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小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

627 物部氏と出雲 その15

2018年05月04日 02時15分07秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生627 ―物部氏と出雲 その15―


 物部氏と吉備と出雲の関係を言えば神話にまで遡ることができます。
 有名なヤマタノオロチの神話なのですが、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣が吉備にある、
と『日本書紀』の一書には記されているのです。
 それが、

 「オロチを斬った剣は、今は吉備の神部の許にあり」

という一文で、吉備の神部とは岡山県赤磐市の石上布都魂神社(いそのかみふつみたま神社)の
ことだとされています。
 この石上布都魂神社では、現在の祭神こそスサノオですが、はじまりはヤマタノオロチを斬った
剣を祀ったことだと伝えられ、そしてその剣の名前が布都御魂(フツノミタマ)だというのです。

 石上、そして布都御魂といえば、真っ先に思い浮かぶのが奈良県の石上神宮です。
 石上神宮は物部氏の総氏神であると同時に、かつては各地域より集めた神宝を納めた蔵がここに
あり、その蔵を物部氏が管理していたといいます。
 そして何よりも石上神宮の主祭神も布都御魂なのです。
 もっとも、『古事記』に記されたところでは、布都御魂は建御雷神(タケミカヅチ神)の分身
とも言える剣となっているのですが、しかし、そうではなくスサノオがヤマタノオロチを斬った
剣だとする伝承が石上神宮の側にも残されており、それによれば仁徳天皇の時代に布都御魂は
岡山県の石上布都魂神社から遷されたものだというのです。
 ここでも仁徳天皇の時代という共通項が登場するわけですが、今はそのことについては横に置いて
おくことにして、たしかに、『日本書紀』の別の一書にも、

 「オロチを斬った剣は、名付けて蛇の麁正(オロチノアラマサ)という。今は石上にある」

と、記されています。
 それから、もうひとつ、石上神宮の近くには和邇坐赤坂比古神社(わににますあかさかひこ神社)が
鎮座します。石上布都魂神社の鎮座する地の古い地名は赤坂郡で、ここにも共通点が見られるのです。
 和邇坐赤坂比古神社はその名が示すように和邇氏(わに氏)に関係する神社とされていますが、
その和邇氏が活躍するエピソードのひとつに建波邇夜須毘古命(タケハニヤスビコノミコト)の
反乱があります。
 この事件は『古事記』、『日本書紀』がともに伝えているもので、第10代崇神天皇の時代、
天皇の伯父で、阿倍氏らの始祖である大毘古命(オオビコノミコト)が高志へと遠征に向かう途中、
異母兄弟である建波邇夜須毘古命の謀反を示唆する歌を歌う少女に出会います。
 これによって天皇は大毘古と和邇氏の祖、日子国夫玖命(ヒコクニブクノミコト)に建波邇夜須毘古命を
討たせます。
 ただし、『古事記』と『日本書紀』もともに、この戦いで実際に建波邇夜須毘古命と戦い、これを
討ったのは日子国夫玖命としています。
 さらに、『古事記』にはなく『日本書紀』のみが記載する内容として、建波邇夜須毘古命の妻である
吾田媛(アタヒメ)が別働隊を率いて大和に攻め込もうとしたので崇神天皇は五十狭芹彦命(イサセリ
ビコノミコト)を派遣して吾田媛を討たせた、とあります。
 つまり、この反乱には、大毘古命、日子国夫玖命、五十狭芹彦命が鎮圧に出動したことになるわけですが、
五十狭芹彦命について『古事記』は、

 「比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)またの名を大吉備津日子命」

と、記しています。
 さらに、『日本書紀』では出雲振根を討ったのが武渟川別(タケヌナカワワケ)と吉備津彦とあり、
武渟川別は大毘古命の子ですから、建波邇夜須毘古命討伐には、武渟川別の父、吉備上道臣の始祖、
和邇氏の始祖が出動したことになるのです。

 さらには『日本書紀』の「垂仁紀」に記された内容です。
第11代垂仁天皇は、武渟川別、和珥(和邇)臣の遠祖彦国葺(日子国夫玖命)、中臣連の遠祖大鹿嶋、
物部連の遠祖十千根、大伴連の遠祖武日の5人に、先帝崇神天皇が行った神々の祭祀を継承していくことを
宣言しており、また、天照大御神の祭祀を豊鍬入姫命から倭姫命に交替させたことなどのことが記されて
いるのです。

 ちなみに、出雲の神の祭祀に関する丹波の氷香戸辺の神託、ホムチワケが出雲大神の宮の訪問したのも
垂仁朝の出来事として伝えられています。

 こうして見ると、物部氏と吉備が出雲に関わっていたと考えたくなるのですが、しかし事はそう単純でも
なさそうなのです。
 そういう次第で、この章の最後に、物部氏と吉備と出雲の関係についてあらためて考察をしてみたいと
思います。
 なぜなら、武渟川別と吉備津彦が出雲振根討伐をしたという伝承には、出雲制圧とは違う意味が隠されて
いるからなのです。

626 物部氏と出雲 その14

2018年04月16日 01時01分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生626 ―物部氏と出雲 その14―


 応神天皇と仁徳天皇の恋話には吉備がよく登場しますが、これは、吉備が、というよりは
瀬戸内の神話や伝承が中央に取り込まれたためであろうと思われます。
 これらの説話には海人などが登場することや『播磨国風土記』に記される景行天皇と印南の
別嬢の伝承も瀬戸内の島々を舞台としていることから、元は瀬戸内の海人たちの伝承であった
ものと考えられるのです。そして、吉備もまた瀬戸内海に面しているので、吉備が登場する
のも何ら不思議はないわけです。
 『古事記』にも、日向から大和に向かう神武天皇は瀬戸内海を船で進みますが、途中吉備の
高島宮に八年いた、と記されています。

 さて、ここで考察しておきたいのが吉備と物部氏の関係です。ここまで見てきたとおり、
物部氏は四国へと進出していったわけですが、吉備が属する山陽地方はどうだったのでしょうか。
 『古事記』、『日本書紀』からだけでは吉備の豪族たちと物部氏の関係、とりわけ直接的な
結びつきを読み取ることは難しいと言えます。
 むしろ、記紀からだけでは、吉備と物部氏は敵対関係にあったのではないだろうか、とさえ
思えるのです。なぜなら、物部氏が大和政権の中枢を進出した時期は雄略朝のことと考えられる
のですが、同じ雄略朝時代に吉備は大和政権に反旗を翻すかのような行動を取り没落していく
ことになるからです。

 では、反対に吉備と大和政権の関係が良好だったのはいつの頃だったのでしょうか。

 『日本書紀』によれば、吉備の有力氏族が誕生したのは応神天皇の時です。『応神紀』の、
応神天皇二十二年の項にそのことが記されています。その内容については少し前にも紹介した
ところなのですが、あらためて採り上げますと、吉備の諸氏族の成り立ちについて次のような
ことが書かれています。

 応神天皇の妃の兄媛(えひめ)は吉備臣の祖、御友別(みともわけ)の娘ですが、両親が
年老いたことを理由に故郷に帰りたい、と天皇に申し出ます。
 応神天皇はこれを了承し、淡路島の御原の海人80人を水夫にして兄媛を海路送り出して
やります。
 その年の秋、天皇は淡路島で狩りをおこない、それから吉備を訪問しますが、この時、御友別の
一族に対して応神天皇が行ったこととして、『日本書紀』には、

 「川島縣を長子の稲速別に与える。これは下道臣の始祖なり。次に上道縣を次男の仲彦に与える
。これは上道臣、香屋臣の始祖なり。次に三野縣を三男の弟彦に与える。これは三野臣の始祖なり。
また、波区芸縣を御友別の弟の鴨別に与える。これは笠臣の始祖なり。それから兄の浦凝別に
苑縣を与える、これは苑臣の始祖である。そして、織部を兄媛に与える」

と、記載されています。
 この伝承は前半部分が海人や瀬戸内を舞台としたもので後半が吉備氏族の成立というものに
なっています。
 もちろん、これはあくまでも伝承であり史実を語っているか否かはまた別問題となるわけで、
実際『古事記』や『日本書紀』の記事がそのまま史実として受け止めるわけにはいきません。
それでも『日本書紀』が応神朝のこととしてこの伝承を記載した背景にはそれなりの理由があった
ものと考えられます。
 そういったことで、吉備が大和王権と親密な友好関係にあったのは応神・仁徳朝の頃と考えられ
るわけなのです。

 さらに言えば吉備の造山古墳の問題です。造山古墳の造営が当時の国家規模の事業であったこと、
かつ大阪府堺市の石津ヶ丘古墳の「姉妹古墳」であることから、おそらくはこの時代に最盛期を
迎えていた葛城氏との関係も良好なものであったのでしょう。
 石津ヶ丘古墳は、仁徳天皇の子で葛城氏系の履中天皇の陵墓とされていることからもそれを窺う
ことができるかと思います。
 古墳の被葬者についても天皇陵とされている古墳であってもやはりそのまま事実とするわけには
いきません。古墳の被葬者はあくまでも記紀に記されているものを参考に指定されているだけで、
調査の結果古墳の造営時期と被葬者と伝えられている天皇が生きていた推定時期にズレが生じて
いる場合もあるのですが、大事なことは『古事記』と『日本書紀』が石津ヶ丘古墳の被葬者を
履中天皇だとしていることなのです。

 吉備と大和政権の関係がもっとも良好だったのが応神・仁徳朝時代だったとした時に、どうしても
触れなくてはならないのが、応神天皇が崩御して仁徳天皇が即位するまでの間に起きたこととして
『日本書紀』に記される出雲の淤宇宿禰(オウノスクネ)の事件です。
 この事件は、額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコ皇子)が、倭の屯田と屯倉をわがものに
しようとしたものですが、この中で淤宇宿禰は屯田司と記されているのです。
 つまり、『日本書紀』の編纂者たちが、この時代すでに出雲臣が大和政権内で財務運営に参加して
いたと見做していたことになるからです。

 それでは、このことがなぜ重要視されるかというと、物部氏と吉備との共通点に出雲が大いに関係
しているからです。

 『日本書紀』崇神天皇六十年の記事では物部氏の武諸隅が、崇神天皇が出雲振根の持つ武日照命の
神宝を求めた際の使者として出雲に赴いた、とあり、同じ『日本書紀』の垂仁天皇二十六年の記事には、
物部十千根が出雲の神宝を検校するために出雲に赴いた、とあります。
 一方の吉備はというと、武渟川別とともに吉備津彦がその出雲振根を討伐しているのです。さらには
『古事記』のみ見えるヤマトタケルの出雲タケルを討つ話も、ヤマトタケルが吉備の血を受けている
ことから、これも吉備にまつわる伝承と見ることができるのです。

625 物部氏と出雲 その13

2018年04月02日 00時38分22秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生625 ―物部氏と出雲 その13―


 ここで話を一旦、阿久刀神社(あくと神社)と長幡部神社に話を戻します。
 この両者は服(はた)の他にもつながりがあるかもしれないのです。
 と、言うのは阿久刀神社の本来の祭神については、調連阿久太(つきのむらじあくた)と
する説の他にも第3代の皇后、阿久斗比売(あくとひめ)とする説があるからです。

 もっとも安寧天皇の皇后については『古事記』と『日本書紀』で異なる内容を載せています。
 まず、『古事記』では、安寧天皇の皇后は今しがた紹介したように阿久斗比売で、この人物は
師木県主羽延の娘となっています。
 対する『日本書紀』では、安寧天皇の皇后は、神渟名底仲媛命(ヌナソコナアツヒメノミコト)で、
事代主の孫、鴨王の娘としているのです。

 『日本書紀』が事代主系として、さらに皇后の父の名が鴨王というのも、鴨氏のことを考え
ると非常に興味深いところではあるのですが、今はそのことは横に置いて、問題は阿久斗比売
です。
 『古事記』では安寧天皇と阿久斗比売との間には三人の皇子が生まれたとあります。

 常根津日子伊呂泥命(トコネツヒコイノネノミコト)
 大倭日子鉏友命(オオヤマトヒコスキトモノミコト)、
 師木津日子命(シキツヒコノミコト)

の三人です。
 このうち大倭日子鉏友命が次の第4代懿徳天皇(いとく天皇)として即位するのですが、
弟の師木津日子命について、『古事記』は次のような内容のことを記します。
 師木津日子命には二人の皇子がおられ、ひとりの皇子は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、
三野の稲置の始祖、と。
 伊賀はいうまでもなく三重県の伊賀、那婆理とは三重県名張市のことで三野は美濃ですから、
ここでも三重県や岐阜県が関係してくるのです。
 それからもうひとりが和知都美命(ワチツミノミコト)で、この人は淡道(あわじ)の御井宮
(みいのみや)に坐してふたりの皇女をもうけたとあります。
 姉の方が蝿伊呂泥(ハエイロネ)、またの名を意富夜麻登久邇阿礼比売命(オオヤマトクニ
アレヒメノミコト)、妹の方が蝿伊呂杼(ハエイロド)です。

 このふたりの姫はともに第7代孝霊天皇の皇后と妃となり、蝿伊呂泥は吉備上つ道臣の始祖、
大吉備津日子命を生み、蝿伊呂杼は吉備下つ道臣と笠臣の始祖、若建日子吉備津日子命を生み
ます。
 さらには、若建日子吉備津日子命の娘、針間之伊那毘能大郎女(ハリマノイナビノオオイラツメ)は
第12代景行天皇の皇后となり、大碓命(オオウスノミコト)、小碓命(オウスノミコト)すな
わちヤマトタケルを生むことになります。

 では次に長幡部神社です。
 長幡部神社の祭神、多弖命(タテノミコト)が神大根王と同一視されていることは先に紹介
したところなのですが、神大根王のふたりの娘が大碓命(オオウスノミコト)の妻となっている
のです。
 神大根王のふたりの娘については、『古事記』では、

 「三野(美濃)国造の祖、大根王の娘、兄比売と弟比売「
 
 一方の『日本書紀』では、

 「美濃国造、名は神骨(かむほね)の娘、姐の名は兄遠子、妹の名は弟遠子」

となっています。神骨(かむほね)が神大根(かむおおね)のことであることは説明するまでも
ないことだと思います。
 そして、記紀ともに共通して記すところは、当初、オオウスの父、景行天皇が、神大根王の
ふたりの娘が美人だと聞いて妃に迎えようと、オオウスを使者として神大根王のもとに送った
ものが、ふたりの媛を見たオオウスが自分の妻にしてしまった、といういきさつです。

 ところで、天皇が妃に迎えようとした媛を皇子が自分の妻にしてしまうというエピソードは、
これの他にも見ることができます。『日本書紀』の「応神紀」です、

 『日本書紀』応神天皇十一年の記事には、

 「人ありて(天皇に)奏して曰く、『日向国に嬢女(おとめ)あり。名は髪長媛。諸縣君
牛諸井(もろがたのきみうしもろい)の娘なり。美人なり』。天皇は悦(よろこ)んで、宮中に
召そうと思われた」

とあり、応神天皇十三年に髪長媛は日向より召されて桑津邑に遷りますが、媛を見たオオサザキ命
(後の仁徳天皇)はぜひ自分の妻にと望み、父の応神天皇より媛を賜ります。

 桑津邑は大阪市東住吉区桑津に比定されていますが、東住吉区桑津の地名の由来は
かつてこの地では養蚕が盛んで、蚕のエサとなる桑がたくさん植えられていたことから来て
いるといいます。

 ここにも服(はた)のつながりが見られるわけですが、この伝承で、もうひとつ見過ごしては
いけないことが、オオウスの伝承と共通している点です。いや、このふたつの伝承は同源のもの
である可能性もあるのです。ともあれ、記紀に見られる応神・仁徳天皇の恋話とオオウスの伝承、
これらには吉備が関係しているという共通点が存在するのです。

624物部氏と出雲 その12

2018年03月19日 00時33分31秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生624 ―物部氏と出雲 その12―


 ただし、刈羽井については京田辺市大住の他にも綴喜郡井手町とする説もあります。
 その大住の東、井手町の北に位置するのが旧青谷村(現在の京都府城陽市)です。

 以前にも青谷村に関する谷川健一(『青銅の神の足跡』)の見解を紹介したことが
あります。青谷村は現在では城陽市に含まれて今では存在しておりませんが、かつての
青谷村が存在していたところには今も市辺という地名が残されているのです。谷川健一は、
これは市辺之忍歯王(イチノベノオシハ王)から来たものであり、また大柴という地名も
あり、これは忍歯からきたものだと考察しています。
 さらには、青谷村という地名についても、市辺之忍歯王の妹、忍海飯豊青尊に由来
するかもしれない、と推測しています。
 青尊は一名を青海皇女といいましたが、福井県大飯郡高浜町青と地新潟県加茂市に
青海神社(あおみ神社)が鎮座します。

 ふたつの青海神社と青尊の関連については、以前に採り上げたところでもあり、また
今回の主題とは直接の関係がないため割愛させていただきますが、新潟県の青海神社が
加茂市に鎮座していること、神社の周辺の地名が加茂であり、これは鴨縣主に関連して
いるものとされています。
 岐阜県美濃加茂市もそうでしたが、新潟県加茂市も鴨縣主と結びついているようです。
綴喜郡を含む南山城が、鴨縣主が平安京へと進出していくルート上にあることを考えると
単なる偶然とは思えないのです。

 さて、阿曇氏ら海人を考察した時に、城陽市の水度神社(みと神社)と水主神社
(みずし神社)の関係について、を採り上げました。
 水度神社の祭神は天照大御神と高御産霊神(タカミムスヒ神)、少童豊玉姫命(ワダツ
ミトヨタマヒメノミコト)の三神で、ただし天照大御神の祭祀は後世に追加されたもので
元々は高御産霊神と豊玉姫命の二神であったらしい、とその時にも紹介しましたが、
しかしながら、なぜ豊玉姫が祀られているのか、という理由については深く考察しない
ままでした。
 それが、服(はた)から見ると、そのつながりがおぼろげながらも現れてくるのです。

 三重県松阪市には神服織機殿神社(かんはとりはたどの神社)と神麻績服殿神社(かん
おみはたどの神社)が鎮座します。
 この両社は皇大神宮(伊勢神宮の内宮)の所管社で、現在も続く伊勢神宮の神御衣祭
(かんみそさい)に関わります。
神御衣祭とはと、毎年5月と10月に、内宮の御正宮と荒祭宮に和妙(にぎたえ=絹織物)と
荒妙(あらたえ=麻織物)の2種類の神御衣を奉る祭礼のことで、御衣祭(おんぞさい)
とも呼ばれているものです。
うち、和妙は神服織機殿神社に、荒妙は神麻績服殿神社に奉織されます。
 『倭姫命世記』には、

 「麻績の郷と名づくるは、郡の北に神あり。この神、大神の宮に荒妙の衣を奉る。
神麻績の氏人等、この村に別れおりき。よりて名となす」

と、あり、荒妙の衣に従事する人々は麻績の郷に居住していたというのです。

 さて、製鉄に関するところで何度となく採り上げたように、伊勢国は物部目大連らに
よる朝日郎討伐や天日別命による伊勢津彦討伐の伝承があり、「青」に関連する青墓や
青谷村、青海神社のつながりなど、非常に重要と思われるキーワードが多く存在するの
です。

 天日別命(アメノヒワケノミコト)は、阿波の忌部氏の祖、天日鷲命(アメノヒワシノ
ミコト)とその名が似ていることから同神ではないか、ともいわれています。
 忌部氏は伊勢国にもおり、伊勢の忌部氏の本貫は伊勢国員部郡(いんべ郡)とされて
います。
 一方、阿波忌部氏の本貫は阿波国麻植郡といわれています。これは旧の麻植郡である
吉野川市に天日鷲命を祀る忌部神社と、その父神の天村雲神(アメノムラクモ神)と
伊自波夜比売(イジハヤヒメ。伊志波夜比売とも)を祀る天村雲神社が鎮座するからです。
 ちなみに忌部神社は『延喜式』に載る式内社忌部神社に、天村雲神社は天村雲神衣自波
夜比売神社の論社です。
 そして、麻植郡と同じ阿波国の名方郡に、豊玉比売の名を冠した天石門別豊玉比売神社と
和多津美豊玉比売神社が鎮座するのです。大和岩雄(『神社と古代民間祭祀』)によれば、
この両社のうち天石門別豊玉比売神社は忌部氏に関わる神社であるといいます。

 ここで思い出していただきたいのが、豊玉比売の名を冠した式内社が阿波国にあるこの
ふたつの神社だけであり、豊玉比売の妹、玉依比売(タマヨリヒメ)の名を冠した式内社が
長野県長野市の玉依比売命神社だけであること。それから、豊玉比売と玉依比売の姉妹神は
綿津見神の娘なのですが、綿津見神の女婿である建御名方神の名を冠した神社が阿波国
名方郡の多祁御奈刀弥神社(たけみなとみ神社)と長野市の建御名方富命彦神別神社(たけ
みなかたとみのみことひこかみわけ神社)、それから飯山市の建御名方富命彦神別神社で
あること。すなわち、どちらも阿波と信濃のみ存在するということなのです。
 そして、建御名方神信仰の総本家が諏訪大社も信濃に鎮座しています。

 阿波と信濃を繋ぐものは、海人や製鉄にたずさわる人々ですが、ただ、なぜ阿波忌部氏が
豊玉比売の祭祀に関係しているのか、ということについては追及してこないままでした。
 しかし、ここに物部氏を加えるとどうなるでしょう。
 先述の、イカガシコオを祀った伊加加志神社は忌部神社と同じ阿波国麻植郡に鎮座するの
です。
 海人や製鉄の人々と伊勢国が大きく関わっており、忌部氏も伊勢に関わっている。そして、
物部氏もまた伊勢に進出していった。さらには鴨氏の存在。
 いろいろなことが物部氏と重なり、そしてつながっていくのです。
 とは、言えまだまだたくさんの謎は残っています。
 そのひとつが、なぜこれほどにまで出雲系の神々との結びつきが強いのか。というものが
あります。
 これは、海人系氏族が出雲系の神々の信仰と結びついていたからだけではないように思え
ます。

623 物部氏と出雲 その11

2018年03月05日 00時25分17秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生623 ―物部氏と出雲 その11―


 旧三島郡で、現在の大阪府高槻市に鎮座する式内社の阿久刀神社を紹介したいと思います。
と、言っても阿久刀神社については以前にも採り上げたことがあるのですが。
 阿久刀神社の祭祀氏族と祭神についてはよくわかっていません。現在の祭神は住吉神ですが、
本来は別の神を祀っていたと言われています。

 まず、祭祀氏族については、ニギハヤヒの子孫であり、物部氏とは同族となる阿刀連(あとの
むらじ)とする説や、調連(つきのむらじ)とする説などがあります。
 このうちの、調連を祭祀氏族とする説に関連して、祭神を調連阿久太(つきのむらじあくた)と
する説もあります。
 阿久太は『新撰姓氏録』によれば顕宗天皇に絁絹を献上したとあり、養蚕、織物にたずさわる
氏族だったようです。
 しかし、注目するべきは阿久太の祖父にあたる努理使主(ぬりおみ)です。
 この人物は百済よりやって来た渡来人とされ、一説には周から来たともいわれ、『古事記』に
登場する奴理能美(ぬりのみ)と同一人物だとされています。
 『古事記』では、奴理能美は韓人で山城国綴喜郡に住み、蚕を飼っている人物と記されている
ので、やはり渡来人で養蚕にたずさわっていたということです。
 そして、重要なことには奴理能美が仁徳天皇の時代に活躍した人物だという点です。
 つまり、「伊予国風土記逸文」にある、大山津見神が仁徳天皇の時代に百済より渡ってきた、
という記述と同じことが奴理能美に当てはまるわけです。

 さて、阿久刀神社と古くから神輿渡御を交すなどの交流があったのが、同じ高槻市に鎮座する
式内社の神服神社(かむはとり神社)です。
この神社は服部連(はとりのむらじ)の創建と伝えられており、服部とは衣を織る職業集団です
から、この服部連が三島木綿に携わっていたのではないか、といわれています。
 阿久刀神社の祭祀氏族が仮に調連であったとするならば、絹織物にたずさわる調連と服部連が
つながりを持つのも決して不思議ではないのですが、ここに、同じく織物にたずさわる氏族に
長幡部(ながはたべ)がいます。

 『常陸国風土記』の久慈郡太田の郷に長幡部神社(ながはたべ神社)の項には、

 「長幡部の祖先の多弖命(タテノミコト)が美濃から久慈に移り機殿(はたどの=はた織り機の
置かれた製作所)を造った」

と、いう一文が記されています。
 ただ、長幡部氏の祖について『古事記』の開化記には、

「神大根王は、三野国(美濃国)の本巣国造、長幡部連(ながはたべのむらじ)の始祖」

とあり、長幡部連の祖を神大根王(カムオオネ王)としています。
 しかしながら多弖命が「オオテのみこと」と読むことができることから、神大根王と多弖命は
同一人物ではないかと言われています。

 なお、神大根王は日子坐王(ヒコイマス王)の子ですが、その日子坐王を祭神とするのが岐阜県
美濃加茂市に鎮座する縣主神社(あがたぬし神社)です。
 縣主神社の鎮座地は、美濃加茂市西町ですが、かつての地名は加茂郡太田町でした。
 この地名から思い起こされるのが、少し前にも紹介した『播磨国風土記』の伝承です。

 「昔、呉の勝(すぐり)が韓国より渡り来て、はじめ紀伊の名草の郡の大田に留まった。その後、
分かれて摂津の三嶋の賀美の郡大田に移り住んだ。それがまた分かれて揖保の郡の大田に移り
住んだ。(『播磨国風土記』揖保郡の項)」

 さらには先述の長幡部神社も、『常陸国風土記』に、

「太田の郷に長幡部の社あり。珠売美万命が天より降った時に、その御服を織るために従って
一緒に降った綺日女命を祀る」

と、記されています。
 そして、美濃国の縣主神社にも大田の地名が登場するのです。それも加茂郡太田。おそらく
鴨氏が拠点を置いたものと思われるのですが、縣主神社という社名からこちらの鴨氏は鴨君では
なく鴨縣主の方ではないか、といわれています。
 しかし、それはそれで非常に興味深いところではあるのです。
 なぜなら、鴨縣主は鴨君と同じく大和国葛城の鴨が出自とされていますが、その後山城国
相楽郡に拠点を遷し、さらに平安京に拠点を遷すからです。
 相楽郡の拠点とは、旧加茂町(現在の木津川市加茂町)で、奴理能美の拠点である綴喜郡と
近い距離にあったのです。

 『古事記』には、第11代垂仁天皇の妃のひとりに弟刈羽田刀弁(オトカリハタトベ)という
女性の名が記され、『日本書紀』の方には綺戸辨(カニハタトベ)という妃が登場します。
どちらも山城国の女性と記されていることから、綴喜郡苅羽井(後に樺井。現在の京田辺市大住に
比定)の女性ではなかったといわれていますが、注意すべきは、『古事記』と『日本書紀』で
その名が異なりながらも、どちらも名前に「ハタ」という語が含まれている点で、これは服(はた)
との関連性を思わせます。
 しかも、『日本書紀』の方の綺戸弁(カニハタトベ)という名は、長幡部神社の祭神綺日女命
(カムハタヒメノミコト)を連想させるものでもあるのです。