、ワタツミの御子神
ではなく、『先代旧辞本紀』に登場する八坂彦命の御子神としていますが、
『先代旧辞本紀』ではこの八坂彦を「伊勢神麻績連らの祖」としています。

 『日本書紀』の崇神天皇5年の条に、疫病が流行し、多くの人が死んで国
が乱れたので天皇が、オオタタネコに大物主大神を、イチシノナガオチに倭
大国魂神を祀る神主とした、とありますが、『日本書紀』によれば、この時、


天皇が再び神に占うと、その夜、天皇の夢の中に大物主の神が現れ、
 「天皇よ、憂うるではない。国が治まらないのは吾の意思である。わが子
オオタタネコに吾の祭祀を行わせればたちどころに国は治まり、また海外の
国もおのずと従うであろう」
と、告げた。
 8月に、倭迹速神浅茅原目妙姫(ヤマトトハヤカムアサヂハラマクワシヒ
メ)と、穂積臣の祖大水口宿禰(オオミクチノスクネ)と、伊勢麻績君(イ
セノオミの君)の3人が共に同じ夢を見て、天皇に、
 「昨夜夢の中にひとりの貴人が現れまして、『オオタタネコノミコトをし
て大物主大神を祀らせ、イチシノナガオチをして倭大国魂神を祀らせれば必
ず天下は治まる』と申しました」 
と、報告をした。

と、あり、伊勢麻績君が関わっていたことを記しています。
しかも、イチシノナガオチは、『日本書紀』の中で、倭氏の祖と記されてい
ますが、『日本三代実録』には、

「阿波国名方郡人従八位上海直豊宗。外少初位下海直千常等同族七人賜姓大
和連」

とあり、倭氏の一族も阿波の名方郡にいた、となっているのです。

 麻績という地名は、阿波忌部氏の本貫である阿波国麻植郡と、伊勢国多気
郡に麻績郷、それに信濃国伊那郡と更級郡の麻績郷が見られますが、阿波と
伊勢と信濃にあることは偶然で片づけるわけにはいきません。

 一方、船木氏についてですが、『住吉大社神代記』は伊勢船木氏の祖を伊
勢津彦命(イセツヒコノミコト)としています。
 イセツヒコといえば、「伊勢国風土記逸文」に、次のように記されていま
す。


天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)12世の子孫天日別命(アメノヒ
ワケノミコト)は神武天皇から「東の国を平定してまいれ」との命令を受け、
伊勢に向かった。
 伊勢にはイセツヒコノミコトという神がおり、アメノヒワケは、
 「汝の国を天孫に献上せよ」
と、言いますが、イセツヒコは、
 「吾は長きにわたってこの国に住んでおる。その命令をきくわけにはいか
ない」
と、拒否します。そこでアメノヒワケは武力でこれを制し、イセツヒコをま
さに殺してしまおうとした時に、イセツヒコは、
 「わが国は天孫に献上いたす。吾はこの国を出て行く」
と、誓った。
アメノヒワケが、
「汝がこの地を去っていくのは、どうやって知ることができる?」
と、訊くと、
「吾は今夜、風を起こし、波を立てながら東に向かう。それが吾の去ってい
く験(しるし)である」
そこでアメノヒワケが軍を整えて見守っていると、夜中、大風が起こり波が
荒れ、海が昼間みたいに明るく光り輝いて、それが東へと去っていった。
古語に、「神風の伊勢の国」、「常世に浪寄する国」というのは、この出来
事が由来である。
以来、イセツヒコは信濃国に住む。


なお、『伊勢国風土記』の別の逸文によれば、このイセツヒコは、


 出雲の神の子、イズモタケコノミコト(出雲建子命)、またの名をイセツ
ヒコノミコト(伊勢津彦命)、またの名をクシタマノミコト(櫛玉命)


と、あります。


・・・つづく