小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

もう間違えないよ

2013年04月19日 00時50分20秒 | 日記
2010年7月6日(火)(2歳3か月)


 (きのうのつづき)


 わが家の玄関先に今年もツバメが住み着いた。

 それを見た春奈が、

 「ペンギン」

と、言ったことは前にも書いた。

 春奈は白黒つながりでツバメもペンギンだと
思っていたようだ。

 ところが、そのツバメのつがいはどういう理由
だか、どこかに去ってしまっていた。

 それが今日、ファミリーから帰ってくると空家に
なっていた巣にまた新しくツバメが住み着いていた。

 「またどっかのツバメが来てる」

と、みんなで巣を見ていると、ゆうきが春奈に、

 「はる、ほらペンギンやで」

と話しかけた。

 すると、春奈が、

 「ツバメやで」

と、返した。

 もうツバメとペンギンの違いはわかったようだ。


 就寝の時に、春奈がまた2階に上がって遊ぼうとす
るので、みんたが1階から、

 「はる行ったで。部屋に入れんといてやー」

と、2階にいるりえに声をかけた。

 言われてりえが開いている部屋のドアをバタンと閉め
て春奈が入れないようにする。

 それで春奈が、うえーんと泣きだしので、ゆうきが、
面白がって春奈の前で、うえーん、と泣きマネをすると、
春奈が、

 「泣いてないやんか!」

と、言った。

 いつも、自分が、泣いても涙を出していないので、
みんなから
「泣いてないやんか」
と、言われているのと同じことをゆうきに言っている。


やっぱりえらそう

2013年04月18日 01時41分04秒 | 日記
2010年7月5日(月)(2歳3か月)


 今日のお風呂はゆうきも一緒である。

 湯船の中で、ゆうきがふざけて春奈の肩や
腹をくすぐっていると、最初ニコニコしてい
た春奈も途中でうっとうしくなったのだろう。
 そのうちに、

 「さわるな!」

と、春奈が吼えた。

 実にえらそうだ・・・。 



2010年7月6日(火)(2歳3か月)


 今日は火曜日だから、いつもの、みんたが
主催のヒッポファミリークラブ北野田の日。

 ファミリー中、春奈がおやつのクッピーラ
ムネを食べ始めたので、ゆうきが、

 「ちょうだい」

と、ねだると、

 「1個だけやで」

と、あいかわらずケチなことを言いながら
ラムネを一粒ゆうきにあげたものの、それを
口に入れたゆうきが一言、

 「にがっ!」

 すると春奈が厳しい顔で、

 「ラムネおいしいで!」

と、叱りつけた。

 そう、「怒った」、と言うよりも「叱りつ
ける」という表現がピッタリくる、そんな様
子が見ていて何かおかしい。

 でも、やっぱりえらそうだ。

127 出雲と日置部②

2013年04月18日 01時38分52秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生127 ―出雲と日置部②―


 そして、日置部は出雲にもいました。

 出雲大社の西北に位置する出雲市大社町の日御崎神(ひのみさき神
社)の祠官は日置氏で、『集古文書』所収の建長五年(1253年)
三月の文書に、

 「補任日置政家、出雲国日御崎検校職」

と、あり、元弘三年(1333年)四月の文書には、

 「日御崎検校職 神領使日置政友」

と、あります。

 また、『延喜式』には、

 「出雲国に内外日置田二町を置く」

と、記され、伊勢の疋田と同様に日置田が置かれていたのでした。

 日御崎神社は、日没宮(ひしずみ宮)、日沈宮と称されますが、
日没(日沈)は日隅と同じもので、伊勢に対して称されたものなの
でしょう。
 なお、日御崎神社の祭神は、上宮がスサノオで、下宮が天照大御
神です。

 出雲と日置氏の関係はそればかりではありません。
 日置里の日置氏は、『新撰姓氏録』によれば天櫛玉命(アメノク
シタマノミコト)を祖とすることが記されていますが、『古事記』
に登場する櫛八玉神と同神である可能性が高いと思われます。
 『古事記』には、

 出雲国の多芸志の小浜に天の御舎を造りて、水戸神(みなとの神
)の孫櫛八玉神(クシヤタマの神)、膳手(かしわで=料理人)と
なりて天の御饗(みあえ)を献りし時に、壽ぎ白して、クシヤタマ
の神、鵜と化して海の底に入り、海底の土を採って来てそれで天の
八十瓦を作り、海布(海藻)を刈ってひきり臼に作り、海蒪(こも)
を以てひきり杵を作り、火をおこして、
 「このわがきれる火は、高天の原には、神産巣日御祖命のとだる
天の新巣のすすの八拳垂るまで焼きあげ、地の下は底津石根に焼き
凝らして、たく縄の千尋縄打ち延べ、釣りせし海人の口大のオハタ
スズキ、さわさわにひきよせあげて、打竹の、とおおとおおに天の
真魚咋献る」
と、言う。

と、記され、国譲りをした大国主を祭祀する役を担った神として描
かれているのです。

 櫛八玉と天櫛玉が同神と考えられている理由は単に名前が似てい
るだけでなく、土師氏との関係が推測されるからです。

 上記の『古事記』の文中に、
 「海底の土を採って来てそれで天の八十瓦を作り・・・」
と、ある部分に注目されるのです。

 伊勢の斎宮跡から淡路の伊勢久留麻神社を結ぶライン、このライ
ン上にある日置里(現在の堺市東区)から少し西に進んだ地点に大
鳥郡土師郷(現在の堺市中区土師町周辺)があり、土師氏の一流の
居住していた地とされているところです。
 興味深いのは、この斎宮跡と伊勢久留麻神社を結ぶライン上の、
笠縫から少し西に進んだ地点に土師氏の別の一流が本拠を置いた田
原本町の菅原神社が鎮座しているのです。菅原は、この地にいた土
師氏が改名したものです。

 『日本書紀』の垂仁天皇七年七月の記事に、葛城の当麻にいた当
麻蹴速(タイマノケハヤ)と戦わせるために、出雲より野見宿禰を
召した、とあります。
この勝負は、野見宿禰が当麻蹴速を蹴り殺したことで決着がつき、
当麻蹴速の領地はすべて野見宿禰に与えられたのでした。
これが、野見宿禰が大和に居住することになった理由となっている
わけですが、土師氏は野見宿禰の子孫を称しています。
葛城には、大和の日置氏の本拠である朝妻があり、尾張氏の大和に
おける拠点も葛城でした。尾張氏の拠点高尾張邑は高天に比定され
ていますが、高天と朝妻は近い位置にあり、大国主の御子神とされ
るアヂスキタカヒコネを祀る高鴨神社もこの近くに鎮座します。

ところで、日置里の日置氏の祖天櫛玉は『新撰姓氏録』には白堤
(しらつつみ)氏の祖でもあることが記されています。

 「白堤首、天櫛玉命八世孫大熊命之後也」

と、あるのがそれなのですが、白堤氏が奉じたとされる白堤神社は
天理市の長柄に鎮座しています。
 『新撰姓氏録』には、大和の氏族として長柄首を記していますが、
長柄氏はコトシロヌシの子孫を称していたようです。
 コトシロヌシもまた大国主の御子神で、やはり葛城に鎮座する神
です。
 ここでもまた葛城がひとつのキーとなっているわけです。


・・・つづく

「逃げろー」と言ってたのに・・・

2013年04月17日 01時28分43秒 | 日記
2010年7月4日(日)(2歳3か月)


 最近、春奈がテーブルの席に着く時に、回る椅子に座り
たがる。

 春奈には危ないからそっちに座らせないようにしてるの
だけど、今日、その椅子にゆうきが坐ると、春奈が、

 「あぶないで、あかんで」

と、注意していた。

 いつも自分が言われてるからって・・・。


 春奈はいつも1階の和室でねているけど、ゆうきとりえは
2階の部屋でふたりで寝ている。

 ゆうきとりえが、就寝のために2階に上がろうとすると、春
奈がふたりについていく。

 「はる、行かないよー」

と、みんたに言われると、

 「にげろー」

と、言いながら春奈は階段を上がっていった。

 悪くなったなあ。

 でも、それなのに、お姉ちゃんの部屋にしばらくいると、

 「もういい。下でねる」

と、言って階段を下りて行った。

 何がしたいねん?


126 出雲と日置部①

2013年04月17日 01時25分10秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生126 ―出雲と日置部①―


 さてさて。ここまで古い時代の太陽神や天照大御神のことを取り上げなが
ら、太陽祭祀を司っていたとされる日置部(ひおきべ)について触れてこな
かったことを不思議に思われた人もいるのではないでしょうか。
 太陽神を、と言うよりは大国主と太陽神の関係を考察することが目的だっ
たので、これまで日置部のことを取り上げる機会がなかったのです。
 日置部についての研究はこれまでに多くの研究者たちによってさまざまな
著作本に紹介されているわけですが、たいがいが伊勢神宮と日置部のつなが
りを扱っているように思えます。
 もちろん、伊勢神宮以外の、たとえば出雲と日置部の関係について、を扱っ
たものもあり、井上辰夫の「太陽祭祀と古代氏族」(松前健/白川静ほか『古
代日本人の信仰と祭祀』に収録)もそうなのですが、今回は井上辰夫の説を
中心に進めていきたいと思います。

 日置部が太陽祭祀に関わっていた氏族だとされる最大の要因は「日置」とい
う氏族名によるところが大きいのですが、日置部、そしてこれに属する部民を
統括していた日置氏が伊勢にいたことは、天暦七年(953年)の「伊勢近長
谷寺資財帳」に、伊勢国多気郡相可郷の治田を、日置伯雄や日置貴子らが近長
谷寺(きんちょうこく寺)に施入したり沽進したりしているので、これをもっ
てその存在の証拠とされています。

 多気郡多気町には、四疋田、三疋田などの地名が相可に隣接して存在します
が、疋田(ひきた)は日置田に通じます。
 この地は櫛田川の中流域に属しますが、そこからやや下流のところで祓川
(はらい川)に分流し、その祓川の下流にあるのが、斎宮跡です。
 多気郡多気の郷は、孝徳天皇の時代に屯倉が置かれた地に比定されています。

 「十郷を以て分かち、竹村に屯倉を立て、麻績連広背を督領とし、磯部真夜
手を助督として仕え奉りき」

と、『群書類従』にあるのがそれで、この中にある竹村は多気郷のことである
といいます。
 なお、この多気郷(竹村)は、時代が下った天長二年(825年)、

 「斎宮寮、多気郡竹郷にあり。天長二年乙巳、勅使を伊勢国に差し遣わして、
勝地を多気郡に撰定し、はじめて斎宮寮院を建つ」

と、斎宮寮の置かれた地でもありました。
 斎宮寮というのは、斎宮をサポートする役職を担う役所と考えていただけれ
ばいいかと思います。そのスタッフは120名以上で、経理や医療なども担当
していたといいます。そして、朝廷より送られてきた役人なのでした。

 これらのことからも朝廷と深い結びつきあったことがうかがえます。

 屯倉は、この多気郷の他にもうひとつ、度会の山田に原にも設置されました。
 山田の屯倉を立てたのは新家連と磯連牟良でしたが、伊勢新屋氏の本拠は、
三重県久居市新家に比定されています。

 久居市には戸木(へき)という地名が残されていますが、戸木は日置で、伊勢
国壱志郡日置郷に当たります。
 そうすると、皇太神宮の屯倉の設立には日置部が関係していることが想像され
るわけです。

 ところで、大和の三輪山に鎮座する、大神神社の祭神大物主は、天照大御神成
立以前までは太陽神として信仰されていたと思われるのですが、伊勢の斎宮跡か
ら真西に進んだところにこの三輪山が位置するのです。

 大物主の巫女であり妻であったヤマトトトヒモモソヒメの墓と伝えられる箸墓
古墳もほぼこの延長上にあり、さらに西に向かうと、宮中より天照大神を遷した
笠縫邑に比定される笠縫があり、そこからさらにまっすぐ西に進みますと、二上
山を越えて大阪府に入り、日置里(現在の堺市東区日置荘)に当たります。

 このことは、日置氏がその居を定める時に、斎宮を基準に一定の方向を強く意
識していたあらわれと思われます。

 と、言うのも、日置里からさらにまっすぐ西に向かうと、淡路島の津名郡来馬
郷(現在津名郡淡路町久留麻)に至り、この地には式内社の伊勢久留麻神社(い
せくるま神社)が鎮座しているのですが、この神社は、伊勢奄芸郡(あむぎ郡)
の久留真神社(くるま神社)を勧請したものと伝えられています。
 淡路の伊勢久留麻神社伊勢の久留真神社は今お話ししましたように、斎宮跡か
ら真西に位置しますが、伊勢の久留真神社は斎宮跡の真北に位置します。
 さらに、斎宮跡と久留真神社と先ほどお話しした久居市とを線で結べば、35°
×35°×110°の二等辺三角形が出来上がるのです。

 大和における、日置氏の本拠は葛城の朝妻(現在の御所市朝妻)でしたが、朝妻
と三輪山と堺市の日置部を線で結べば、40°×40°×100°の二等辺三角形
が出来上がるのです。

 そして、日置部は出雲にもいました。

 出雲大社の西北に位置する出雲市大社町の日御崎神の祠官は日置氏でした。


・・・つづく