小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

泉州に眠るロシア兵の魂

2017年07月17日 00時28分14秒 | 日記
 ヒッポファミリークラブには海外ホームステイのプログラムでロシアもある。
 わが家でロシアホームステイに行ったことのあるのは、ゆうき一人である。
 ロシアと言ってもヒッポで行くロシアは極東ロシアと呼ばれる地域で、かつての北満州である。
 ちなみに、清という国は、満州が中国(明)、モンゴル、チベット、ウイグルなどを併合して作ったものだ。清朝末期に
満州北部はロシアに奪われて、満州南部は辛亥革命の後、中華民国がわが国の領土、と主張した。一時日本の
支援のもと満州国として独立したものの第二次大戦後は中華民国に属し、現在も中華人民共和国の一部となって
いるのは周知のとおり。
 まあ、満州のことがメインではないのでここら辺にしておいて、本題の内容に移る。
 
 僕のひいじいさんは旧日本海軍の人で、じいちゃんは、ひいじいさんの当時の赴任地であった横須賀で生まれた。
 そのひいじいさんは日露戦争における旅順港第三次閉塞作戦で戦死した。
 日露戦争と言えば1904年だから、もう100年以上も昔のことになる。
 それでも、わが家では遠い日の出来事ではない。
 なにしろ、10年ほど前に、ひいじいさんの百回忌をしたのだから。
 だから、僕にとっても日露戦争は歴史本の中の出来事ではなく身近に感じられる戦争なのである。
 
 ところで、泉州には日露戦争に絡む歴史がある。
 僕が住む堺市に隣接した高石市、そして泉大津市だ。
 
 まずは、高石市にある南海電鉄高師浜駅。
 
 
 
  この駅舎前のスペースの一角に、ロシア兵捕虜収容所に関するプレートがある。
 それが、これ。
 
 
 
 
 「明治37年(1904年)より始まった日露戦争では、多くの俘虜が日本に連行され、翌年1月第4師団司令部により、
ロシア人俘虜収容所が設置されました。その範囲は紀州街道西側の北は芦田川から南は王子川に至る地域で、
大部分が高石村の土地でした。当時高石村の人口は約3500人で、収容された俘虜は約28000人であり、村人に
とっては大きな出来事でした。その後俘虜は、明治39年(1906年)2月までには、全員ロシアに送還されました。
 現在も高師浜2・4丁目、千代田2・4・6丁目一帯に残る整然とした道路は、俘虜収容所の区画の名残と言われて
います。」
 
と、書かれている。
 この28000人の捕虜は戦争終結後に帰国したけど、不幸にも89名の兵士がこの地で命を失った。
 その兵士たちの眠る墓地が泉大津市にある。
 
 
 
 こちらにも解説のプレートがあり、以下のことが書かれている。
 
 「日露戦争の開始により、明治三十七年(一九〇四)十一月、多数のロシア兵捕虜のうち約三万人が堺市浜寺の
海岸の仮設テントに終了されました。翌、明治三十八年(一九〇五)、高石に捕虜収容所が建設され、そこで八十九名の
兵士が死亡しましたが、彼らの冥福を祈るため、隣接する泉大津の住民がみずからの墓地のうち600㎡を提供し、
ロシア兵の墓地が造られました。
 墓石は八十九墓あり、兵士の宗教を表す紋・所属部隊名と、その下に自国語と片仮名で名前が刻まれています。
中央には、当時のロシア政府が建設した五稜の石像慰霊碑が
建っています。
 慰霊碑の下部には、兵士それぞれの自国語であるロシア語、アラビア語、ドイツ語・ポーランド語・ヘブライ語の
五ヶ国語の文字で「魂よ 安らかなれ」を意味する言葉が、亦上部にはロシア語で「死せるロシアの戦士たちへ 
旅順港の戦友より 一九〇五年」と刻まれています。この慰霊碑の東側には、捕虜収容所長の漢文による墓地建設由来を
刻んだ石像記念碑が建っています。
 時折、兵士の母国の人々が墓参に訪れますが、墓地は、地元の有志による清掃活動によって、美しく保たれています。」
 
 ロシア兵墓地の慰霊碑
 
 
 
 上部は帝政ロシアの国旗の紋章になっている。
 
 
 なお、この墓地は浜街道沿いにある。
 浜街道そのものは、現在ではかなり消失されている箇所が多いけども、墓地近くには雰囲気がよく残されている地域も
ある。
 もしロシア兵墓地を訪ねることがあった時には、こちらも歩いてみるのもいいかもしれない。
 
 浜街道(泉大津市)
 
 

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