小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

98 丸邇氏と息長氏

2013年02月12日 00時11分31秒 | 日記
大国主の誕生98 ―丸邇氏と息長氏―


 ヒコイマス王の妃は、4名で、そのひとり山城のエナツヒメは、
山城の豪族の娘だったと思われます。
次に春日のタケクニカツトメの娘とあるので春日氏の女性でしょう。
そして、近江のアメノミカゲの神(天之御影神)の娘オキナガミ
ズヨリヒメ。
最後に丸邇氏のヲケツヒメ。
 開化天皇の子ヒコイマス王の妃たちも春日氏や丸邇(わに)氏
から迎えていて、それから、山城と近江から迎らえています。
 山城は、丸邇氏の祖ヒコクニブクがタケハニヤスビコを討伐し
た地で、近江のオキナガミズヨリヒメはその名前から息長(おき
なが)氏の娘と考えられます。

 そして、ヒコイマス王の11人の子のうち、ミチノウシ王はヒバ
スヒメ、タカノヒメ(マトノヒメ)姉妹の父なのですが、この近江
のオキナガミズヨリヒメとの間に生まれた子です。
 また、同じくオキナガミズヨリヒメとの間に生まれたミズノホノ
マワカ王は近江の安直(やすのあたい)の始祖と『古事記』に記さ
れています。この安とは、オキナガミズヨリヒメの父アメノミカゲ
神が祀られている御上神社のある野洲市です。

 ミチノウシ王は、丹波の河上のマスノイラツメ(摩須郎女)を娶
られてお生まれになったのが、
ヒバスヒメノミコト(比婆須比売命)、
次にマトノヒメノミコト(真砥野比売命)、
次にオトヒメノミコト(弟比売命)、
次にミカドワケノミコ(朝廷別王)の4名。
 
 ヒコイマス王の子の中で、その系譜が伝えられているのはミチノ
ウシ王の他には、丸邇氏系のヲケツヒメの生んだヤマシロノオオツ
ツキノマワカ王だけなのですが、この人物の名前も、南山城の綴喜
(つづき)郡にちなむものになっています。
 その系譜は、『古事記』に次のように記されています。

 次にヤマシロノオオツツキノマワカ王は、同母弟イリネ王の娘
タニワノアヂサハビメ(丹波能阿治佐波毘売)を娶られてお生まれ
になったのが、
カニメイカヅチノミコ(迦邇米雷王)。
この王、丹波の遠津臣の娘、名はタカキヒメ(高材比売)を娶られ
てお生まれになったのが、
オキナガノスクネノミコ(息長宿禰王)。
この王、葛城のタカヌカヒメ(高額比売)を娶られてお生まれになっ
たのが、
オキナガタラシヒメノミコト(息長帯比売命=神功皇后)、
次にソラツヒメノミコト(虚空津比売命)、
次にオキナガヒコノミコ(息長日子王)の3名。

 つまり、ヤマシロノオオツツキノマワカ王は同じくヲケツヒメが
生んだイリネ王の娘を妃に迎えているのですが、その名前に丹波と
いう地名が入っているのです、
 そして、この丹波の姫タニワノアヂサハビメの生んだ子カニメイ
カヅチ王ですが、この人物を祭神として祀る朱智神社のあるのが、
旧綴喜郡の京田辺市です。
 このカニメイカヅチ王の妃が葛城のタカヌカヒメで、その子オキ
ナガタラシヒメは仲哀天皇の妃で、神功皇后と呼ばれる人物です。
 さて、この葛城のタカヌカヒメについては、『古事記』の「応神
記」に、その系譜が記されているのですが、それによると、アメノ
ヒボコの子孫とあります。
 アメノヒボコの子タジマモロスクの子タジマヒネの子タジマヒラ
ナキの子がタジマモリ(この人物については「垂仁記」にエピソー
ドが載っています)と、タジマヒとカトキヨヒコです。
 タジマヒタカ(多遅摩比多訶)が弟キヨヒコ(清日子)の娘スガ
カマユラドミ(菅竃由良度美)を娶って生まれたのが葛城のタカヌ
カヒメです。
 キヨヒコの妃でユラドミの母にあたる女性は、タギマノメヒ(当
麻の斐)と記されていますが、そうすると、ユラドミは大和の当
麻氏の娘と考えられます。
 当麻は北葛城の地ですので、そのことからも葛城の系譜と考えら
れるわけなのですが、福井県美浜町の須加麻神社(すかま神社)の
祭神がこのスガカマユラドミなのです。
 なぜユラドミが福井県に祀られているのかについては、とりあえ
ず今は置いておきますが、このように、ヒコイマス系には、丹波や
葛城、南山城の氏族の関わりが色濃くあり、丸邇氏と息長氏とのつ
ながりも強調されています。

 鴨氏(鴨県主)が渡来人系の秦氏と歩調を合わせるようにして、
南山城に進出し、それから現在の京都市に進出してさらに丹波に
進出したのと同じように、丸邇氏も息長氏と歩調を合わせるように
して南山城に進出して、そこから近江へと進出していったのです。


・・・つづく

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