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小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

632物部氏と出雲 その20

2018年08月24日 01時04分37秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生632 ―物部氏と出雲 その20―


 この歌の意味そのものは、

 「吉備産の鉄の鍬で耕すように手拍子を打ちなさい。私が舞いましょう」

といった他愛もないものなのですが、「吉備の鉄」という部分に引っかかるものがあるのです。

 ちなみに「たらちし」とは後の「吉備の鉄」にかかる枕詞です。
 吉備にかかる枕詞としては他にも「まがね吹く」があり、『古今和歌集』に、

 まがね吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ

という歌が選ばれています。

 それでは、古代の吉備は製鉄が盛んだったのか、という疑問が当然出てくるわけですが、これに
ついては岡山県古代吉備文化財センターの『古代吉備を探る2』の、第11回「限りある資源を
大切に」(上栫武著)にある吉備の製鉄遺跡に関する部分を引用させていただこうと思います。

 「吉備で、製鉄遺跡は約30遺跡、製鉄炉は100基以上が発掘されており、他地域とは格段の
差があります。
 特に備中の総社市地域に集中しており、西団地内遺跡群・奥坂遺跡群の11遺跡で82基の
製鉄炉が見つかりました。多数の製鉄遺跡からみても、やはり奈良時代までは「まがね吹く吉備」
という状況だったようです。
 このような吉備の鉄生産を支えた背景には、原料の豊富な存在が不可欠です。奈良時代以前には、
製鉄原料として鉄鉱石と砂鉄を使用していたことが、出土遺物の分析から明らかです。

 備中の総社市の両遺跡群や新見市上神代狐穴(かみこうじろきつねあな)製鉄遺跡、備前の
岡山市白壁奥(しらかべおく)製鉄遺跡・みそのお遺跡、赤磐市猿喰池(さるはみいけ)製鉄遺跡
などは鉄鉱石を原料としていました。
 一方、砂鉄を原料とした鉄生産は、美作の津山市大蔵池南(おおくらいけみなみ)製鉄遺跡、
緑山遺跡など、中国山沿いの遺跡で確認していますが、遺跡数は前者に及びません。
 奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流で、その豊富な埋蔵量が「まがね吹く吉備」たらしめた
と言えるでしょう」

 さて、これらを踏まえた上であらためて出雲と吉備を製鉄でつながりがないかと探してみると、
ひとつの伝承が浮かび上がってきます。
 それはヤマタノオロチ伝承です。

 岡山県赤磐市の石上布都魂神社(いそのかみふつみたま神社)に伝わる話では、当社の本来の
祭神はスサノオがヤマタノオロチを斬った剣、布都御魂(フツノミタマ)だといいます。
 これらは前にもお話したことですが、大和の石上神宮にも吉備の石上布都魂神社の布都御魂が
大和の石上神宮に遷されたとする伝承があり、『日本書紀』の別書にも、

 「オロチを斬った剣は、今は吉備の神部の許にあり」

 あるいは、

 「オロチを斬った剣は、名付けて蛇の麁正(オロチノアラマサ)という。今は石上にある」

と、記されています。

 そして、スサノオがヤマタノオロチを斬った時に、その尾の中から取り出したのが草薙剣で、
この剣は天照大御神から倭姫命に、それがヤマトタケルに渡り、その後は尾張氏に渡されて熱田
神宮にて祀られるようになります。

 さらに言えば尾張氏は大和国葛城の高尾張邑に拠点を持ち、その葛城にはアヂシキタカヒコネを
祭神とする高鴨神社が鎮座します。『出雲国風土記』にもアヂシキタカヒコネは登場するので、
出雲でもアヂシキタカヒコネは信仰されていた、少なくともその存在は知られていたことになり
ます。
 『出雲国風土記』に載るアヂシキタカヒコネの伝承は「もの言わぬ御子」の伝承ですが、すでに
考察したとおり、これは水銀中毒、つまりは製鉄にたずさわる人々の職業病が下敷きとなっている
ようなのです。
 『出雲国風土記』のアヂシキタカヒコネの伝承は三重県四日市市水沢町に鎮座する足見田神社の
伝承と重なりますが、水沢町はヤマトタケル伝承の、三重村の比定地のひとつでもあります。
他にも四日市市には、船木氏ゆかりの太神社や、ホムチワケのお供をつとめて出雲に赴き、その後に
出雲大社の造営を任されたという菟上王を祀る莵上耳利神社が鎮座します。
 菟上王を祀る神社では、同じ三重県のいなべ市に菟上神社があり、菟上王の兄でともに出雲訪問に
大きくかかわった曙立王を祀る佐那神社も同じ三重県の多気郡多気町仁田(にた)に鎮座して
います。しかも『出雲国風土記』のアヂシキタカヒコネの伝承も出雲国仁多郡(にた郡)のもの
です。ともに「にた」という地名であることは偶然で片づけてはいけないように思えます。
 ホムチワケもまた「もの言わぬ御子」であり、その伝承が『出雲国風土記』のアヂシキタカヒコネの
伝承と似通っていることはこれまで何度となく指摘してきたことなのでここでは割愛させていた
だきますが、これらを眺めてれば、出雲と伊勢、葛城、そして吉備が製鉄でつながることがはっきりと
見えてくるのです。

 後は、武渟川別が出雲振根討伐の伝承に登場するのはなぜなのか、という問題です。

631物部氏と出雲 その19

2018年08月12日 02時04分05秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生631 ―物部氏と出雲 その19―


 『出雲国風土記』の伝承は、ヤマトタケルが神門臣古禰を屈服させた後、景行天皇が神門臣の
一族を建部(たけるべ)にした、というようにも解釈できますが、そうではないでしょう。いかに
伝承とは言え、建部は朝廷の私有民である部民のひとつですから地方豪族を私有民の身分に落と
してしまったことになるのです。
 これは、景行天皇が建部を作り、神門臣古禰をその管轄者としたので以降、神門臣は建部臣を
称するようになった。という意味でしょう。

 と、なるとフルネは大和政権から追討されるべき存在ではなかったということにもあるわけです。
 そこであらためて『日本書紀』と『古事記』を対比してみます。

 『日本書紀』は、出雲振根が、飯入根(イイイリネ)の刀を木刀にすり替えた後に、飯入根を
斬殺し、

 八雲たつ 出雲タケルが佩ける太刀 黒葛(つづら)わさまき さ身なしにあわれ

と、歌う。
 しかし振根は大和政権が派遣した武渟川別と吉備津彦の軍に討たれた、という内容です。

 『古事記』は、倭建命(ヤマトタケルノミコト)が、出雲建(イズモタケル)を木刀にすり替えた
後に、斬殺し、

 やつめさす 出雲タケルが佩ける刀(たち) 黒葛(つづら)さわまき さ身無しにあわれ

と、歌う、というものです。

 たしかに、登場人物を除けば、伝承そのものは同じものと考えるべきでしょう。
 ただ、これまで、ヤマトタケル=武渟川別と吉備津彦、出雲建=出雲振根、という図式で解釈
されてきたきらいがあります。これは大和政権側の人間が出雲の首長を討った、という図式で見た
からではないでしょうか。
 ふたつの伝承を重ね合わせてみたなら、この話は一方が策略を用いてもう一方を斬殺して
「出雲タケルが佩ける太刀」と詠んだという内容のものであることがわかるでしょう。
 この内容に従えば、ヤマトタケル=出雲振根、出雲建=飯入根、という図式になるわけです。
『出雲国風土記』もフルネが大和政権に討たれた、とは記していないのです。

 しかし、それならなぜ吉備氏の始祖(吉備津彦)と阿倍氏の始祖(武渟川別)がフルネを討つ
話が加えられたのか、という疑問が生じます。
 この答えを求めると、一見すれば少し意外に思えるところにヒントが隠されているのです。

 それは『播磨国風土記』です。
 『播磨国風土記』の美嚢郡の項に、市辺之忍歯王(イチノベノオシハ王)の御子、オケ王と
ヲケ王の話が登場します。
 市辺之忍歯王は、石津ヶ丘古墳の被葬者と伝えられる履中天皇の皇子で、履中天皇は仁徳
天皇と葛城氏の女性との間に生まれた天皇です。履中天皇も葛城氏の女性を妃に迎えて市辺之
忍歯王を生み、さらに市辺之忍歯王も葛城氏の女性を妻にしてオケ王とヲケ王を生んでいます。
つまり仁徳天皇から市辺之忍歯王までの三代が葛城氏から妻を迎えているわけで、葛城氏に
とってオケ王とヲケ王はプリンスの中のプリンスであったことになります。
 しかし、葛城氏の本宗が滅亡した後、市辺之忍歯王は雄略天皇に謀殺され、危険が身に及ぶ
ことを恐れたオケ王とヲケ王は逃亡します。
 その後、『日本書紀』では清寧天皇の在位中、『古事記』では清寧天皇の薨去後にこの
ふたりの皇子が播磨で発見されるのですが、『古事記』、『日本書紀』、『播磨国風土記』が
ともにほぼ同じ内容のことを記しているのです。

 『古事記』には、播磨に宰(後の国司にあたる役職)として赴任してきた山部連小楯(やまべの
むらじおだて)が志自牟(しじむ)の家で開かれた新築祝いの宴に招かれた時に、ヲケ王が舞い、
その歌の中に、
 「吾は履中天皇の御子市辺之押歯王の子なり」
という一節を入れたので、小楯はこの兄弟が行方不明となっていた二皇子であると知る、という
いきさつが記されています。

 次に、『日本書紀』では、新嘗の供物を求めに播磨にやって来た、播磨国司山部連の祖、伊予
来目部小楯(いよのくめべのおだて)が縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)の忍海部造細目の
家で開かれた新築祝いの宴に招かれた際にヲケ王が舞い、その歌の中に、
 「吾は履中天皇の御子市辺之押歯王の子なり」
という一節を入れたので、小楯はこの兄弟が行方不明となっていた二皇子であると知る、という
いきさつが記されています。

 最後に『播磨国風土記』では、播磨に来ていた山辺連小楯が志深村首(しじみのむらのおびと)
伊等尾(いとみ)の家で開かれた新築祝いの宴に参加した際、宴の席でヲケ王が舞い、その歌の中に、
 「吾は履中天皇の御子市辺之押歯王の子なり」
という一節を入れたので、小楯はこの兄弟が行方不明となっていた二皇子であると知る、という
いきさつが記されています。

 記紀と播磨国風土記のすべてが同じ内容のことを伝えているわけですが、それぞれの違いについて
言うと、二皇子が匿われていた家の主の名が異なる点と、あとヲケ王の歌った歌の詞が異なるのです。
それは、歌い始めから自分の正体を明かす箇所に至る部分の歌詞なのですが、『古事記』、『日本書紀』、
『播磨国風土記』でそれが異なっているのです。
 そして、『播磨国風土記』が伝えるこの時の歌詞とは、

 「たらちし 吉備の鉄の 狭鍬持ち 田打つ如す 吾は舞ひせ」

というものなのです。

630 物部氏と出雲 その18

2018年08月03日 02時03分57秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生630 ―物部氏と出雲 その18―


 造山古墳の造営が吉備の単独では不可能ならば、それは大和政権の主導、もしくは全面的な協力に
よって行われたとしか考えられないのです。
 そして、吉備を優遇したのはおそらく葛城氏であろうということは前にもお話ししました。
 その理由については、石津ヶ丘古墳と造山古墳の関連を挙げました。
 前出の高橋護はその著作「吉備と古代王権」(小林三郎編『古墳と地方王権』に収録)の中で、
造山古墳と大阪府堺市の石津ヶ丘古墳(伝・履中天皇稜)は、平面形も側面形もまったく同じで、
両者を重ねるとほぼピッタリと一致する、双子のような古墳であり、同じ設計図をもとに造られた
古墳としか思えないと、していますが、畿内には数多くの巨大古墳がある中で、造山古墳と
「同じ古墳」が石津ヶ丘古墳であることに意味があるように思えるのです。

 まず、石津ヶ丘古墳が葛城氏ともっとも血縁の強い履中天皇の陵墓とされていることです。
ただし、これも少し前に造山古墳と石津ヶ丘古墳の関連を紹介した時にお話したことなのですが、
古墳の被葬者については記紀にある天皇陵の記載を参考に指定されているだけで、調査の結果古墳の
造営時期と被葬者と伝えられている天皇が生きていた推定時期にズレが生じている場合も多々あり
ます。大事なことは『古事記』と『日本書紀』が石津ヶ丘古墳の被葬者を履中天皇だとしていること
なのです。
 石津ヶ丘古墳は現在の堺市西区にあります。古墳時代における堺市の海岸線は今よりずっと東で、
それこそ石津ヶ丘古墳の近くあたりであったといわれています。瀬戸内を通り紀伊半島に至る海上の
道において、難波津から南に下ったところで石津ヶ丘古墳を見ることができたわけです。
 葛城氏が台頭してきたのは応神朝から仁徳朝にかけての頃と推測されますが、この両天皇は難波に
拠点を置き、しかも瀬戸内の海人の伝承も絡んでくる、さらには多くの渡来人がやって来た、と
瀬戸内海の海上の道が重視された時代でもあるのです。
 ここから考えられる、吉備が大和政権から特別視されたその理由のひとつが挙げられます。
 玄関口となる宗像から難波に至る海上の道の中継点のひとつが吉備だったのです。このことは
『古事記』の神武東征の中にも、九州を発った神武天皇一行が、瀬戸内を海上ルートで進み、途中に
安芸の多祁理宮(たけりのみや)、吉備の高島宮に滞在した、と記されていることからもその可能性を
探ることができます。
 ただし、この考察の弱点は、他にもあったはずの瀬戸内の中継点の中で、なぜ吉備だけが特別扱い
されたのかという疑問には応えていないところです。

 そもそも吉備が特別視されていたというのは、何も造山古墳に限られたことではないのです。
 『古事記』には、第7代孝霊天皇の皇子、大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命の両名が吉備氏の
始祖と記されています。中央によって編纂された『古事記』が吉備氏を皇族の子孫だと記している
わけです。
 また、『古事記』には大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命がともに西国を平定した、とあり、
『日本書紀』には吉備津彦が四道将軍のひとりと記されており、大和政権の地方平定に貢献した
ことになっているのです。
 ところが、ここに注意が必要で、志田諄一が『古代氏族の性格と伝承』の中で指摘していること
でもあるのですが、『日本書紀』では四道将軍のひとりに加えられている吉備津彦が『古事記』では
四道将軍に加えられていません。
 その一方で、『古事記』では大吉備津日子(吉備津彦)を吉備上つ道臣の始祖と記しているのに
『日本書紀』にはそのような記述がありません。

 『日本書紀』にある四道将軍としての吉備津彦の功績については、西国を平定したこと、タケハニ
ヤス王の反乱の鎮圧、出雲振根(イズモフルネ)の討伐が挙げられますが、このうち西国平定は
『古事記』にも載せられているものの、タケハニヤス王の反乱には吉備津彦の名は見えず、出雲振根の
事件もまた『古事記』には見られず、代わりにヤマトタケルが出雲建(イズモタケル)を討った
説話が登場します。
 出雲振根の説話と出雲建の説話は元来同じものであった、と多くの研究者は捉えています。
 しかし、出雲の首長を討った人物が『古事記』ではヤマトタケル、『日本書紀』では武渟川別
(タケヌナカワワケ)と吉備津彦、と異なるのはどうしてなのでしょうか?ふたつの説話が同源で
あると言われながら、この疑問点についてはあまり論じられることがなかったような気がします。
 その理由については、ヤマトタケルと吉備氏の関係がひとつの原因となっているのかもしれません。
すなわち、ヤマトタケルの母が吉備氏の女性であるという関係です。だから、吉備氏の功績がヤマト
タケルにすり替えられてしまった、というものです。
 しかしながら、これはヤマトタケルが実在の人物であり、かつ母が吉備氏の女性であることが史実と
いう場合にのみ成り立つものです。それに、阿倍氏らの始祖である武渟川別がここに登場する理由とは
成り立たないのです。

 ところで『古事記』も『日本書紀』もともに中央側の手によって作られたものです。反対に出雲側
から見たものが『出雲国風土記』に残された出雲郡建部郷の伝承です。

 「先に宇夜(うや)の里となづけられた由来は、宇夜都弁命(ウヤツベノミコト)がここの山の峰に
天降ったからで、その神の社は今もなおここに鎮座する。それゆえに宇夜の里という。
 しかるに後に建部(たけるべ)と名を改めたのは、景行天皇が、
 『わが皇子ヤマトタケルの名を忘れまい』
と、おっしゃられ建部を設置されたからである。
 その時、神門臣古禰(かむど臣フルネ)を建部に定められた。すなわち、建部臣(たけるべのおみ)らは、
古来より現在に至るまでこの地にいる』

 出雲側の伝承でもヤマトタケルの功績となっているのです。こうなると、むしろヤマトタケルの
伝承を吉備氏の伝承にすり替えた、と解釈したくなってきます。
 ただし、『出雲国風土記』の記事は、ヤマトタケルが出雲フルネを討った、とは明記していないのです。
 そこであらためて出雲フルネの伝承を掘り下げてみる必要があります。

629 物部氏と出雲 その17

2018年07月18日 01時15分56秒 | 大国主の誕生
 みなさんどうもご無沙汰をいたしましてすいませんでした。

 またまた長いお休みをしてしまいました。
 前回はこちらにログインができなくなってしまい、かつその解決がうまく
いかなかったからなんですが、今回の長期休暇は仕事の関係でPCに向かう
時間が取れなかったからでした。

 まあ、かなしいかな、まだブログを更新していく環境にまでは戻っていま
せんが、何とか時間の隙間を縫って更新していこうと思っています。
 どうぞもう少しお付き合い宜しくお願いします。


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 大国主の誕生629 ―物部氏と出雲 その17―


 古代の吉備のことを吉備王国などと呼ぶ研究者もいますが、その吉備王国の実態というものは想像によるもので
あるところが大きいのが実情です。
 吉備は瀬戸内海に面した地域から発展していったとされています。古代の日本は海岸線が現在よりも内陸部にあり、
古墳時代の頃から徐々に後退していき現在の形になったのですが、これらは河川の流れによって運搬されてきた土砂が
河口に堆積されたことによってできたものが大半であるといいます。いわゆる沖積平野と呼ばれるものです。
 そして、吉備の場合、沖積平野ができあがったのが他の地域に比べてかなり早い時期であったことがわかっています。
そして、弥生時代のこの地域では多くの人口を擁した大集落が形成されていたことが遺跡の発見などからもわかって
います。
 ただし、このことがそのまま吉備王国として発展していったとは断言することはできないのです。それは古墳から
うかがい知ることができると言います。

 たとえば高橋護は「吉備と古代王権」(小林三郎編『古墳と地方王権』に所収)の中で、吉備氏の中でも最大の
雄族として吉備の本流を形成したのではないかと考えられている吉備下道臣、この吉備下道臣の拠点に比定される
下道郡には、古墳時代前半の時代にあたる優勢な大型古墳は存在しない、と指摘しています。
 しかし、記紀では吉備下道臣は上道臣と並んで吉備を代表する氏族として扱われているのです。
 このことについては、高橋護は、下道臣出身で記紀が編纂された頃に右大臣を務めた吉備真備の影響力によるもの、
と考察しています。

 それから、原島礼二(『古代の王者と国造』)も、吉備地方の巨大古墳の分布から、吉備には絶対的な権力者が存在
しなかった、と考察しています。
 すなわち、吉備は4世紀においては諸豪族の連合であり、諸氏族に力の大小はあるにせよ対等と言ってよいつながりで
連合体を形成しており、5世紀になると巨大古墳を造営することのできる有力氏族が存在しながら、それらがその他の
氏族を支配するようなピラミッド型の連合体ではなかった、としています。

 これの根拠となる、吉備地方の巨大古墳の分布についてですが、まず瀬戸内海に注ぎ込む河川を境界線としていくつかの
ブロックに分ける方法があります。
 前出の高橋護も「吉備と古代王権」の中で書いていますが、中国地方はこの地方を流れる山地が浅いためあまり大きな
川がないですが吉備地方を流れる吉井川、旭川、高梁川は中国地方の中では際立って大きな川です。そのおかげで沖積
平野が広がり弥生時代には多くの集落が作りだされることになったわけです。

 話を原島礼二の考察に戻しますと、やはり吉備を河川でエリア分けしています。
 それによると、上記の三川に砂川と足守川を加えて、東から順に、
 吉井川の東側
 吉井川と砂川の間
 砂川の西側
 旭川の東岸
 旭川の西岸
 足守川の東岸
 足守川と高梁川の間
といったエリアに分けて、さらにこれらのエリアで造られた100メートルを超す古墳の造営時期を比較しています。
それによって、以下のような結果をまとめています。(註:①から⑦の番号は都合上こちらで付けたものです)

 ①吉井川の東側
  4世紀中頃 天神山古墳(全長127メートル)
  4世紀後期 花光寺山古墳(全長110メートル)

 ②吉井川と砂川の間
  4世紀前半 浦間茶臼山古墳(全長120メートル)

 ③砂川の西側
  4世紀前期 玉井丸山古墳(全長150メートル)
  5世紀後期 両宮山古墳(全長192メートル)

 ④旭川の東岸
  4世紀前半 網浜茶臼山古墳(全長120メートル)
  4世紀後半 湊茶臼山古墳(全長160メートル)
  5世紀初頭 金蔵山古墳(全長165メートル)
 
 ⑤旭川の西岸
  5世紀初頭 神宮寺古墳(全長150メートル)

 ⑥足守川の東岸
  4世紀前半 中山茶臼山古墳(全長150メートル)
  4世紀後半 車山古墳(全長134メートル)
  5世紀前半 小丸山古墳(全長150メートル)
        小盛山古墳(全長100メートル)
        佐古田堂山古墳(全長150メートル)

 ⑦足守川と高梁川の間
  4世紀後半 小造山古墳(全長110メートル) 
  5世紀前期 造山古墳(全長350メートル)
        上車塚古墳(全長125メートル)
  5世紀中期 作山古墳(全長270メートル)
  5世紀後期 宿寺山古墳(全長118メートル)

 補足として書き加えておきますと、上記の古墳の名称と大きさは『古代の王者と国造』に記されているもので。研究が
進んだ今日の名称や大きさとは異なっています。たとえば『古代の王者と国造』の中では全長127メートルとある
備前市の天神山古墳(牛窓天神山古墳)は、その後の調査の結果、現在では100メールに満たないことが判明して
います。

 さて、上記のエリアを見てみると、吉備の東部、①と②のエリアでは5世紀以降巨大古墳は造られなくなっています。
反対に西の⑥と⑦のエリアでは5世紀の後半になっても巨大古墳が造営されており、一見すると5世紀後半には西の勢力が
吉備の王者となったかのように思えます。しかし、④のエリアでは5世紀後半に入ってからも全長165メートルが造営
されていることからそのようには考えにくい。
 このことは、古墳時代全般を通してひとつのエリア、つまりはひとつの勢力が存在し続けていたわけでもなく、また
その時々においてもっとも盛んであったエリアの勢力が吉備のその他のエリアを支配していたわけでもない、と推測され
るわけです。

 以上のような高橋護や原島礼二の考察に従うとするなら、吉備王国というものは想像の産物であり実際には存在しな
かったことになります。
 すると、吉備王国の存在を主張する側からは、大規模な勢力を保持していなければ全国第4位の大きさを誇る造山古墳
など造られはしなかった、という意見が出てくるわけです。
 しかしこれも、先に紹介したように、高橋護は国家規模のプロジェクトでない限り造山古墳を造ることは不可能、と
試算しています。つまり仮に吉備が巨大の力を持っていたとしても、吉備単独では造山古墳の造営は不可能である以上、
この古墳が吉備王国の存在していた理由にはなり得ないということになるのです。

 しかし、同時に造山古墳は吉備の謎を解くカギを秘めてもいるのです。

628 物部氏と出雲 その16

2018年05月14日 01時42分37秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生628 ―物部氏と出雲 その16―


 正確には、軍事力による出雲制圧が史実として存在したのかは疑問である、という
ことです。
 『日本書紀』における出雲振根の討伐、『古事記』における出雲建の誅殺、それに
記紀神話における国譲りなどにより、古代の出雲は大和政権に征服された、と解釈
されることが多々あります。
 たしかに多くの研究者たちは、これらの伝承はすべてが事実ではないにせよある
程度は史実を反映している、と見ています。しかし、その解釈には大きく分けると
次の2つに分かれるのです。
 まず前者は、出雲国が大和政権による軍事侵攻の結果、その版図に組み込まれる
ようになったとし、後者は、出雲は連合のような関係から次第に中央政権と地方豪族の
関係に変化したのであり、記紀の記事はあくまでも神門郡あたりで起こった内紛を
大和政権が軍事力で収束させたものと見る意見です。
 たとえば、これまでに何度か紹介してきた水野祐は、『古代の出雲と大和』の中で、
 「大和政権の西進運動の一環として、吉備を服属させた後、吉備氏族と物部氏族の
手で出雲が統合された」
と、しています。

 軍事侵攻説の中でも異彩を放つ説を唱えたのが門脇禎二(『出雲の古代史』)です。
 こちらの説は、出雲を信仰したのは吉備勢力単独であった、とするのです。その後、
吉備は大和政権の軍事力の前に屈服し(『日本書紀』に記される雄略朝時代の一連の
事件を指します)、出雲での影響力を失った結果、替わって大和政権が出雲を支配した、
と説くのです。

 ところで、門脇禎二の『出雲の古代史』と水野祐の『古代の出雲と大和』がともに
雲南市三刀屋町にある松本1号墳について記述しているのが興味深いところです。
 この古墳は全長が50メートル、造られたのは4世紀後半と考えられており、出雲の
古墳の中でも初期にあたるものです。

 大和政権による出雲の支配、というトピックについて語る時によく登場するのが
出雲地方の古墳についてです。出雲では、東西で古墳の形状が異なるからです。
東出雲では方墳や前方後方墳が築かれ、西出雲では円墳や前方後円墳が築かれています。
円墳や前方後円墳は畿内や吉備では多く作られている形状なので、そのことをもって
して、西出雲は大和政権の支配下に収まったために円墳や前方後方墳が造られた。一方
大和政権に従った西出雲は独自の方墳文化をたもつことができたのだ、という理論です。
 もっとも、東西の対立(具体的には意宇の勢力と杵築の勢力の対立)や大和政権の
西出雲への軍事侵攻があったという前提でのものなのですが。
 それに、東の方墳、前方後方墳と西の円墳、前方後円墳と言っても、ある場所を境界と
して明確に分れているわけでもありません。実際のところ東出雲にも円墳や前方後円墳は
多く存在するのです。
 しかしながら、史料の少ない古代出雲のことですので古墳の分布も対象にしようと
する傾向があるのも仕方のないことなのかもしれません。

 では、その松本1号墳についてです。
 門脇禎二が松本1号墳に着目したのは、東出雲の古墳における葬方は礫床に遺体を
のせるのを伝統しているのに対して松本1号墳では大和と同じ粘土槨(ねんどかく=遺体を
安置した木棺を粘土で覆う葬法)を採っていること、その築き方が吉備の湯迫車塚古墳に
酷似していること、そして吉備への道が平野部から山道にさしかかる要点を見おろす
ところに築かれていることで、結論として門脇禎二は松本1号墳は出雲振根征討後もこの地に
とどまっていた吉備からの遠征軍の一将軍が葬られたものと考察しています。

 一方の水野祐は、出雲平野における前方後方墳の他の16基が安来市から松江市に
かけての東出雲に地域に限って分布しているのに対し、松本1号墳だけは西出雲の雲南市
とされることで矛盾が生まれるというわけなのです。
 ただし、この問題については自身が『古代の出雲と大和』の中で、かつて出雲大社の
宮司も務めた千家尊宣より教えられたこととして次のように記しているので抜粋します。

 「松本一号墳の存在する飯石郡三刀屋町(註:当時の地名。現在では雲南市三刀屋町)
という所は、大国主神出雲経国上の根拠地として常に御館が存在した由緒の深い地であると
伝えられ、その地に古来素戔嗚尊と大己貴命とを主祭神とする三屋神社(旧郷社)が鎮座
しているのである。そして出雲国造家も、三刀屋郷の総氏神である本社をことさら尊崇
されている由である。したがってこの地は、西出雲ではあっても、大原郡に接し、東出雲の
勢力が西進するに際し、先づ楔を打ちこんだのがこの地域であり、そこに国造家奉斎の神を
奉祀する神社を鎮座させたのであり、したがって東出雲の墓制である前方後円墳が、この
地に存したとして一向に差支えない理由を、千家先生の御教示によって明らかにし得たので
あった」

 また、前之園亮一(「出雲の古代豪族」『歴史読本昭和六十年七月号謎の古代出雲王朝』
所収)は5世紀半ばを最後に出雲郡では古墳が途絶えたことに触れ、その理由を、東部の
出雲臣などに滅ぼされたからではなく、斐伊川に沿って下って来た大和政権の勢力が5世紀
後半に出雲郡に到達し、ここを出雲国経営の根拠地としたために在地勢力が衰退したからで
あろう、としています。

 以上は古墳から古代出雲の歴史や情勢を読み取ろうとした説なのですが、ところが出雲
だけでなく吉備にも目を向けると、今度はまったくと言ってもよいほど違うものが見えて
くるのです。