ワクチン予約

2009年10月31日 | 出来事 -
亡き父の主治医は、一駅隣町で、わりと評判の良い医院を開いている。
今、私とは、携帯番号も知っているぐらいの非常に近しい関係になっている。

今日・・・・ニュースにおどらされたわけではないが、
「まさかね?!」と思いながら、訪ねてみると・・・・・
待合室は、いつもよりも(かなり、いや凄く)混雑していた。
35人~40人は座れる待合室の椅子に、座る場所がないぐらいの人である。
それは、土曜日も、午前中だけは診療しているという理由だけではない。

予想通り、ワクチン予約に、受付の担当者も、四苦八苦!
電話で問い合わせが次々と入り、すべてに同じように断わりの対応をしていた。

「やっぱりね・・・」

状況を聞いてみると、インフルエンザのワクチンは、次の予約もいっぱいで、
しばらく「(確実な)予約」が受け付けられないぐらいのようだ。
特別、私は、どうしても・・・というわけでもなかったので、全くすんなりと
諦めがついたのだけれど・・・。

そういう話をしていたら、「ワクチンの予約をした○○です」なんて、
はきはき言いながら、私の隣に若者がやってくるし・・・。
(ついぞ、まじまじと顔をのぞいちゃった!)



仕方がないので、主治医の先生の顔を、久しぶりに見て、診療していただいた。
話すことと言ったら、いつも笑いが絶えない。
(時と場合によるが)患者さんが少なくて、私の体調がシリアスではない時は、
雑談みたいな“やりとり”の方が多い。
今日は“インフルエンザ都市伝説”とかを話して・・・・その後は、先生が、
「マイケル・ジャクソンの映画が、いいらしいじゃん!観るの?」
「もう行きましたよ。よかったですよ~~」
「もう観たの?だけどさぁ~すぐにDVD出るでしょ?!」
「でますよ。特典映像もつくしね。
 でも、DVDじゃ、あの荘厳な雰囲気は経験できないだろうなぁ~。
 だって、マイケルのライヴが目的だったら、ブカレスト観てたらいいし・・・」
「どんな感じ?」
「なんとなくね、映画館が教会みたいな感じ・・・、あのねぇ~~☆□△○~」
「ふ~ん、そうなんだぁ」
というような世間話をして、血圧をはかっただけで、「1300円」かかちゃった!
最後に、先生は・・・
「今は忙しくてさぁ、映画を観にいけないよ。残念だなぁ。やっぱりDVDか。
 今さ、すごいんだよぉ~~」
と、お疲れのご様子で、私が、いろいろと、先生の聞き役になってしまった。
待合室を見れば、わかりますよ、先生!――ご苦労様!(ガンバッテネ!)

しかし、先生もマイケルに影響を受けた世代だったんだなぁ~。
まぁ、MJと同年齢ぐらいの先生だから、当然といえば当然かなぁ~とも思う。
でも、興味あるとは、ちょっと意外だった。
皆が「いいよ」と言うと、人は気になるモノだから(笑)ネ。



しかし、どちらにしても、病院に行くのは勇気がいる。
あらゆる場所に(病気なのか予防なのか)「マスク男」と「マスク女」がいて、
細菌とウイルスが“はびこっていそうな危険なイメージ”があるからだ。
予防として、マスクをずっとかけている人も多いらしい。
病院の手すりや、トイレのノブは、触ったら、すぐに手を洗うようにして、
自分自身で気をつけよう。
そして、意識的に、わが身を守るのだ。


映画好き

2009年10月30日 | 自分 -

私は、「映画」が、大好きである。
映画を観続けて、長い時間が経つ。
時間があれば、年間50本~80本は、平均して(継続的に)観ていた。
         (もちろん、父と同居する前のことだが・・・笑)
今はめっきりと数が減った・・・


映画は、映画館で観るのが好きなので、つとめて映画館に足を運んでいた。
なんとも言えない観客の“生の反応”に出会えたり、映画ごとに雰囲気が違うのが
私にとっては“好奇心たっぷりの出来事”だったりしたからだ。
それに、大きなスクリーンで、笑い声やため息、観客の反応と共に鑑賞するのと、
小さなテレビ画面で(DVDで)鑑賞するのとでは、映画の質感も受け取り方も
違ってきてしまうのが、歴然とした事実としてある。

映画の内容に集中したい私は、映画館は一人で行く。

年に一本ぐらいは、マイブームになるぐらい大好きな映画に出会うことがある。
すると、連日、同じ映画を堪能することもあった。(過去では3夜連続が最高)

突然、予定外に、映画館に入り込み、鑑賞することも、しばしばだった。
最近は、シネコンばやりで、座席指定が・・・・私のスタイルを完全に壊す。
「パッと入って、パッと観る!」
これができなくなった・・・。
(日によってではあるが、座席指定するために、列にならぶのが面倒だからだ)
しかし、昨今のシネコンは、会場が綺麗になった。
おしゃれで大きな椅子だし、環境が快適になったことで、一般客が増えたことは、
非常に喜ばしいことである。



昔は、エンドロールのスタッフに敬意を表して、最後まで席は立たなかった。
それが、映画ファンの(暗黙の)礼儀だった。

映画が始まると、ひそひそ声でも、話さないのが(暗黙の)決まりごとで、
できれば終わった後も、大きな声で話したり、感想を言ったりもしなかった。
他の人の感想や、心の余韻を壊さないのが、映画ファンの礼儀だった。
映画館を出るまでは、静かに、周囲に気を遣うのが、映画ファンの姿だったのだ。

これらの、いくつもの礼儀が、いつの頃からか消え去っていった・・・。

「仕方がないのかな」「時代なのかな」とも感じた。
テレビも、コンピューターゲームもある、多様化した環境が・・・
映画の存在を、また映画を観る礼儀を、忘れさせてしまったように思う。
「礼儀」なんてものは、親が子供に、先輩が後輩に叩き込んで教えていたが、
そういうこともなくなってしまったので、引き継がれることも無くなったのだ。
そして、映画の礼儀は、映画ファンから映画ファンに引き継がれるものである。



そういう意味においても、昨日のMJのドキュメンタリー映画を観た環境は、
昨今では、非常に珍しかったように思う。  ――「THIS IS IT.」――
満席だったし、全員静かにスクリーンを見つめて、ポップコーンの匂いもない。
もちろん、会場内では、騒ぐ人も、大きな声で話し込む人もいなかった。
そして、映画中に拍手が巻き起こり、エンドロールにも何度も拍手が・・・。
すばらしい経験だったし、(映画ファンとしては)快感だった。
MJという特別な人に対する“敬虔な想い”が、そうさせたのかもしれないが、
私としては非常に心地の良い映画鑑賞タイムだった。


昔、悦に入った映画や、感動した映画を観ると、エンドロールが終わった後、
拍手が巻き起こっていた・・・。
それも映画ファンの決まりごとのようなものだったが、久しぶりに・・・
昨日はその音を聞いた。(なだらかに沸き起こる拍手の響きが心地よかった)
私も、拍手したが・・・会場が一体となっている感覚が非常によかったと思う。

Thank you MJ!

来週、また映画館にいくよ。 必ず、また行くよ!


This Is It.

2009年10月29日 | 人物 -

  FOR 2WEEKS ONLY!

ロンドンで行われるはずだったマイケル・ジャクソンのコンサート。
その公演のリハーサル映像などで構成された映画、「This Is It.」

午前中に会社に行って、その後赤坂に行って、そこそこ仕事をこなして、
すぐに映画館に駆けつけ、チケットの予約(座席指定)をとった。
14:00開始の回が観ることができたのだが、大きなシネコンが満席だ!
混雑が嫌で昼間に映画館に行ったのに、満席とは・・・・MJのすごさを
思い知ることになった。年代層も様々だった。20代~70歳近くまで・・・。
(もちろん、そこは、小さな映画館ではない。むしろ大きなキャパだったぐらいだ)
昼間に、満席に近い環境で映画を観たのは「ぽっぽや」(高倉健主演)以来だ。
「ぽっぽや」は高齢者の観客が多く、小さな映画館で、それでも完璧な満席ではなかった。
とにかく、MJの映画は、すごい盛況ぶりだった。
30分前ぐらいの―ぎりぎりに来た人は、たぶん観れなかっただろう。


携帯写真で、映画の印象的なマイケルの写真を、バシャバシャと撮影する群れ!
それが、70歳近き熟女が多かったのには、正直驚いた。

                   ↓

       <映画館に展示されていた、こういう写真です>

   



――「This Is It.」――
私は、ダンサーの冒頭シーンから、涙腺が緩んで、ずっと泣き通しだった。
彼らにとって、「マイケル・ジャクソンと一緒のステージに立つ」ということが、
どういう意味をもつのか・・・その心の想いだけで、胸に迫るものがあった。
そして、最後まで号泣しながら、映画の中のマイケルを、全身全霊で楽しんだ。

とにかく、このドキュメンタリー「This Is It.」の中には、
50歳の等身大のマイケルが、確実に存在していた・・・・。
愛情にあふれ、完璧なまでの音楽へのこだわり、そして、誰もが納得するセンス!
ただ何気ない冗談までも、MJらしさの感性の言葉で、相手を切り替えしている。
すべてに共通して感じられたのは、彼の“懐の大きさ”と、「Love」だ。

素晴しいパワーだ。
マイケルの卓越したセンスで、総スタッフに指示を与えていきながら、ステージを
つくりあげていく様子が、要所に視られた。
それは、シンガーとしての立場を超えた領域に、確実に踏み込んでいた。
マイケルの素晴しい音楽性と感性が、ロンドン公演の全てを牽引していたのだ。
いや、ある意味で、マイケルの存在そのものに、大きな意味があったように、
今の私には感じられてならない。

この映画の中には・・・MJの人間性があふれていた。
「こうして作品をつくってきたのだなぁ」と感じ入る風景が、そのまま残されていた。

しばらく、観ていると・・・・
彼の葬儀に参列しているかのような錯覚を持つぐらいの雰囲気だった。
「鎮魂」と「惜別」と「尊敬」と「感謝」の気持ちが、私の中には同時に芽生えていた。


この映画は・・・・・
記録フィルムなので、もちろんマイケルのアップや完璧な音楽映像などは全くない。
マイケルは、すぐに迫ったロンドン公演のため、のどを大切にしていたので、
少しだけ力を抜いて歌っていて、声を張り上げる部分などは歌っていない。
歌の盛り上がる部分や、声をシャウトする部分などは、完全に歌わなかった。
「この状態のまま、舞台演出を施し、完成された衣装を装着したコンサートは、
どのようなものだったのだろう」と、ただ一人で想像しながら、映画のシーンの
一つ一つに見とれていた。

50歳のマイケルは、50歳のマイケルらしさで、いつものように・・・
「音楽を感じるまま、心のままに踊っていた」けれども、全く10年のブランクを
感じさせない存在感があった。
50歳のマイケルの“心のダンス”が、そこにはあった・・・。

スタッフに指示を出す時も、非常にプロフェッショナルで、手を抜かない。
しかし、話し方や、言葉の表現には、常に優しさが伝わってくる。

「そのためのリハーサルだから!」そう言って、スタッフの要望に応えるMJ。
本当は、そんな体力など残っていなかったのかもしれなかったのに・・・・。

切ない程のスレンダーボディは、当時のマイケルの体調を物語っているようで、
最初のシーンでは、泣けて仕方がなかった。
公表できず、闘い続けた難病との26年が想いおこされ、涙なくしては観られない。
これも、結局は・・・マイケルの人生だけれど・・・・・
どうして母国でコンサートができる環境になかったのかを思うと、本当に切ない。



これから観る方のために、詳細は書かずとも、エンドロールでは、一人として
席を立たず、映画の最中にもかかわらず、拍手が何度も巻き起こる映画は・・・
私は(生涯で)はじめて観た。
エンドロールに、タイトルにもなった若かりし頃に吹き込んだ「This Is It.」、
その他、MJの代表曲が2曲流れる。余韻に浸りながら、タイトルロールなのに、
またまた拍手が怒涛のように巻き起こる・・・。
久しぶりに経験する清々しい、特別な映画だった。


当然、この映画の中では、マイケル自身の言葉で、これから迎えるコンサートや、
この惑星(地球)に対するメッセージも語られている。

私個人は、いくつもヒットした言葉やシーンがあったが、非常に長くなるし、
ネタばれになるので、(あえて)ここでとめておくことにする。
ただ、リハーサルのために、声をコントロールしていたため、往年の頃よりも
非常に力を抜いた声質で歌っているのが、より「優しい印象」を残したと思う。
私が大好きなシャウト部分は、聴けなくても、総合的には大満足する内容だった。


    


“LIKE YOU’VE NEVER SEEN HIM BEFORE”
映画のコピーにあるように・・・・
今まで誰も知らなかったマイケルの姿が・・・50歳の生身のマイケルの雄姿が、
確認することができたとは思うが・・・「複雑な哀しさ」が余韻として・・・・
この映画の印象として(私の中に)残るのは、残念なことだと感じる。
それは、ひとえに、マイケルが、「もういないから・・・」。
一つのファミリーとして、実現に向けて頑張っていたカンパニーの夢が・・・
途切れてしまったからだろう。・・・本当に、切ない。

だからこそ、私は偉大なる彼の最後の雄姿を、目に焼き付けておく必要があった。
それも、リアルタイムで、この時期に・・・・。
私の感じるままの状態で、この時期に・・・・。



「This Is It!」とは、「まさにコレだよ!」と「これで最後だよ!」という
二つの意味を持つ。
その二つの意味が、マイケル自身の声で、語られている箇所があり・・・
観客の全員が、それをキャッチできなくても、タイトルの意味を理解することは
容易にできるだろう。 (彼の強いメッセージが込められている)
この映画を観さえすれば・・・マイケルの心は届くはずだ。


そして、おそらく、マイケル伝説は、今後も語り継がれていくことだろう。


赤い財布

2009年10月27日 | 出来事 -

今、私の使っている財布は、母からのプレゼントだ。
というよりも、「使わないから(余って無駄だから、使う?)」的な状態で、
むりやり手渡され、センスがあわないので、使わずに保管していたものである。
はっきり言うと・・・“おうど色”で模様の入った「おばさん財布」かな?!
平成10年、母が逝って、しばらく意気消沈していたが、時間が経過して、突然
(思い出したように)使い出した。
あの頃は、母のものを、いつも身近においておきたかったのだろうと思う。
現在は、数年がたった“しょぼくれ財布”である。
表の布は糸がもつれて、領収書やカードを沢山入れるので、形がくずれている。
時々、いろいろなものを入れすぎるので、でっぷりとメタボ状態になる財布だ。
長い間、よく働いてくれた・・・。


今日、突然・・・・・
いつもご無沙汰の(20代の頃に知り合った)友人から、プレゼントが届いた。
あけてみると、財布だった!
「次に会った時に渡そうと思いながら、時間だけが過ぎるので送るね」という
手紙が添えられていた。
突然のことで、本当にびっくりした。
何かのイベントでもなく、唐突に、贈り物をいただく有難さをすごく感じた。
「え~、いいの?もらってもいいのかなぁ」というのが正直な感想である。

その財布の色は、真っ赤で・・・・
まるで「元気をだしてよ」というメッセージが込められているような気がした。
赤は、行動力を促す色だし、エネルギッシュで、高揚感をたかめる色である。
黒い財布は二つもっている私が、おそらく決して買わない色(赤)だろう。
まさに、母にもらった財布と一緒である。
自分の意思に関係なく、手元に届いた“意味のある品物”だ。

赤い色の財布を開けると、中は沢山のカードが入るデザインになっている。
私の生活にぴったりの“便利で、豪華なイメージ”だ。
そのうえ、もっと嬉しかったのは手紙の内容と、財布の中にしのばせてあった
「ご縁」と書かれた五円玉である。
心遣いが有難く、胸に突き刺さった・・・。


「本当にありがとう」――今度、ゆっくりと美味しいものを食べながら、
ゆっくりとお話しましょうね。(ご無沙汰ばかりで、ごめんなさい!)

もう少ししたら、母の財布を卒業して、赤い財布に変えるからね・・・。
必ず毎日使って、いただいた心遣いを忘れないようにするからね・・・。
いただいた思いやりの心は、決して無駄にせず、毎日ちゃんと生きて、
元気に暮らすからね! 「本当に、ありがとう!」。


食事の量

2009年10月26日 | 食事 -

最近、食べ過ぎると、体調が悪く感じるようになった。

「食」というものを考え、食べるものに気を遣い始めて、1年近くが過ぎた。
最近は、朝食のサイクルも、三食のバランスも、やっと慣れてきたところだ。
食べる食材にも気を遣い、天然の「添加物の極力ないもの」を選んできた。
身体がそれを喜んでいる感じがして、何とも調子の良い状態のところで・・・・
仕事がらみで、弁当続きだったり、冷えたまずい「えさもどき」を与えられると、
心が満たされないようになってしまった“わがままな私”・・・。

極力、昔できなかった「食物を残すという行為」を、あえて甘んじて行うが、
それでも体調には良くないようである。
やはり「もったいない」という想いが、頑張って食べようとするからだろう。
食べた時点で、食べたものや、食べた量が、自分の身体にとってどうなのか、
その影響(違い)を歴然と感じるようになった。
保存添加物などは、食べた後に、“心地悪い”感覚に陥るようになった。
体調不良まではいかないが、何か不思議なものが体内に入ってきたような・・・
そんな異物感という印象だろうか。
 (時々、大量発注のお弁当には、薬臭い匂いを感じることもある)



私は、日本の食生活のサイクルは、何かが“乱れている”という印象がする。
「美味しいもの」は食べたいし、その「美味しさ」の基準も、人其々だと思う。
しかし、明らかに、飽食気味で、“自然の営み”からは離れた循環で、
食べ物が私たちの目の前に置かれていることが多いように思う。

健康的で、自然で、より旬のものを、ほんの少しだけ感謝しながらいただく!
これで、私は充分シアワセである。


秋の色づき

2009年10月25日 | 環境 -

今年は、夏に雨が多かったので、紅葉の風景が「もうひとつ」である。
森の中の「きのこ」のはえ具合も、「もうひとつ」である。

過日、知床の自然が、例年とは違う異様な状況だというニュースを聞き、
そのことを思い出した・・・。

全国的に、異常気象は、現実的な問題を、これからも引き起こしていくのだろう。

今回の一番綺麗な「紅葉ショット」は、これかなぁ・・・。

赤い色と、黄色い色と、白樺の木が、なんとも素敵な雰囲気で、
ちょっぴり絵画的な感じを受ける。

自然の心配をしながら、自然にはいつも「癒されている」。


山荘の夜

2009年10月25日 | 自分 -

この週末は、知人の山荘に “こもった”。 

こもった理由は、“一人の時間を大切にして、自分と向き合うこと!”。

誰の目も気にせず、他人の評価も気にせず、自分自身の行動に対しても、
誰からも何も言わせず、・・・ただ「自分とつきあう時間を大切にする」ことが
大きな目的である。


お天気は気になったが、お蔭様で天気予報は外れ、雨のなかった場所に出向き、
昼は気の向くまま「森」に入り、地元の人と触合い尽し、心と身体の“のび”を
するかのような時間を過ごした。

「素の自分」で、他人と付き合うことは、また一つの開放感がある。
自分を知っている人とでも、当方の心持ちを変えれば、全く違った付き合い方が
目の前に広がっていくことも、しみじみと感じた。




夜は・・・暖炉に火をつけて、音のない世界を、ただのんびりと楽しんだ。
燃え盛る火を、何時間もの長い時間、ただ和みながら見つめていると・・・
頭の中が“からっぽ”になった。
暖炉に足を投げ出して(暖をとりながら)、紅茶を入れて、ただぼ~っとした。
本当に、充実した時間だった。
一人で薪を燃やすのも、一人で火を見続けるのも、「豊かな時間」だった。




次の夜は、同じように暖炉の前で火を見ていたら、音楽が聴きたくなった。
前夜の静寂とは全く違う欲求が、突如として、噴き出してきたのである。
クラシックCDを5枚、“からっぽ”の頭で、聴き終わったところで、
触発されたのか、刺激されたのかわからないのだが・・・・
芸術意欲がくすぐられ、突然、音楽を奏でたくなってしまった。
その山荘には、質のよいグランドピアノがあったので、その前に陣取り、
(幼稚園から中学校まで習っていたので)記憶に残るピアノの旋律を思い出し、
鍵盤を慎重にたたきながら、(思い出しつつ)メロディーに神経を傾けていた。
そのような状態を、最初は、しばらく続けていたら・・・・
その内に、それさえも“どうでもよくなって自由にやってみたくなった”ので、
まるで、ジャズセッションのように、和音や心地の良い音だけを選んで、
頭は“からっぽ”にしたまま、心のままに、ピアノと対峙しはじめていた。
緩急をつけ、ペダルも操作しながら、たった一度しか弾けない心の音楽!
すべてが、自分の“想いのまま”にまかせた行動である。

おそらく、1時間近く、ピアノの前には座っていただろう。
その後に訪れた感覚は、「自由」と「満足」・・・そして、「達成感」だった。

音楽は、やはり素晴しい。
クラシックの歴史が長い理由も、次々に新しいリズム曲がでて発表されるのも、
また、人が美しい音楽を聴いたり、大好きな音楽を聴いたりしている時に、
人の脳に心地の良い脳波がでてくるのも、すべてが理解できる気がした。




そして、何よりも重要なポイントは、自分の“心のままに行動する”という
非常に簡単でありながらも、とても大切なこと。
他人の目を気にしないことが、どのような予期せぬ行動を導きだすのか・・・
本当に想像もつかなかった。
他人に気遣うこともなく、さびしい感覚も感じず、ただ「自分の時間を過ごす」。

そして、その経験から見えてきたのは、私を抱きしめてあげるということ!!
心の底から、迷わず、しっかりと、抱きしめてあげるということ!!
今、言えることは、ただそれだけだけれど・・・
思い切り(自分で)自分自身を抱きしめてあげると、自然と・・・
周りの人が愛おしくみえるのは、とっても不思議で、心地の良いことである。



体調管理

2009年10月22日 | 自分 -

自宅から都内に出かけると・・・空気の違いに歴然と気がつく。
都内に着いて、会社の中に一歩足を踏み入れると・・・もっと不健康な空気と
出会わざるをえない。
窓がなく、空気交換は天井の空調のみ。
床は、掃除が行き届いていない、はりかえる事の出来ない絨毯(じゅうたん)。
どよ~んとした雰囲気は、風が通り抜けない環境にも、理由の一端があるように
感じてしまう・・・。
風が通らないと、ご存知のようにダニの宝庫となり、健康的ではない。
そのうえ、広い部屋中に、マスクをした人がごろごろといて、仕事をしている。



現代人は、「口呼吸」をする人が多い。
なぜか口をぽかぁ~んと開けているのが癖になっている若者もよく見かける。
口呼吸をしていると、細菌やウイルスが、どんどん身体の中に入ってくる。
その点「鼻呼吸(鼻から息を吸う)」していると、細菌&ウイルスの80%が、
体内に入ってくるのが制御できる。
そのための「鼻」である。
お鼻の中には、鼻毛というものがはえていて、入り組んだ身体の通路が、
うまくできているのだ。

最近は、特に「鼻呼吸」を心がけて、電車の中などで“やっている”。
会社に着いたら、すぐ丹念に手を洗い、うがいをする。
消毒液も、とりあえず“気休め程度に”ふりかけて(笑)。



このところの日々の疲れで、今日はゆっくりと休むことを心がけた。
昨日の様子を考えると「軽い風邪かな」とも思ったので、今日は絶食をした。
絶食すると、体内が頑張って、自発的に再生して、元気になろうとしてくれる。
今日は、胃の中には、ほとんど倍煎茶と野菜ジュースしか入れなかった。
そのおかげで、体内の内蔵機能も休むことができて・・・昨日に比べると、
すっかり良くなったような心持ちがしている。
昨日は、のどがガラガラで、肩こりがひどくて、身体がだるかったのに・・・
今日は、元に戻ったようだ。もちろん風邪薬は、飲んでいない・・・。
熱が全くなかったのが幸いであった。
(熱がなかったので、インフルエンザの心配はしなかった)



身体の仕組みは、本当に不可思議なことが多い。
うまくできているなぁ~とも思うし、不思議だな~とも思う。
とにかく、我が「自然治癒力」を少しでもあげるように、最近は心がけている。


日本の四季

2009年10月19日 | 出来事 -

四季のある日本!
素晴しいことである。


雪が溶けて、すべてが目覚め、新しい命が芽吹いていく春。
暑くて、意気揚々と虫達が命を燃えつくすかのような夏。
穏やかに、木々は色を変えながら、一変に景色を変える秋。
静かで、美しく、あらゆるモノを吸収してくれそうな冬。


昨日までの森は、秋の真っ盛りに向かう途中だった。
それでも、木々は色づいて、赤や黄色の鮮やかな紅葉も見られた。
あと10日ちょっとで、素晴しい景色が堪能できただろう。
しかし、だからこそ、とても優しい自然と出会うことができた・・・。


日本には、素晴しい四季がある。
四季折々には、違った顔があり、違った臭いがあり、違った味覚と出会える。
本当に、素敵なことである。


自問自答

2009年10月19日 | 自分 -

私にとって、喜びとは何だろうか。

根源的な幸せとは、何を意味するのだろう。
自分が穏やかに心豊かに過ごすことだろうか。
それだけでは満たされず、周りの人にも想いを投げかけ続けながら、
あらゆるサイクルにネットワークしていくことだろうか。

私は、何を大切だと感じ、何を意図して、これから生きていくのだろう。

私の根幹を操作しているものがあるとしたら、それは一体どういうものなのか。

どのようなビジョンを描き、何をするのが、一番快適だと感じられるのだろう。




人は・・・・すべてを手に入れることはできい。
というよりも、「私は、すべてを手に入れることはできない」。
 (これは、どのような状況にも当てはまる現実である)
たとえば、あらゆる力及ばぬ何かに阻まれることも多い。
そんなときこそ、自分の真価が問われる。

仕事がらみやプライベート関係などの“他人とのかかわり”の中では、
どのような対処をしていくのか、相手との関係性や距離感などが、
あらゆる場面で、繰り返されることになる。
そうして、人間関係は構築されているのだが・・・・・
ポイントは、その「質」である。
結局は、“私の対応次第”ということだろう。
それには、相手へのケアも含まれ、自分の“感情処理能力”も含まれる。




人は・・・言葉にだした途端に、相手にも影響を与えることになるし、
その波紋は、大きな広がりを持つことにもなる。
だからこそ、これは非常に大きな意味を持つ行動であるはずなのに、
この重要な行動を、(現実には)日々何気なくやってしまっていることになる。
「果たして、それでよいのか」。
私としては、どのような意識で、行動していくことが、よりベターなのだろう。

すべては、自分の奥底に潜む「自我」や「自尊心」から発せられている何かが、
影響を与えているような感じがする。
私個人は、よりシンプルで、たよやかに生きていきたいのに・・・
まだまだその境地には達していない。



自分を呼んでいる何かが、聞こえる気がした。
自然の中に身を置いて、心のままに全てを手放してみると、必ず涙があふれる。
それが何か・・・わからずとも、感情がゆさぶられるのが確固たる証拠である。
しかし、実は・・・その理由に、私は気がついてしまっているのかもしれない。
それは、もしかしたら・・・
私が“今も愛してやまない人”の魂や理念・理想・願い・・・その人の全てが
自然の中に息づいているからなのだ。決して忘れることのできない事実があり、
それは、普遍的なものでもあり、この星のいたるところで繋がっていることだ。
そのことを認めたくないわけではないが・・・反射的に反応してしまう理由は、
そこにあるような気がするし、何らかの影響を与えているのかもしれない。
そして、それを完全に受け容れることによって、私はまた一歩前進することが
できるのではないだろうか・・・。
今回、「その事実を素直に認めることに、重要なカギがある」と感じたのは、
意味のあることだったと思っている。



私は・・・この数日間の“森の生活”で、多くの「問い」を持ち帰ってきた。
これらの問いは、私自身の非常に深い部分を突っつく問いばかりである。
今の私自身に、“大いなる自然”から与えられた問い!
これこそ、これからの私が、抱きしめていくべきものかもしれない。
今は、そんな気がしている。



惑星の子宮

2009年10月14日 | 人物 -

今週末(日曜)まで、長野県の森に、仲間達と、“こもる”ことになっている。
自然の中で、裸の自分と向き合うと、明らかに新しい感覚と出会えることが多い。
まずは、心の平衡を取り戻し、人としての余裕を取り戻したいものである。


元登山部の私は、「山」や「自然」、そして「森」が大好きである。


下記にアップしたショートフィルム! ~Earth Song ~
1995年に発表されたマイケル・ジャクソン(作詞&作曲)の“この曲”の中では、
「自然」や「森の存在」を、「この惑星の子宮なのに」と表現してくれている。
私が感じたのは、非常に感動的な歌詞だということだ。
(マイケルは、熱帯雨林の森林伐採を批判して、環境保護を訴えている。)
彼は、実際、木登りが好きで、この曲もネバーランドのある一つの木の上で
つくったという逸話が残っている。

「森は、この惑星の子宮なんだ」とは、なんという表現だろう。
それも、地球ではなく、惑星という広がりのある言葉を使っている・・・。
素晴しいの一言である。
私にとっては、鳥肌が立つ表現だ。

「森」は、資源供給の他に、空気や水を放出し、それらを保つだけではない。
水辺に集う微生物から、昆虫や、魚類のたぐいまで、生き物達の宝庫である。
古くからは、人類の「様々な文化」さえも創出してきた。
だから、この曲の表現(森は地球の子宮)は、たとえようのない感動と共に、
マイケルに対する複雑な気持ちが(私の中に)巻き起こってくる。
まるで・・・彼は、地球のサイクルや、生命の生態系について理解した上で、
“人類が目指すべき方向をしめしてくれている”ようにさえ感じられる。
「関心をもつこと」――提言というか、進言というか・・・・・簡単なようで、
非常に難しい、人々に対する深淵のような願いが含まれている・・・。
メッセージ色の強い、暖かな愛情を感じる彼の曲には、リアルな説得力がある。


今回の数日間は、この“地球に対するマイケルのメッセージ”を、よりしみじみと
感じ入る時間を、意図的に「つくってみよう」と思っている。

非力なわが身を想い、現実に流され、全てを諦めた過去とは、明らかに違う。
生活を優先していた若かりし時代とは、また違った感覚を認識しながらも、
その一方で、奇異な何かを求めている自分の期待感(可能性)も感じている。
それが一体何なのか・・・。
「私の心の奥底に、触れられるものであれば、触れてみたいものである」。


~Earth Song ~
「今・・・強く反応する私にとって、この曲は、どのような意味があるのか」。
もしも、感じ取れるのであれば、“感じ取りたい”と、強く欲している私がいる。

今、私にとって、マイケル・ジャクソンのメッセージが込められたこの曲は、
特別なものとなっている。


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Earth Song / アース・ソング / Michael Jackson




1995年制作 (MJが、アルバム「ヒストリー」からシングルカットした曲)

いかに地球が、一部の人間の傲慢さによって破壊されつつあるか・・・・・
環境破壊、貧困問題について、1995年当時のMJが切実に訴えた曲である。
密猟者、ボスニアの紛争、破壊された熱帯雨林など、様々な題材を扱って、
マイケルの心の中を反映したショートフィルムになっている。
(当時、話題になり、ドイツ・スイス・ラトビア・イギリスで1位獲得)


マイケル・ジャクソンは、ビル&メリンダ・ゲイツ財団よりも、随分と早くから
世界の貧困問題や飢餓問題に取り組んでいた。
彼が子どもの頃に観たアフリカの貧民の映像が、きっかけになっていると言う。
その実績により、ノーベル平和賞にも、過去に2回ほどノミネートされている。

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「Earth Song 」の中盤の歌詞に、マイケルの“心の叫び”を感じる。
ここにくると、聴いている私も切なさと哀しみで、身が凍りつきそうになる。
「子供のような大人」だった彼は宇宙旅行を本当に夢みていたし、誰よりも
純粋でシャイな(傷つきやすい)人だったことが容易に想像できる。
年を重ね、世界の問題に取り組むようになって、リアルに後半の歌詞の気分に
なってしまったのだと思う・・・。

  I used to dream                  
  I used to glance beyond the stars         
  Now I don't know where we are        
  Although I know we've drifted far



現在も、いたる場所で、戦争は絶えることがない。
多くの人たちが、犠牲になっている。
あるいは、戦争の後遺症に(人知れず)苦しんでいる。

世界では、飢餓が原因で、6秒ごとに一人ずつ、子供が命を落としている。

日本だけや、自分の周囲半径5mだけを視ていては、何も変わりはしない。



私を取り巻く環境は、数十年の内に、徐々に変化を遂げてきた。
私の境遇も、心模様も、大きな変容を迫られている時期だと感じる。
だからこそ、「この数年は、非常に大切にしたい時間だ」という印象がしている。

きっと、私が「何をするか」というよりも、「どう生きるか」なのだろう。



「怒り」の矛先

2009年10月13日 | 仕事 -

世の中で、自分以外の理由によって、理不尽な扱いを受けることは耐え難い。
しかし、社会で仕事をしていると、時々そういう現実に遭遇する。
今日は、まさに、そういう一日だった。

朝起きてから、自宅で電話一本。
ここから“理解しがたい一方的な論理”を突きつけられた。
社会の構図を考えると、どっちの方向から考察しても、先方は不利な論理である。
私は、そういう倫理の落ち度を、間髪入れず“突き上げる”。
そうすることによって、此方側にも「怒り」に似た感情が芽生えてしまう。
スルーすれば、何のことはない話だが、不均等な論理を共有することはできない。
相手に、意図的に認識してもらうのだ。
だから、私は・・・そこを突き上げて、確認する。


今日、一番ひどかったのは、「嘘」なのか「言い合わせ」なのか・・・
「記憶違い」という一文字で、安易に処理しようとする会社の姿勢にあった。
プロジェクトのメンバーの話し合いの場ではあったが・・・
最終的には、代表自らの発言に、かなり幻滅した。
まるで、私に落ち度があったかのように解釈されそうな(?)言い振りである。
しかし、経営者たるもの「会社を守らなければならない」のは理解している。
だからといって、現実を捻じ曲げたり、歪められたりするのは、私にとっては
かなり不快なことである。
「フェアではない」というのが、率直な感想である。
しかし、裏をかえせば・・・これこそ「まさに現実だな」と・・・・。
いつまでたっても平行線の話し合いは無駄だから、私が引くことになる。
それは、やはり立場の弱いものから、ひいていく社会的セオリーがあるからだ。
(私は社員ではなく、基本的にはフリーランサーである)
それに何といっても、現実的に、前にすすめないからである。

いつものことだから「またか!」とは感じたが・・・・しっかし・・・
この「怒り」に似た感情は、どこへ持っていって、捨ててくればよいのか!


そう思った私は、違う新しい仕事を、即効でつくり、営業に走った。
久しぶりに出会う知人に、一生懸命に熱意をもって、別企画を売り込んだ。
その相手の様々な反応や、久しぶりの面会に、心が躍り・・・
いつの間にか「怒り」は消え去っていた・・・・。
☆忍法「すり替えの術!」である。


マイナスの感情や、強い恨みに強い「怒り」は、根を引くことが多い。
できるだけはやく、気分転換をして、明日に持ち越さないことが一番である。

夕食は、アポなしで、信頼できる人を誘いだし、ムリクリ「メシ食べよう~」。
おごってもらって、「しめしめ!」・・・。


それでも、まだ「根」は残っているのを、今、胸の中に確認している。
「人間だもん、そりゃ、一日では無理ですよん~」


携帯電話の整備

2009年10月12日 | 出来事 -

ドコモショップに入ったのは、機種変更や、あるいは様々なサービスについて
問合せをするためだった。

結局、現況の携帯電話のバックアップをCDにすべて記録して、保存した上で、
機種の内部の「健康診断」をしてもらった。
(アドレス、メール、写真など全てのバックアップした情報が入ったCDは、
  もちろん念のために持ち帰ってきた)

結果は、本体機種の基盤など重要な箇所は「問題なし」。
バッテリーも、数ヶ月前に変えたばかりだったので、「問題ない」とのこと。

メール送信に時間がかかるようになったので、多少心配をしたのだが・・・
たぶん自分か相手が電波の悪い状況にあったのかもしれない。
・・・・ということに考えるようにした。

人間の健康診断と一緒で、豪雨に何度も濡れていたので危惧していた部分が
全く「問題ない」という結果をもらうと、「もう少し使おう」という気になった。
何と言っても、最近の電話は、高い!!
昔のように、安価に機種変更ができなくなった。

二つも携帯電話を使っている私としては、少し各社のサービス情報に気をつけて
よりよき使用環境をつくっていきたいものである。

ちなみに、ドコモの携帯電話の「健康診断」も「バックアップ」も無料である。



チキンカレー

2009年10月11日 | 食事 -

料理は、ストレス解消になる。

初めからつくりあげること、基本にのっとって丁寧に作業をすること、
出来上がりをイメージすること、長時間をかけて心を込めてつくること。
そして「食べる」こと。

料理は、正直「単なる暇つぶし」ではあるものの、なかなか頃合の良い具合で
良い影響を(私自身に)与えてくれる。
この連休は、いろいろと「やること」もあったので、アポは入れず・・・
しかし、すると、なんとなく時間を 持て余してしまうものである。
よって、久しぶりのカレー煮込みタイムとなった。

介護人としての私は、香辛料を控えたギョーザなどを大量に作り、冷凍室に
保管しては・・・・・(当時は)日々の品数の一つにしていた。
一回に、最低80~100個ぐらいは、つくっていたと思う。
父は、歯が悪かったので、ギョーザは「水餃子」か、「スープ餃子」だった。

いろいろと思い出しながら、連休の暇な一人暮らしの時間をつぶしつつ・・・
冷凍庫の補充のため、半日をかけて「チキンカレー」を作った。
スパイスの調合も、意外と気を遣う。
箱に入って、スーパーに並んでいる「固まったルー」は、決して使わない。
骨付きの鳥は、長時間煮込むと、ほろほろに溶けて崩れるぐらい軟らかくなる。
今日の隠し味は、面白くもなく、ごくフツーの「りんごの摩り下ろし」だった。
私は、カレーにフルーツをよく使う。
個人的には柑橘系もよく混入するが、以前ヨーロッパの友人が三種類の果物を
使って、もてなしてくれた時は、びっくりした。
使用したフルーツの中に「柿」が入っていたからだ。
センスや好みなのか・・・(習慣や風土ということはないだろうが)・・・・
「一度やってみよう」と思いながら、未だ“やらず終い”である(笑)。


今回は、まずまずというレベルだろうか。
もう慣れたとはいうものの、食べてくれる人がいないのは淋しいことである。
毎日、三食作っていた頃(介護人時代)を思えば、複雑な心境にも陥るが・・・・
何と言っても、日々の食事は、誰かと一緒に食べるのが何よりである。
だから、家族がいるのに・・・時間がバラバラだったりして・・・、たとえば、
別々に食卓を囲む人々の話を聴くと、ちょっぴり気の毒になる。
そういうときは、やはり「旦那も息子も、好みが違うので大変なのよ」なんて
日々の苦労話にお付き合いをするが、私に言わせれば・・・贅沢な悩みだ。
「家族がいるだけいいじゃないですかぁ!」
そう言いたい気持ちを、ぐぐっと押さえることも、しばしばである。
何事も、一長一短! 私には孤独がある代わりに、自由があり、選択権もある。
隣の芝生は、どうして青くみえるのだろう・・・か。
不思議だねぇ。


しかし、おテテが、まだ香辛料(カレー)くさいんですけれど・・・(笑)


罪なき制裁

2009年10月09日 | 自分 -

私は、子どもの頃から「変なことを感じる子」だった。
「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」「遠山の欽さん」とかの時代劇を観ていて、
主人公が窮地に追い込まれると・・・・・きまってこういう場面が出てくる。
悪者が、「出会え!出会え!やっつけてしまえ!」と叫んで、屋敷勤めの侍が
主人公の刃に“ばったばった”と(瞬く間に)切られていくのである。
そうすると・・・(子供ながら)私は悲しみが押し寄せてきて・・・・・
  「あの侍さんたちは、何も悪いことをしていないのに、なんで切られるの?」
  「きっと家族もいるはずなのに・・・」
切られた侍さんたちは、当然ながらピクリとも動かない。
  「死んじゃったのかなぁ?」
  「何の罪もないのに、どうして殺すの?」
心がすごく傷ついて、しばらく時代劇を観なくなった・・・。

「娯楽劇」だとわかっていても、今も“その感情”は拭えない。




数年前の「イラク戦争」の時は、冴えたるものだった。
介護人としての意識が根強くあり、また数十年にわたる過度の労働から、すべてに
過敏に反応してしまう傾向があったかもしれないと、(冷静に)当時を振り返る。
精神的にも肉体的にも、私自身はパンクする“ほんの一歩手前だった”と思う。
だから、あんなに反応したのだと、今だからこそ感じるのだ。

「9・11」からの流れで、数々の政治的な問題が噴出した「イラク戦争」―!
某国のあらゆる流れが理解できず、某国の国民の民意も理解できず・・・・・
本当に心を痛める日々であった。
毎日、繰り返されるTV報道に釘付けとなり、頭の中は「反乱(氾濫)状態」。
  「どうして?!」
  「日本人は、国内でもっと議論をして、世界に存在感を示すべきでは?!」
  (重要なことは紙面にも電波にも載らず・・・)
知人と会って、日々の話を雑談しても、私の口からは「イラク戦争」が飛び出し、
場の雰囲気を著しく“ひかせてしまった”ことが何度もあった。
熱意を持って発言しても、その反応に落胆してしまう私は・・・・・その一方で、
(周囲の仲間から)稀有な目線をあびることになったこともある。

ただ、一言。      
人間の愚かさに「怒りがこみ上げて、理解できなくて、仕方がなかった」のだ。




たとえ、どんな人にでも、全員に「命」はあり、
その一つ一つは、大変・・・・重い・・・・・と、私は思っている。
そして、その「命の重さ」に優劣は、決してないはずである。



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今日、米国のオバマ大統領の「2009年ノーベル平和賞」受賞が発表された。
私は、冷静に賛辞を贈るとともに、「これから次第だ」ということを、是非とも
肝に銘じて、アメリカを、そして世界を、牽引していっていただきたい!!と、
心から願っている。
オバマ大統領に対する純粋な期待である。
「Yes, We can do it.」と世界に明言したからには、「核のない世界」を目指して、
全身全霊頑張っていただきたいものである。
そのための「ノーベル平和賞」なのだから・・・。

オバマ大統領には、世界のために、まだまだ、たくさんの役目があると思う。
人々が幸せを手にして、餓えることなく生きられるためには、たくさんの役目が
オバマ大統領の肩にのっかっているはずである。
言うのは簡単だが、行動に移すのは大変厳しいことは判っているからこそ、
心から「世界平和」のために、尽力していただきたい。


もう自分の意思に関係なく、罪のない人々が亡くなる現実は・・・みたくない。