大国主の誕生627 ―物部氏と出雲 その15―
物部氏と吉備と出雲の関係を言えば神話にまで遡ることができます。
有名なヤマタノオロチの神話なのですが、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣が吉備にある、
と『日本書紀』の一書には記されているのです。
それが、
「オロチを斬った剣は、今は吉備の神部の許にあり」
という一文で、吉備の神部とは岡山県赤磐市の石上布都魂神社(いそのかみふつみたま神社)の
ことだとされています。
この石上布都魂神社では、現在の祭神こそスサノオですが、はじまりはヤマタノオロチを斬った
剣を祀ったことだと伝えられ、そしてその剣の名前が布都御魂(フツノミタマ)だというのです。
石上、そして布都御魂といえば、真っ先に思い浮かぶのが奈良県の石上神宮です。
石上神宮は物部氏の総氏神であると同時に、かつては各地域より集めた神宝を納めた蔵がここに
あり、その蔵を物部氏が管理していたといいます。
そして何よりも石上神宮の主祭神も布都御魂なのです。
もっとも、『古事記』に記されたところでは、布都御魂は建御雷神(タケミカヅチ神)の分身
とも言える剣となっているのですが、しかし、そうではなくスサノオがヤマタノオロチを斬った
剣だとする伝承が石上神宮の側にも残されており、それによれば仁徳天皇の時代に布都御魂は
岡山県の石上布都魂神社から遷されたものだというのです。
ここでも仁徳天皇の時代という共通項が登場するわけですが、今はそのことについては横に置いて
おくことにして、たしかに、『日本書紀』の別の一書にも、
「オロチを斬った剣は、名付けて蛇の麁正(オロチノアラマサ)という。今は石上にある」
と、記されています。
それから、もうひとつ、石上神宮の近くには和邇坐赤坂比古神社(わににますあかさかひこ神社)が
鎮座します。石上布都魂神社の鎮座する地の古い地名は赤坂郡で、ここにも共通点が見られるのです。
和邇坐赤坂比古神社はその名が示すように和邇氏(わに氏)に関係する神社とされていますが、
その和邇氏が活躍するエピソードのひとつに建波邇夜須毘古命(タケハニヤスビコノミコト)の
反乱があります。
この事件は『古事記』、『日本書紀』がともに伝えているもので、第10代崇神天皇の時代、
天皇の伯父で、阿倍氏らの始祖である大毘古命(オオビコノミコト)が高志へと遠征に向かう途中、
異母兄弟である建波邇夜須毘古命の謀反を示唆する歌を歌う少女に出会います。
これによって天皇は大毘古と和邇氏の祖、日子国夫玖命(ヒコクニブクノミコト)に建波邇夜須毘古命を
討たせます。
ただし、『古事記』と『日本書紀』もともに、この戦いで実際に建波邇夜須毘古命と戦い、これを
討ったのは日子国夫玖命としています。
さらに、『古事記』にはなく『日本書紀』のみが記載する内容として、建波邇夜須毘古命の妻である
吾田媛(アタヒメ)が別働隊を率いて大和に攻め込もうとしたので崇神天皇は五十狭芹彦命(イサセリ
ビコノミコト)を派遣して吾田媛を討たせた、とあります。
つまり、この反乱には、大毘古命、日子国夫玖命、五十狭芹彦命が鎮圧に出動したことになるわけですが、
五十狭芹彦命について『古事記』は、
「比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)またの名を大吉備津日子命」
と、記しています。
さらに、『日本書紀』では出雲振根を討ったのが武渟川別(タケヌナカワワケ)と吉備津彦とあり、
武渟川別は大毘古命の子ですから、建波邇夜須毘古命討伐には、武渟川別の父、吉備上道臣の始祖、
和邇氏の始祖が出動したことになるのです。
さらには『日本書紀』の「垂仁紀」に記された内容です。
第11代垂仁天皇は、武渟川別、和珥(和邇)臣の遠祖彦国葺(日子国夫玖命)、中臣連の遠祖大鹿嶋、
物部連の遠祖十千根、大伴連の遠祖武日の5人に、先帝崇神天皇が行った神々の祭祀を継承していくことを
宣言しており、また、天照大御神の祭祀を豊鍬入姫命から倭姫命に交替させたことなどのことが記されて
いるのです。
ちなみに、出雲の神の祭祀に関する丹波の氷香戸辺の神託、ホムチワケが出雲大神の宮の訪問したのも
垂仁朝の出来事として伝えられています。
こうして見ると、物部氏と吉備が出雲に関わっていたと考えたくなるのですが、しかし事はそう単純でも
なさそうなのです。
そういう次第で、この章の最後に、物部氏と吉備と出雲の関係についてあらためて考察をしてみたいと
思います。
なぜなら、武渟川別と吉備津彦が出雲振根討伐をしたという伝承には、出雲制圧とは違う意味が隠されて
いるからなのです。
物部氏と吉備と出雲の関係を言えば神話にまで遡ることができます。
有名なヤマタノオロチの神話なのですが、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣が吉備にある、
と『日本書紀』の一書には記されているのです。
それが、
「オロチを斬った剣は、今は吉備の神部の許にあり」
という一文で、吉備の神部とは岡山県赤磐市の石上布都魂神社(いそのかみふつみたま神社)の
ことだとされています。
この石上布都魂神社では、現在の祭神こそスサノオですが、はじまりはヤマタノオロチを斬った
剣を祀ったことだと伝えられ、そしてその剣の名前が布都御魂(フツノミタマ)だというのです。
石上、そして布都御魂といえば、真っ先に思い浮かぶのが奈良県の石上神宮です。
石上神宮は物部氏の総氏神であると同時に、かつては各地域より集めた神宝を納めた蔵がここに
あり、その蔵を物部氏が管理していたといいます。
そして何よりも石上神宮の主祭神も布都御魂なのです。
もっとも、『古事記』に記されたところでは、布都御魂は建御雷神(タケミカヅチ神)の分身
とも言える剣となっているのですが、しかし、そうではなくスサノオがヤマタノオロチを斬った
剣だとする伝承が石上神宮の側にも残されており、それによれば仁徳天皇の時代に布都御魂は
岡山県の石上布都魂神社から遷されたものだというのです。
ここでも仁徳天皇の時代という共通項が登場するわけですが、今はそのことについては横に置いて
おくことにして、たしかに、『日本書紀』の別の一書にも、
「オロチを斬った剣は、名付けて蛇の麁正(オロチノアラマサ)という。今は石上にある」
と、記されています。
それから、もうひとつ、石上神宮の近くには和邇坐赤坂比古神社(わににますあかさかひこ神社)が
鎮座します。石上布都魂神社の鎮座する地の古い地名は赤坂郡で、ここにも共通点が見られるのです。
和邇坐赤坂比古神社はその名が示すように和邇氏(わに氏)に関係する神社とされていますが、
その和邇氏が活躍するエピソードのひとつに建波邇夜須毘古命(タケハニヤスビコノミコト)の
反乱があります。
この事件は『古事記』、『日本書紀』がともに伝えているもので、第10代崇神天皇の時代、
天皇の伯父で、阿倍氏らの始祖である大毘古命(オオビコノミコト)が高志へと遠征に向かう途中、
異母兄弟である建波邇夜須毘古命の謀反を示唆する歌を歌う少女に出会います。
これによって天皇は大毘古と和邇氏の祖、日子国夫玖命(ヒコクニブクノミコト)に建波邇夜須毘古命を
討たせます。
ただし、『古事記』と『日本書紀』もともに、この戦いで実際に建波邇夜須毘古命と戦い、これを
討ったのは日子国夫玖命としています。
さらに、『古事記』にはなく『日本書紀』のみが記載する内容として、建波邇夜須毘古命の妻である
吾田媛(アタヒメ)が別働隊を率いて大和に攻め込もうとしたので崇神天皇は五十狭芹彦命(イサセリ
ビコノミコト)を派遣して吾田媛を討たせた、とあります。
つまり、この反乱には、大毘古命、日子国夫玖命、五十狭芹彦命が鎮圧に出動したことになるわけですが、
五十狭芹彦命について『古事記』は、
「比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)またの名を大吉備津日子命」
と、記しています。
さらに、『日本書紀』では出雲振根を討ったのが武渟川別(タケヌナカワワケ)と吉備津彦とあり、
武渟川別は大毘古命の子ですから、建波邇夜須毘古命討伐には、武渟川別の父、吉備上道臣の始祖、
和邇氏の始祖が出動したことになるのです。
さらには『日本書紀』の「垂仁紀」に記された内容です。
第11代垂仁天皇は、武渟川別、和珥(和邇)臣の遠祖彦国葺(日子国夫玖命)、中臣連の遠祖大鹿嶋、
物部連の遠祖十千根、大伴連の遠祖武日の5人に、先帝崇神天皇が行った神々の祭祀を継承していくことを
宣言しており、また、天照大御神の祭祀を豊鍬入姫命から倭姫命に交替させたことなどのことが記されて
いるのです。
ちなみに、出雲の神の祭祀に関する丹波の氷香戸辺の神託、ホムチワケが出雲大神の宮の訪問したのも
垂仁朝の出来事として伝えられています。
こうして見ると、物部氏と吉備が出雲に関わっていたと考えたくなるのですが、しかし事はそう単純でも
なさそうなのです。
そういう次第で、この章の最後に、物部氏と吉備と出雲の関係についてあらためて考察をしてみたいと
思います。
なぜなら、武渟川別と吉備津彦が出雲振根討伐をしたという伝承には、出雲制圧とは違う意味が隠されて
いるからなのです。