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小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

637 蘇我氏の登場 その3

2018年11月09日 02時50分26秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生637 -蘇我氏の登場 その3-


 それはつまり、『日本書紀』の編纂スタッフは、欽明天皇こそ正当な皇統であり、継体・安閑・宣化
天皇を「仮の天皇」と見ていたのかもしれない、ということです。
 たしかに、『日本書紀』の表現は継体天皇を大王としてふさわしい人物として描いています。しかし、
『古事記』はオヲド王を手白髪命の夫にして皇位に就けた、と上から目線で記しているのです。
 次に継体天皇の3人の御子、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇ですが、生母に違いがあるのです。
 安閑・宣化の両天皇の生母は尾張連草香の娘、目子媛(メノコヒメ)、対して欽明天皇の生母は手白髪命、
すなわち仁賢天皇の皇女なのです。
 この手白髪命が産んだ欽明天皇こそが「正当な大王」である、というわけです。 

 そこで、この時代の各天皇の皇后を見てみることにします。
 19代允恭天皇の後は、御子の安康・雄略天皇、雄略天皇の御子である清寧天皇と続きますが、清寧
天皇には子がいなかったので、その次には17代履中天皇の孫である顕宗・仁賢天皇が天皇の位に就く
ことになります。この顕宗天皇から。

顕宗天皇 難波小野王(雄略天皇の孫か?)
仁賢天皇 春日大郎女(雄略天皇の皇女)
武烈天皇 皇后不在
継体天皇 手白髪皇女(仁賢天皇の皇女)
安閑天皇 春日山田命(仁賢天皇の皇女)
宣化天皇 橘仲皇女(仁賢天皇の皇女)

 顕宗・仁賢天皇はたしかに履中天皇の孫で、そこだけを見たならば皇位継承は問題ないように思えます。
ですが、允恭系の清寧天皇とはハトコの関係になり血縁上の繋がりが遠いことも否めないわけです。その
ために允恭系の皇女を皇后に迎えることで前王朝の直系となり得たわけなのですが、実際には皇子の方が
「婿入り」したのだ、とする見解もあります。これは当時が女系であったから、とする考えから来るもの
です。

 時代を遡れば、神武天皇も九州にいた時に阿比良比売(アヒラヒメ)という女性を妻にして多芸志美美命
(タギシミミノミコト)をもうけていますが、大和を平定した後に大物主神の娘である伊須気余理比売
(イスケヨリヒメ)を皇后に迎えています。
 大和の支配者となるには地主神の娘を皇后にする必要があったためでしょう。これも一種の「入り婿」の
形と言えます。
 だから、長兄のタギシミミも神武天皇が崩御すると、後継者となるために義母であるイスケヨリヒメを
妻にしているのです。
 しかし、タギシミミは弟である、イスケヨリヒメの生んだ神沼河耳命(カミヌナカワミミノミコト)の
殺害されてしまったからです。
 記紀はこの事件を、タギシミミがカミヌナカワミミを殺害しようとしたのでカミヌナカワミミの方から
先に仕掛けたものだと記しており、かつタギシミミが第2代天皇に就いたとは記していません。真相は
どうであれ兄殺しのカミヌナカワミミが綏靖天皇として即位し、かつ何事も起きなかったのは、地主神も
カミヌナカワミミが大王となることを望んだから、と解釈されるのです。
 もしかすると『日本書紀』の編纂者たちも神武天皇から綏靖天皇へと継がれていったことが頭にあったのか
もしれません。ただ、継体天皇から欽明天皇へと継がれていったことにしたくとも、その間に安閑・宣化の
ふたりの天皇がいたとする記録が存在していたためにその存在を否定することができなかった、と推測する
こともできるかと思います。

 先にお話ししたように、欽明天皇即位の年を巡る謎を解くためのひとつの説として、安閑・宣化天皇の
朝廷と欽明天皇の朝廷が並立していた、とする二王朝論を説く研究者もいますが、事実はいまだ霧の中と
言えるでしょう。
 ですが、宣化朝と欽明朝と結ぶ人物がいます。
 蘇我稲目です。

 『日本書紀』の「宣化紀」元年の記事として、

 「大伴金村大連を大連とし、物部麁鹿火大連を大連とした。この両名はこれまでどおり。また、蘇我稲目
宿禰を大臣とする。阿倍大麻呂臣を大夫とする」

とあります。蘇我氏が歴史の舞台に躍り出た瞬間と言えるでしょう。
 欽明朝においても蘇我稲目は引き続き大臣の地位におり、なおかつ娘の堅塩媛(きたひひめ)と小姉君
(おあねのきみ)のふたりを欽明天皇の妃にしているのです。

 もっとも蘇我稲目については、歴史上実在した人物だと言われていますが、伝承的な部分も多分にあり、
したがって宣化天皇の時に大臣になったとする記事も伝承のものであるという可能性も否定できないのですが、
ともかくこの記事を読むかぎり宣化朝で大臣となった蘇我稲目が欽明朝においても娘を天皇の妃にする力を
有していたことになり、宣化天皇から欽明天皇へは自然な流れで続いていたことになります。

 ただ、蘇我氏の台頭はやがて物部氏との対立を招くこととなるのです。
 歴史が好きな方は、後に蘇我氏と物部氏が軍事で戦うことになることをご存知でしょうが、一般にこれは
仏教の伝来に伴う崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の宗教対立によるもの、と解釈されてきたきらいがあります。
 ところが、両氏の対立は仏教を信仰するかしないか、といった話ではなかったのです。

 この章では、蘇我氏と物部氏の対立を軸に、大国主命という神が誕生することになったその下地とも言える
時代背景を考察していきたいと思います。

636 蘇我氏の登場 その2

2018年10月14日 01時28分09秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生636 -蘇我氏の登場 その2-


 そして、その死にまつわる『日本書紀』の不思議な記述です。
 継体天皇の没年は、『古事記』が、

 「天皇の御歳は四十三歳で、丁未の年の四月九日に崩御された」

と記しています。「丁未の年」とは西暦では527年です。

 一方、『日本書紀』は、

 「(継体天皇)二十五年の春二月に天皇は重い病にかかられた。丁未に天皇、磐余玉穂宮にて
崩御された。御年八十二歳」

とし、また継体天皇二十五年は辛亥の年と記しています。西暦にすると531年で、『古事記』と
4年の差が生じます。
唯一一致するのが「丁未」なのですが、これも『古事記』が「丁未の年」、『日本書紀』が
「丁未の日」としているのでその意味は大きく異なります。

 ところで、『日本書紀』が記す「継体天皇崩御は、継体天皇二十五年で辛亥の年」について
なのですが、これについて『日本書紀』は次のように記しているのです。

 「ある本には、天皇が二十八年に崩御されたとある。しかしながら本書が二十五年に崩御と記す
のは、本書を編纂するにあたって『百済本紀』の記事を参考にしたからである。それに書かれて
いることによれば辛亥の年に日本の天皇および皇太子と皇子がともに薨去したという。辛亥の年とは
二十五年にあたる」

 この文を読むと『日本書紀』が編纂された当時、継体天皇が在位28年の年に崩御したとする
記録が、(おそらく日本に)存在した、ということになります。
にもかかわらず、朝鮮半島の「百済本紀」に、「辛亥の年に日本の天皇と皇太子と皇子がともに
薨去した」という記事があるのでこちらを採択した、と記しているのです。

 これに関連して、奇妙なことがもうひとつ、聖徳太子の伝記としては最古のものとされる『上宮
聖徳法王帝説』の中にあります。

 ただ、これを紹介する前に継体朝以降の話をします。
 第26代天皇である継体天皇の後には、継体天皇の3人の御子が続いて即位しています。
 それは次のとおりです。

 27代安閑天皇
 28代宣化天皇
 29代欽明天皇

 なお、安閑・宣化天皇の生母は尾張連草香の娘、目子媛(メノコヒメ)で、欽明天皇の生母は
仁賢天皇の皇女、手白髪命です。つまり、安閑・宣化天皇と欽明天皇は異母兄弟というわけです。

 それでは『上宮聖徳法王帝説』ですが。
 この書の中には、第29代欽明天皇が在位四十一年の辛卯の年に崩御した、と書かれているのです。
 この辛卯の年とは西暦では571年にあたります。この年が在位41年目ということは、そこから
逆算すれば欽明天皇即位の年は、西暦531年。つまり継体天皇が崩御した辛亥の年なのです。
 すると、安閑天皇と宣化天皇の在位期間がなくなってしまうわけのです。

 ちなみに『日本書紀』では、欽明天皇崩御の年は欽明天皇三十二年のことになっています。仮にこの
欽明天皇三十二年が辛卯の年(西暦571年)ならば、即位の年は西暦539年ということになります
(即位の翌年が欽明天皇元年になります)。
 『日本書紀』では、安閑天皇の在位は3年、宣化天皇の在位は5年となっています。
 これを西暦に置き換えると、

 531年。継体天皇崩御。安閑天皇即位。
 533年。安閑天皇崩御。宣化天皇即位。
 537年。宣化天皇崩御。欽明天皇即位。
 569年。欽明天皇崩御。

ということになり、欽明天皇崩御の年が辛卯の年(西暦571年)より2年ずれてしまうことになり
ます。
 一方、『古事記』は、継体天皇崩御が丁未の年(西暦527年)で安閑天皇崩御が乙卯の年(西暦535年)と
しているのです。
 これだと安閑天皇の在位は9年ということになってしまうわけですが、しかし、これを西暦に置き換え
、さらに欽明天皇の治世を『日本書紀』が記すとおり32年としたならば次のようになります。

 527年。継体天皇崩御。安閑天皇即位。
 535年。安閑天皇崩御。宣化天皇即位。
 539年。宣化天皇崩御。欽明天皇即位。
 571年。欽明天皇崩御。(欽明天皇三十二年)

 このように欽明天皇崩御を辛卯の年(西暦571年)とする『上宮聖徳法王帝説』と合致します。
 『日本書紀』の編纂スタッフもこのことに当然気づいていたと思うのですが、なぜか「百済本紀」の
継体天皇崩御の年は辛亥の年(西暦531年)とする記事を採用するのです。
 「なぜか」と疑問形にしたのは「百済本紀」の記事があまりにも不穏だからです。「日本の天皇と
皇太子と皇子がともに薨去した」という記事はクーデターによる暗殺を疑わせるものです。
 それは『日本書紀』の編纂スタッフが「あえて疑わせるようにした」からなのかもしれません。

635 蘇我氏の登場 その1

2018年10月08日 00時44分34秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生635 -蘇我氏の登場 その1-


 前章の最後にふれたように、神武天皇からはじまる皇統は25代武烈天皇で途切れてしまった
のです。それまでにも子をなすことができなかった天皇はいましたがその場合には近親者が皇位を
継いでいました。ところが、武烈天皇が崩御した時には男性の近親者が誰もいないという状況に
なっていたのです。
 そこで朝廷は応神天皇五世の孫だという男大迹王(オヲド王)を新天皇に選んだのでした。
26代継体天皇です。

 継体天皇の即位とその崩御については以前に採り上げたのですが、時間がたってしまいましたし
少しおさらいをしてみたいと思います。

 王統が途絶えてしまったために遠縁のオヲド王が新天皇に選ばれた、と今しがた言いましたが、
実のところ『日本書紀』には、最初からオヲド王が新天皇として選ばれたわけではなく、はじめは
丹波国桑田郡にいる、第14代仲哀天皇五世の孫、倭彦王(ヤマトヒコ王)を新天皇に迎えることに
なった、と書かれています。
 倭彦王を推したのは、大連であった大伴金村でした。朝廷も金村の意見に従って使者に軍勢を
つけて倭彦王のもとに派遣しました。
 ところが、この軍勢を遠目に見た倭彦王は自分を攻めに来たものと思い込んで逃亡してしまった
のです。
 結果、このような臆病者では天皇としての資質に欠ける、ということで新たに候補として浮上した
のがオヲド王だったのです。オヲド王を推したのもまた大伴金村でした。

 オヲド王については『古事記』、『日本書紀』がともに、応神天皇五世の孫である、と記して
います。

 ただし、その本拠については記紀で異なる記述をしています。
 まず『古事記』の方は、

 「品太天皇五世の孫、袁本杼命、近淡海国より上り坐さしめて・・・」

と、近江にいた、としているのですが、これに対して、『日本書紀』の方は、

 「天皇の父、彦主人王(ヒコウシ王)は振媛がたいそう美人であると聞いて、近江国高嶋郡の三尾の
別業より使者を遣わして、三国の坂中井に媛を迎えて妃とした。そうして継体天皇が生まれた」

と、オヲド王が近江の出身であるとする記述に続いて、オヲド王が幼少の頃の父王が亡くなったため
オヲド王の母は故郷である越前国坂井郡高向に帰り、その地でオヲド王を育てたと書かれているのです。
 つまりは、『古事記』は、オヲド王は近江にいた、とし、『日本書紀』の方は越前にいた、として
いるわけです。
 もっとも、このことに関してはオオド王の版図が越前から近江にまたがる広い版図を有していたものと
考える研究者も少なくないようです。


 こうした事情を経て朝廷の使者がオヲド王のもとに送られますが、使者を応対したオヲド王のこの時の
様子を『日本書紀』は次のように記しています。

 「男大迹王天皇、晏然に自若して、胡坐に踞坐す。陪臣をととのえ列ねて、すでに帝の坐すが如し。
しるしを持つ使等、これによりて敬憚りて心を傾け命を委せて忠誠を盡さむことを願う(オオド王は
泰然と座られ、すでに天皇の風格をまとわれておられた。使者たちは眼前にあって、敬いの気持ちと
命をかけての忠誠を誓う決心をした)」

 まさしく「帝王」たる資質を有した人物であった、と言うかのごとき記述なのですが、『古事記』の
方はオヲド王を新天皇に迎えるにあたって次のように記しているのです。

 「品太天皇五世の孫、袁本杼命、近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授け
奉りき。(応神天皇五世の孫、オオドノミコトを近江国から上京させ、仁賢天皇の皇女の手白髪命と結婚
させて天皇の位を授けた)」

 こちらの記述からは『日本書紀』のように三顧の礼で迎えたとするものと大きく異なった印象を受け
ます。
 『古事記』の記述は、大和政権が入り婿の形でオヲド王を迎えて天皇の位に就けた、というものなの
です。
 しかし、『日本書紀』からでも、やはり皆から望まれてオヲド王が新天皇として迎えられたわけでは
なさそうだ、と思われるのです。

 と、言うのもオヲド王が新天皇として即位したのは河内の樟葉宮(現在の大阪府枚方市楠葉に比定)で、
その後筒木宮(京都府京田辺市にあったと推定)、弟国宮(京都府長岡京市にあったと推定)と遷り、
最終的に大和の磐余の玉穂(奈良県桜井市)に都を遷してようやく大和入りを果たしたのは即位してから
実に20年後のことだったのです。

 なぜ要請を受けてからすぐに大和入りしなかったのか?あるいは大和入りができない理由があったのか?
 この辺りの解釈は研究者たちの間でも様々なのですが、「大和入りをしなかった(できたのだけども
あえて大和入りをしなかった)」と考える人たちは、慎重に事を動かそうとした継体天皇が。大和の手前に
留まって実情を調査しようとしたため、と考えます。
 また、あえて大和入りしないことで朝廷の諸豪族を焦らし、度重なる要請によりようやく大和入りをした、
という「三顧の礼」の形にもっていくための作戦とする説などがあります。
 しかし、大和入りに20年かけたというのはいくらなんでも長すぎます。
 「大和入りができなかった」とする研究者たちの考え方は、大和政権側に、オヲド王の即位に反対する
勢力が少なからず存在していたため、というものです。もし、当初オヲド王に樟葉にて大和の実情を探ろうと
していた、とする説を採用するにしても、結果、対抗勢力が侮れないものと判断したため大和入りを延期した、
と推測することもできます。つまりは結局のところ大和入りは難しいと判断されたということです。

 もうひとつ、大和入りが困難だった、と考えられる理由のひとつが継体天皇の年齢です。
 オヲド王が大和からの要請を受けて樟葉宮で継体天皇として即位したのが、継体天皇57歳のこと。つまり
大和入りを果たしたのは継体天皇が77歳のことだったのです。
 現代においても高齢と言うべき年齢になっていたわけで、まして当時で考えると年齢的には異常に遅い
大和入りだということがお分かりでしょう。

 さらには、継体天皇の死においても、やはり異常なものを感じざるを得ないのです。

634物部氏と出雲 その22

2018年09月27日 01時17分44秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生634 -物部氏と出雲 その22-


 このように、物部氏と吉備氏、そして尾張氏は草薙剣によって結びつかられるわけです。同時に
このことは製鉄につながるものでもあり、阿倍氏や葛城氏もそれによって繋がって来るのです。

 それでは出雲はと言いますと、出雲こそ古くより製鉄の国だったのです。
 出雲といえば、国の重要有形民俗文化財にも指定されている、雲南市吉田町の菅谷たたら山内
(すがやたたらさんない)に代表されるように古くからたたら製鉄がおこなわれていました。
 ちなみに山内とは製鉄に従事する人たちの集落をいいます。
 菅谷たたら山内は江戸期のものですが吉田町では鎌倉時代から製鉄がおこなわれていたといいます。
 古代の出雲ではどうだったかと言いますと、松江市の岡田山1号墳から「額田部臣」の銘が刻まれ
た鉄剣が発見されています。
 また出雲市の荒神谷遺跡から358本もの銅剣が発見され、雲南市の加茂岩倉遺跡からは39個
もの銅鐸が発見されています。
 日本では、製銅をおこなっていた集団がそのまま製鉄をおこなうようになったとされていますが、
近年、製銅と製鉄はほぼ同時期に始まっていると考えられるようになりました。

 尾張氏もまた青銅にたずさわり、そのまま製鉄をおこなっていた氏族なのですが、この尾張氏に
物部氏が近づいたのです。
 その名残が『先代旧辞本紀』に見られる尾張氏と物部氏の祖の合体です。つまり、これまでにも
何度となくふれてきたように、尾張氏の祖である天火明命(アメノホアカリノミコト)と物部氏の
祖である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が、『先代旧辞本紀』では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)と合体しているのです。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の御子のうち天香語山命を尾張氏らの始祖、宇麻志麻治命を物部氏らの
始祖、と『先代旧辞本紀』はしています。

 『古事記』や『日本書紀』は、ニギハヤヒ(邇芸速日命、饒速日命)と天火明命を別神として描いて
いますが、しかし、両書の描くニギハヤヒは、神武天皇よりも先に大和の地に降臨した、となって
います。

 ところで、雄略朝時代は何度かあった大和政権の変化期のひとつであったと言えます。
 それまでの大和政権は有力豪族の連合体であったする考察がありますが、中国の周王朝や日本の
室町幕府に例えることができるでしょうか。
 これまで、大和政権の中心にいたのは葛城臣や和邇臣など臣(おみ)の姓(かばね)を持つ氏族
たちでしたが、雄略朝時代になると、政権の中心は物部連、大伴連、中臣連ら連(むらじ)の姓を
持つ氏族たちによって占められることになるのです。
 これら連姓氏族の性格は、天皇の近衛的な側面が強かったと考えられるところです。そのことは
物部氏らの始祖伝承にも見ることができます。
 正確なことを言えば、『古事記』や『日本書紀』ではニギハヤヒの系統について何も記されては
いません。しかし『先代旧辞本紀』では天火明命と同一神とされているわけですから、天孫降臨の
番能邇邇芸命(ホノニニギノミコト)の兄神になります。天火明とホノニニギはともに天忍穂耳命の
御子神なのです。
 ただ『古事記』と『日本書紀』で異なる点は母神の名で、『古事記』は高木神(高皇産霊神)の娘、
万幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキシヒメノミコト)、『日本書紀』は拷幡千千姫(タクハタ
チヂヒメ)とします。なお、『古語拾遺』も拷幡千千姫命とし、高皇産霊神(タカミムスヒ神)の
御子神とあるので、天火明命は高皇産霊神の孫という系譜となります。

 実は大伴氏の祖である天忍日命も高皇産神の御子神とされており、拷幡千千姫命の弟とされている
のです。そして天孫降臨に際してはホノニニギに従って地上に降りているのですが、この時ともに
従った神の中に中臣氏の祖である天兒屋命(アメノコヤネノミコト)がいます。 
 『古事記』では、ニギハヤヒは天孫降臨には従っていないものの、天孫(神武天皇)に仕えるために
降りてきた、と言う場面が登場します。
 つまりは、物部氏、大伴氏、中臣氏らはすべて、祖である神が天皇につき従うという図式になって
いるのです。

 さて、臣姓氏族ら有力氏族の連合体であった大和政権が、天皇の近衛的性格を持つ氏族たちを中心
とした勢力に変わっていったことは、言うまでもなく天皇に権力が集中していったことを意味します。
 しかし変わったのはそれだけではありません。

 葛城氏はその氏族名が示すように大和の葛城を本拠とする氏族でしたが、応神朝以降の難波を重視
する方針に従い大阪府に進出していったものと想像できます。
 そう考える理由として、『日本書紀』には葛城氏が朝鮮問題に大きく関わり、渡来人の技術者たちの
管轄を担っていたと考えられる記述が多く見られるからです。

 これに対して、物部氏は大阪府に拠点を置く氏族でした。葛城氏の退場後、替わって台頭してきた
物部氏が大阪府に居住する渡来系の技術者集団の管轄を行うようになったことは十分に考えられる
ことですし、おそらくは大和に住む渡来系の技術者集団も物部氏が管轄したことも十分に考えることが
できます。
 このことは物部氏の勢力圏から考えるのではなく、物部氏が伊勢に進出し、製鉄の人々と深く関わる
ようになったことからも考察することができるのです。
 なぜなら、これまで見てきたように製鉄集団の中には渡来人やその子孫によって構成されるものが
多く存在するからです。
 東は伊勢に、西は吉備に勢力を伸ばした物部氏はその後出雲へと進出していったと考えられます。
『出雲国風土記』には楯縫郡の郡司に物部臣の名が記されていますが、これは出雲国楯縫郡に土着
した物部の一族であろうと言われています。


 物部氏の台頭はおそらく雄略朝のことであったと思われるのですが、雄略天皇の跡をうけた清寧天皇
には子がなく、履中天皇の孫であるオケ王とヲケ王が皇位を継ぐこととなります。顕宗天皇と仁賢天皇
です。
 物部氏や大伴氏らはこの時代も政権の中心にいました。
 しかし、仁賢天皇の次の武烈天皇の崩御の時に時代が大きく動くこととなります。
 武烈天皇には子がなくその崩御によって王統が途絶えてしまったのです。

633物部氏と出雲 その21

2018年09月09日 11時44分20秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生633 -物部氏と出雲 その21-

 武渟川別(タケヌナカワワケ)の子孫は、『古事記』に、

「大毘古命(オオビコノミコト)の子建沼河別命、この方は阿部臣等の始祖」

と記されています。
 「阿部臣等」としていることから、他にも武渟川別を始祖とする氏族がいたことになるわけ
ですが『古事記』はその代表格として阿倍氏を挙げています。

 この阿部氏の本貫については諸説ありいまだ決着を見ない状況なのですが、その中で有力視
されているのが大和国十市郡阿倍(現奈良県桜井市)です。
 他にも、大和国葛下郡阿倍とする説、摂津国東成郡安倍野、同じく東成郡余部郷(あまべ郷)、
伊賀国阿拝郡(あえ郡)、駿河国安倍郡などの説があり、これらの地は本貫ではなかったと
しても、少なくとも阿倍氏の拠点だった可能性は十分にあります。
 そして、そのいずれの地もが意味を持つのです。

 まずは大和国葛下郡阿倍ですが、葛下郡とは葛城のことですから、まさに葛城氏や鴨氏の拠点、
そしてアヂシキタカヒコネを祀る高鴨神社が鎮座する同じ葛城の地に阿倍氏の拠点があったことに
なるのです。

 次に摂津国東成郡ですが、これは現在の大阪府大阪市に含まれる地域ですが、ここにアヂシキ
タカヒコネを祀る阿遅速雄神社(あちはやお神社)が鎮座するのです。さらにこの神社は草薙剣
とも関係を持ちます。
 阿遅速雄神社の祭礼日(10月22日)には、草薙剣を御神体とする熱田神宮の宮司あるいは
神職の参礼あり、反対に熱田神宮の大祭(6月5日)には、阿遅速雄神社の宮司、氏子総代らが
参列するのです。
 熱田神宮の大祭の熱田祭は「菖蒲祭」とも呼ばれ、かつては陰暦の5月5日に行われていま
したが、阿遅速雄神社には神池として菖蒲池があり、5月5日には菖蒲刈神事が行われているの
です。

 このような阿遅速雄神社と熱田神宮の関係は、阿遅速雄神社の社伝によるところが大きいよう
です。
 その内容は次のようなものです。
 新羅の僧であった道行が草薙剣を盗み出し新羅に逃げ帰ろうとしますが、その途中で嵐に遭い、
これを草薙剣の祟りだと考えた道行は剣を投げ捨ててしまいます。しかし剣は里人に拾われて、
この阿遅速雄神社に納められた、というのです。

 『日本書紀』の天智七年の記事にも、新羅の僧であった道行が草薙の剣を盗み出し、新羅へ
逃げ帰ろうとしたものの、途中暴風に遭って失敗に終わった、とする記事があります。

 次の伊賀国阿拝郡ですが、ここは「稚き児(おさなきちご)の宮」敢国神社の鎮座する地なの
です。
 「稚き児の宮」については、少し前に採り上げたところなのですが、『梁塵秘抄』の巻二の
二六二番歌に、

 南宮の本山は 信濃国と承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚き児の宮

という歌があります。「南宮の本山」とは諏訪大社、「中の宮」とは南宮大社、「稚き(おさなき)
児(ちご)の宮」とは敢国神社(あえくに神社)のことと解釈されています。

 歌中に登場する三社の南宮の祭神はいずれも製鉄の関わっているとされる神です。
 もっとも正確には、敢国神社の場合は主祭神が大彦命で配神が少彦名命と金山比咩命となって
います。
 大彦命とは、『古事記』に、
「大毘古命(オオビコノミコト)の子建沼河別命、この方は阿部臣等の始祖」
とある大毘古命のことです。つまりは阿倍氏の始祖の父が主祭神として祀られているわけです。

 もっとも阿拝郡を拠点としていたのは阿倍氏ではなく阿閉氏(あえ氏)であるとする説もあり
ます。
 ただし『日本書紀』には、

 「大彦命は、阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、合わせて七族の
始祖なり」

とあり、『古事記』と比べてこちらの方では阿倍氏の始祖が一代繰り上げて大彦命となっている
わけなのですが、阿閉氏、それに伊賀氏が阿倍氏と同族であると記されているから、やはり
阿拝郡は大彦命系の氏族と結びついているようです。

 最後に駿河国安倍郡ですが、駿河は『日本霊異記』の中で役小角が流刑となった地です。
 この辺りのことは少し前に採り上げたばかりのことなので、詳細については割愛させていただき
ますが、重要なことは2点。ひとつは役小角が葛城の出身と言われ、かつ鴨氏の一族の出といわれて
いることです。
 もうひとつは、『日本霊異記』に役小角が一語主神を使役しており、小角が流罪になったのも、
使役されることに耐えかねた一語主神の讒言によるもの、と記されていることです。
 一語主神は葛城の一言主神のことであろうと考えられていますが、一言主神は高鴨神とも呼ばれて
いたようです。
 『続日本紀』天平宝字八年十一月の項には、神である高鴨神がかつて雄略天皇によって土佐に
流罪となったことが記されていますが、その高鴨神について『釈日本紀』は、
 「その神の御名を一言主尊となす。その祖は詳らかならず。一説には大穴六道尊(オオナムヂノ
ミコト)の御子、味鉏高彦根尊(アジスキタカヒコネノミコト)である」としています。

 駿河国安倍郡だけは阿倍氏と直越の関係は薄いようですが、鴨氏が関係し、おまけにアヂシキ
タカヒコネも絡んでいるとあり無視するわけにはいかないのです。