人生史

2009年11月30日 | 自分 -

私は、生まれてからずっとの「人生史(自分の歴史)」をつけている。
これは、起こった事柄の整理で、年度、自分の年齢、その月に何があったか・・・
という簡単なものから始まった。
きっかけは、20代中盤頃に購入したシステム手帳に、そういうコーナーがあって、
「こりゃ、いいやぁ」と、短絡的に感じたからだった。
当時は、記録としての“メモ的な意味合い”しかなかったように思う。


その後、エクセルを使って、より詳しい内容の「人生史」をつくり始めた。
「年度」、「月日」、「起こった出来事」、「その時、感じた気持ち」を
整理して書き付けている。
そして、進化系としては、追加で「現在の気持ち」を書き綴るようになった。
隣の備考欄に、時間を経て「気がついたこと」「今だから冷静に感じること」を
冷静かつ端的に、記している。
それは、読み返して、追記することもできるようになっている。
こうして、自分の「人生」を残しているのである。

この「我が人生史」は、今や貴重な存在になっている。
暇な時に、数年ぶりに取り出しては、時間のあるときに書き記していくのだが、
過去の自分自身が非常に理解できるし、対処方法も考慮できる。
そして何よりも、忘れていた感覚と感情や人間関係が、当時を生々しく
思い出させてくれる。
まるで、フォトフレームのように・・・・。



昨日、久しぶりに、簡単な方の「人生史」に書き込もうと手帳を出してきた。
そのシステム手帳は、もらいもので、日常で使っているものではない。
昔の手書きのアドレス帳などを眺めながら、懐かしく想いにふけっていた時、
たまたま手帳のポケットをあけてみた。
すると、思い出のテレホンカードが出てきて、「いやぁ~なつかし~~」
裏側のポケットに手を伸ばしてみると、懐かしい文字が目に飛び込んできた。
それは、私の母が最初に入院した時、直接、手渡されたものだった。
病院の朝食カードの裏に、自宅の権利書や実印、大事な書類を管理している
場所と、そのカギのありかを絵に描いて、私に手渡したメモだった。
すっかり忘れていた感情が、一瞬の内に、この胸にぶり返してきた。
母は、このメモ書きで、あの時、すべてを私にゆだねたのだ・・・。
“どんな想いだったのだろう”と慮ると、やはり母の「不安」と「覚悟」しか
感じることができない・・・。
それなりの強い気持ちからの行動だったのだと推察する。

「思い出の品」が秘めているパワーは凄いものである。
十年以上の時間を、飛び越えて、あの時の私に、戻ってしまった・・・。
やはり、物質に固執するのは良くないが、思い出の品は残しておくべきだ。
そんな甘すっぱい気持ちになる「母のなぐり書き」。
気がついたら、感傷的になってしまっていた。

私は母を非常に頼り、とても愛していたので、まだこういうものを目にすると
泣いてしまう。
病院で話したことなどが・・・・思い出されて、また泣けてしまう。
“おやおや、どうした?”と思いながら、すぐに「母のなぐり書き」をポケットに
しまいこんで、またシステム手帳を戻した。

このメモを、「人生史」のポケットに入れたことなど、全く覚えていないのに、
入れたという事実は、当時の私にとって“重要なことだ”と感じたからだろう。
再び、目にしてみて・・・それは、同じ事を感じた。

何か・・・うまく言葉に出来ないが・・・・
母から「目にみえないメッセージ」を再びもらったような印象を受けた・・・。


スピード婚

2009年11月29日 | 雑感 -

婚活におどる昨今だからだろうか・・・。
短時間で結婚を決める人が多くなったような気がする。

             あたるもはっけ、あたあらぬもはっけ・・・・


自分の直感というものを信じる力が強ければ、お互いの根ざしているものを
感じ取ることはできるだろう。
その場合において、時間というものは関係ない。
たった一日、一瞬、会っただけでも、感じる時は感じるものだと思う。

あとは、その感じた「モノ」を、より丁寧に積み上げていくのが「結婚」?
だから、契りを結ぶ二人にとって、何よりも大切なのは・・・お互いが
結婚してからの時間をどう過ごしていくのか・・・なのだろう。
いつまでも恋愛の脳内ホルモンが分泌しているわけではないし、
恋人関係から違ったカタチの関係性を構築していくことが大事なのだろう。
信頼しあっている夫婦にまさるものはない・・・。


一人でも多くの人が幸せになってくだされば、それに越したことはない。
幸せそうな笑顔は、ステキだ。

他人である異性と深くかかわり、心から愛することができるなんて、
なんて素晴しいことだろう。
これほど喜ばしいことはない。


帰省計画

2009年11月25日 | 自分 -

今日、品川駅の新幹線改札の前を通り過ぎる時、突然チケットを買って、
どこかへ行きたくなった。 学生時代のような感覚だ・・・。
そういう強い衝動にかられて、しばらく、新幹線の入り口あたりの看板を
ぼぉ~っと見ていた。
「名古屋」「京都」―看板の文字を見ながら、私は“どこへ行こうか”と密かに
考えていたのかもしれない。(冷静に考えれば、バカバカしい話だ)

「本当に、行っちゃおうかなぁ、一泊ぐらいは大丈夫かもなぁ。
 明日は特別なアポはないし・・・呼ばれない限り・・・オフれるし・・・」

            (だったら、近めの伊豆とか、箱根でしょう??)



わけのわからない咄嗟の衝動に、自分自身がびっくりである。
午前中に、田舎に電話していたからかなぁ。
本来であれば、今頃は、田舎に帰省する予定だった。
今頃は、荷造り等をしていたかもしれない。
そして、長期休暇を取って、
(久しぶりに)ぶら~り一人旅をしてみたかった。

実は・・・今回は、父の介護中にできなかったことをやってやろうと・・・・
京都の友人や、大阪の知人に、あらかじめ電話をして、なんとなく複線をはり、
「途中下車の旅」というのも計画に入っていた。

現在の生活から逃げたいわけではないが、気分転換というか・・・・
懐かしい人に、ひさしぶりに会いたいというか・・・・
四国霊場めぐりも、ゆっくりとしたかったし・・・・
せっかく使う交通費だから、帰省移動も、時間を大切に過ごしたかったのだ。

しかし、「やっぱり、自分の思うとおりにばかりはできない」もので、
今年中に帰省できるかどうかも、今は微妙になってきた。
確実に、今の私は、仕事の都合に左右されている。
それも「結果待ち」という、有効的でない時間を過ごさなければならない。

私の密かな計画は、がたがたと崩れかけている。



都会は、慌しい。
都会は、世知辛い。
都会は、忙しい。
都会は、おしゃれだけれど・・・あったかさの質が違う。

景色や、言葉、住んでいる人柄に、人付き合いやお接待の仕方まで、
田舎(四国)とは、・・・全く違う。

過日、小学校からの友人から電話があったし、
私自身が古里が恋しいのだろう。



品川駅の衝動は・・・あの泥臭い、そして郷愁を誘うすべてのものに、
「懐かしさ」がこみ上げてきた一瞬だったのかもしれない。



シンプル

2009年11月23日 | 自分 -

  単純なものは、美しい。

 「真理」は単純かもしれないが、「事実」は複雑なことが多い。

  ただ、私は、“美しいもの”が、好きなだけである。




「単純」とは・・・・
混み入ることがなく、簡単であり、雑ざっていなくて、制限や条件がない。
私は、いつも「シンプル」という言葉を身近に感じ、イメージしている。

異常な現象

2009年11月22日 | 社会 -

今年の紅葉は、例年に比べてすっきりとしなかった。
カエデも、赤く色を変える前に、茶色に枯れて、落ちてしまったり・・・
ナラは、全国的に「ナラ枯れ現象」が多発した。

自然現象と、まるで歩みを共にするかのように、「犯罪」や「痛ましい事件」が
相次ぎ、ニュースを見るのが嫌になってしまう昨今である。
まるで連鎖するかのように、連日の殺人事件報告には、心が切なくなる。
どうして、そう簡単に「命」を奪えるものなのか・・・・
これが、日々の現実である。
私は、全く理解に苦しむ。
何が、そういう行為を促していくのか、本当に「わからない」。



最近、「わからない」ことが多くて、人々の意識をこえて、社会全般の規範が
こわれゆく現状を感じている。
いや、もう社会の規範の一部が、“壊れてしまっている”のかもしれない。
私の周囲だけを念頭においても、昔では有り得なかった(考えられなかった)
出来事や現実と遭遇することが、最近は多くなった。
そして、何よりも怖いのは、そのことに当人自身が気がついていないという、
私が感じる“果てしない驚愕の気持ち”である。
    (EX:悪びれもせず、堂々と嘘を何度もついたりすることなど)
「倫理観」というのは大げさかもしれないが・・・・「自分が、自分に対して、
恥ずかしくないのだろうか」・・・と感じる。
人間として、“やってはいけない”と親から教わったことを、平然と(?)
“やってのける”人々が増えたのは、確実なる事実だと思う。

なぜ、このような異常な現実が続き、理解できない現象が続くのだろうか。



これは誤解のないようにしてほしいのだが・・・
(これが理由だとは言っていない)
テレビでは、安易な殺人を繰り返す「サスペンス劇場(2時間ドラマ)」を
各局が(毎日のように)放送している。
(昔は、このような頻度で殺人ドラマを放送していなかった・・・)
ストーリーを分析しても、「殺さずとも、何らかの解決方法があっただろう」と
素人でも感じるような安易さで、人を何人も殺している。
つっこみたくなる殺人が多い。
そして、それらのドラマには、それを抑止する帰着点は何もない。
一番大事なドラマの核とは何なのだろう。
人々は何を期待して見ているのだろう。
「殺人する事実そのもの」か、恨みや復讐などの「心理状態」か、あるいは、
「そうしないための何らかの方法論」を見つけ出すことか・・・
私は、人々は、単に「犯人探しの“暇つぶし”」のために観ていると思うので、
非常に複雑な思いがする。
だから、帰着点がなく、得るものがなくても、放送を繰り返すのだと推察する。

ヒューマンドラマがなくなり、安易なサスペンスドラマが増えたということは、
テレビ局が国民を低俗化させている事実に加担している・・・とさえ思う。
ヒューマンドラマは、感動や感激を与えるし、「人の生き方」について、深く
考えさせられることが多く、人の成長や日常にも影響を与える。

こんなに簡単に殺人を繰り返すドラマを連日放送する環境も、血のりをべったり
つけた殺人現場や、恨めしそうな表情の死体を見るのも、気分が悪くなるので、
私は「サスペンス劇場(殺人事件ドラマ)」を観ない。
それは、殺人事件を伝えるワイドショーも同じである。


テレビ局の番組で言えば、「バラエティー番組」や「お笑い番組」は、余計に
言及したい部分がある。
低予算を理由に、安易に番組を制作し“たれながしていないか”と申し上げたい。
そういう番組にCFを提供している企業にも、疑問を感じることが多い。



アメリカのスラム化を促進したのは、“銃社会の不安”をあおる報道を繰り返し、
放送し続け、それを見続けた国民の感情にあるという理論を出した心理学者が
数年前にいたが、まさにそれは一理あるように思う。
痛ましい事件も、何度も連鎖的に見たり聞いたりしていると、こちらサイドが
「またか!」と“鈍感になってくる”からだ。
さも、“異常ではない”と思うようになってしまったら、最悪のことだろう。
そのような現象は、電車の中で多発する人身事故に対する乗客の反応や対応を
見ていると、同様のことを感じることがある。
人が自分の命を絶つことや、他人に迷惑をかけてまで自殺するまで追い込まれた
現実の切実感が感じられない人々が、あまりにも痛ましい・・・。



ゲームをするのは、子供達には楽しいらしいが・・・・
成長期にコンピューターゲームばかりをすると、脳の発育に影響が出て、
善悪の判断をつかさどる部分の発育が完全でなくなるという研究結果もある。
何かを考慮して、「正しいことかどうか」を考える脳の部分が発育せず、
結局、人間としては問題をかかえる思考回路を形成してしまうのだ。
サルではない「人類」は“考えること”によって、知恵を出し、発展してきた。
幼少期に、ゲームばかりをして、愛情を与えず、人とかかわらなかった子は、
成長しても尚、コミュニケーション不足と、道徳観の欠如に、困るらしい。



フィクションと現実との違い・・・その境界線が理解でき、きちんと人として
“どのように感じるのか”を自分の中で、受け止めながら、芸術にも触れて
ほしいと心から思う。
また、成長過程における子供が、刺激的な芸術作品を見て、トラウマのように
心の奥底に残ることがあるらしいが・・・・そういうことは、何よりも製作者の
配慮が必要だと思う。


日本が世界に誇る「オタク現象」も、「コミック(漫画)」にしても、まさに
上記と同様の印象がしている。
漫画などは奇想天外な様々なストーリーがあり、日本のアニメは本当に凄い。
世界の最先端をいっているからこそ、その功績をけがしてほしくない・・・と
ただ、祈るばかりである。


皆がみんなじゃないにしても、どうして、こんな社会になってしまったのか、
ただ、素朴な疑問として、頭をもたげて離れない。



「ハートフル」で「ピースフル」な世界は、難しいのだろうか。

どうすれば、もう少し安心して、人々が暮らせる環境が手に入るのだろう。

とにかく、現在多発している犯罪を検証して、動機を確認して、その人の
生い立ちや、価値観を考察することから、何かが見えてくるのだろうか。
人々が、社会の仕組みや、日常の人間関係を見直すためにも、あらためて
「今、起こっていること」を、自分の身の上に受け止めてみることも、
必要ではないかと思えてならない。
この連鎖的な破壊現象を、食い止めるために・・・・・。



社会も、自然も、そして、この地球も・・・
異常現象に苛まれ、それを今は、誰も止めることができない・・・・・。
本当に、心が痛むことである。


言霊

2009年11月21日 | 自分 -

言葉には、深い意味を持つものと、簡単で誰もが理解できるものがある。
その繋がりを埋めるのは、「間」であったり、「気持ち」や「表情」などがあり、
言葉だけではなく、いろいろな「動き(アクション)」であらわすことができる。

しかし、「人に伝える」ということを第一に考えた時に、
「言語」「言葉」というものは、特別の意味(力)をもつものである。
その伝える相手が、たとえ自分自身であっても、それはそれで強く伝わってくる
ものだったりする・・・と思う。

「言葉にしてみる」という行為は、(たとえニュアンスが全部伝わらなくとも)
大切なことなのだと感じる。
言葉にしてみたことにより、より心持ちが強くなり、意志力が固まる。
人にそれを話すと、そのことにより(伝えようとする気持ちがはたらき)
自分のおぼろげに考えていたことが明確になることもある。
他人から得られる反応はまた、自分の言葉を反映するものであるがために、
より一層「我が心根を固める」ことになることがあるのだ。


信じられる人が側にいて、その人と共通の価値観で結ばれていて、
その人が(常に)自分の側にいる・・・と思えるだけで、
ただそれだけで「安心できる生活」は、何よりも素晴しい。
たとえ会えなくても、その時間が相手を認識する貴重な時間になることもある。

こういう想いや関係は・・・男女間だけじゃなく、家族や、友人・知人関係等、
様々な“人間と人間が接するケース”に当てはまると(私は)思う。


「いつもありがとう」
「身体に気をつけて」
言える事からはじめて、「L Love You !」と言えると・・・理想的かも。
それも、自然に・・・。


日本人は、日本人らしく、「あんたがいるから、この家はもっているものだよ」
「あんたがいるから、ぼくがいられるんだよ」なんて・・・そういう伝え方も
ちょっぴりじ~んとする高齢の方の愛情表現だと思う。
感謝の気持ちが、じんわりと伝わってくる。
お互いを思いやる気持ちがあれば、素直に伝え合うことが「愛」を深め合う
一つの大切な力になる。
その関係性には、確固たる“輝かしい「絆」”が存在している。

私は、そういう二人を見ているだけでも、しんみり、じ~んとしてしまう。


せっかく、日々を生きるのだから、少しでも幸せに生きて生きたいものである。


祝辞

2009年11月20日 | 人物 -
成田屋さん、万歳!

すばらしくおめでたい、そして、お似合いのカップル誕生!

(おメメのくりっとした成田屋さんばりのお子さんを
  私はすでに期待してしまっています。楽しみですネ)

海老蔵さん、やっぱり、第一印象で「感じる」ものなんですね。
出会いというのは、そういうものなのでしょうか。

本当に、おめでとうございます。

今日は、十二代目市川団十郎さんの舞台を観劇する予定だったので、
手元にある国立劇場のチケットを見ながら、余計にビックリ!
今月の演目は、歌舞伎十八番「外郎売」他、文化庁芸術祭主催になっており、
すばらしい内容になっています。

国立劇場でも、大騒ぎでしょう。
今日は、存分に楽しんできます。



Smile Life

2009年11月19日 | 人物 -

マイケル・ジャクソンが歌っているこの曲は、
チャーリー・チャップリンが作曲した作品「Smile」です。
彼の「モダンタイムズ」(無声映画)で使われていました。
歌詞は、随分あとになって、つけられたようです。


king of pop !
マイケルジャクソンが、自分の作品以上に、大好きだったそうです。
追悼式で、ブルック・シールズが、そのことを披露していました。
この曲が大好きだったなんて・・・・・それだけで、
マイケルの“とても前向きな姿勢”が、うかがい知れます。


Michael Jackson  / Smile (Charles Chaplin)



チャップリンは、映画の創世記に活躍し、「独裁者」でヒトラーを題材にして、
アメリカを追われました。(今だからこそ感じるのは)非道な決断でした。
マイケルもまた、世界平和のメッセージソングを作り、歌いはじめた頃から、
マスコミ攻撃と、皮肉っぽいゴシップ記事に苦しめられ、挙句の果てに、
悲劇的な待遇を受けた裁判に発展していきました。
二人とも、国(政治)の動向にまで影響を与えるほどのスーパースターでした。

人気が絶頂期だった頃のマイケルの一言は、多くの国民に変容を与えるほどの
説得力のある(強固なもの)であったと予想されます。
常に戦争を繰り返してきた母国:アメリカの首脳陣の方々にとっては、苦々しく、
面倒な存在であり、彼の発言は危険なものだったかもしれません・・・。

想いおこせば、二人のスーパースターには、少なからず共通するイメージがあり、
小さい頃から(家計を支えるため)エンターティナーとして活躍していたことや、
作品を創出することに対する「完璧主義者」であったこと・・・など。
違うのは、チャップリンが長く生きてくださった(88歳)ということ。



厳しく、辛いことが多かった人生だけれど、
マイケルはいつも素晴しく逞しい部分もあったと思います。
それは、エンターティナーとしての自負や、応援してくれるファン、
これまでの業績が、彼の心を後押ししてくれていたからなのでしょう。
夢も多く、願いも強く、屈することのない意志も感じます。



この曲は、ナット・キング・コールや、ロッド・スチュアートをはじめ、
マイケル以外にも、たくさんのアーティストがカバーしていますが・・・
MJの歌い方は、とても優しいですね。
語りかけるように、諭すように、胸に響く歌声です。


日本には、「笑う門には福来る!」という言葉があります。
笑いは、人間の健康にも作用するらしいですね。
私も、いつも笑っていられる人生がいいなぁ。
永遠のピーターパンから、「Smile!」と、声をかけられているような・・・
そんな気持ちになってきます。


自分の時間

2009年11月18日 | 出来事 -

今朝、突発的に、携帯電話を持って出るのを忘れた・・・。

     「どうしよう!」

私にとって、今や、携帯電話は(仕事上)必需品となっている。



午前中、都内の大学付属病院で、身体の診断を受ける予約をしていた。
ドッグに入ると、タイマイキンが出て行くので、今日はレントゲンと血液検査、
来週は心電図と肺機能などという感じで、ちまちま健康診断検査をしている。

今朝、私は大学病院に出かける予定だったので、いつもとペースが違い、
それでバタバタ出かけたために、つい・・・大事な携帯電話を忘れたのだ。
昨日、仕事関係で複雑な連絡が続き、翌日に携帯電話がないのが不安だった。
それで、すぐに意識を切り替えた。
仕事には、優先順位がある。
午後は会社に行く予定を、ドタキャ~ン! 
会社のアポ相手には「ごめんなさい」と。

公衆電話を探し、たった20円しかない財布から会社に電話して、とりあえず
状況を説明していたら・・・・・無常にも、途中で、プツッ・・・と切れた。
「まぁ、いいかぁ~~。どうってことないさ!」



せっかくだから・・・・(11時すぎという時間だったし)・・・
帰宅する前に、ゆったりと、贅沢な時間を使って、ランチをすることにした。
二時間半ぐらいまでは、どうってことないだろう・・・。
景色の良い、太陽の差し込むテラスで、思い存分、ぼぉ~っと過ごした。
ヨーロッパにいるみたいで、すごく気持ちがよかったぁ。

昔は、到底無理だったのだが・・・(広がりのある開放的な場所であれば)・・・
一人で何も考えない時間をつくれば、ものすごくリラックスできるようになった。



最近の私は、腰と腹が据わってきた。
経験に裏打ちされた想定範囲の中で、動けるようになってきたからだろう。
悪びれず、時間も有効的に活用し、自分のために一日を過ごした。

「生活」は、緩急をつけて行かないと、行き詰まってしまう。
「人生」も、またしかり!

「ゆったりとした時間を過ごすこと」は、とても大切なことだと感じている。



思い込み

2009年11月17日 | 仕事 -

「人は、“パッと見”では、わからないものである!」

今回の仕事の現場で感じたことだ。

穏やかで、おっとりとして、協調性があって、問題など起こしそうもない印象の
「ある人」は、その一方で、(私の中では)「挑戦」という言葉からは ほど遠い
イメージがあり、“上司の言うことだけをする”ような従順な人である。
悪く言えば、自発性のない姿勢が、(なんとなく)におってくる人だ。
その「ある人」から、人が(フツーは)やらない“衝撃的な提案”をもらった。
それは、自分に過酷な条件を課すもので、それを了承したら、メンバー全員が
無理をしなければならない“リスキーなもの”であった。
結果、最終的に“それ”を了承し、受け容れたのは私だった。
「やってみましょう!」

結果は、想像を絶する「はなまるマーク」の「大 OK!」だった。

狙ったものは完全に外れたが、それ以外の予想だにしなかった結果を手にした。
素晴しいものだった。



彼の提案は・・・、
決してプレッシャーをかけたわけではなかったが・・・・・私は・・・・・
このことが“どれだけ大事なことか”ということを相対的に心を込めて説明して、
その上で「私は貴方に期待している。アイデアを出して欲しい」と伝えた。
その後の提案が、彼の“それ”だった・・・・。
その場にいたメンバー全員が頭をひねりながら、前向きな姿勢だったし、
気持ちのコンセンサスは取れていたので、誰も反対する人はいなかった。



生きていると、面白いこともある。

素直に喜び、素直に感動し、素直に感謝し、素直に「ピュアな連帯感」を感じた。
そして、何よりも・・・
「人の可能性は限りがなく、またその意志力によって、結果は歴然と変わる!」
ということを身をもって体験した。

第一印象と、日頃の人柄の刷り込みが、完全に変わった経験だった。
「私の思い込みなんて、その程度のものなのだ」という実践的結論に達した。



人の可能性は、果てしがない。
その可能性を、少しの思い込みで遮断してしまうのは、本当に“もったいない”。
たとえ失敗しても、それを学びに代え、自分の肥やしにすればよいのだ。


予定調和だけの人生なんて、何が楽しいのだろう。
自分で開拓して、自分で選択して、自分で決断する人生の方が、
何よりも素晴しく、意義深い時間が過ごせるように思う。
・・・そんな想いを抱いた経験だった。


失敗の処理

2009年11月12日 | 自分 -

「これぐらいなら、私にだってできるだろう」と、期待に近い予想を持ちながら、
「イザ!」ことにのぞんでみたら、“それ”が・・・できなかった時・・・・

   かなり落胆する。
   哀しくなる。
     場合によっては“自責の念”に、かられることもあるだろう。

   今後は、脳の後退を意識するかもしれない。
   しばらくしたら、“老い”を、思い知ることにもなる。




正直に言うと・・・・・
自分が自分に可能性を見出し、(密かにポジティブに)期待していたのに、
その「可能性」や「希望」を、自分自身が壊してしまうから、落ち込むのだ。
芽を摘んでしまったような気分になってしまう。

自分以外に、他の誰にも原因はなく、「可能性」を阻む要因が何もない場合・・・
言い訳もできないし、理由を何かに転嫁することもできない。

社会的な立場がある場合は、「ぐぐっ!」とこらえて、人前では前向きに対処し、
心の中では“ぐちゃぐちゃになった気持ちを整理すること”に 必死になる。


こういうことは、「これまでにも、何度かあったなぁ~」と思いながらも、
自分の心を解放してみると、みるみる涙腺が条件反射して、涙があふれてくる。
その理由として、まず一番最初に感じることは、「こんなこともできないのか!」
という“自己否定”に近い「落胆の気持ち」である。
これが、くせものだ!
こやつが、はばをきかせてくると、思考回路や性格まで変わってしまう・・・。
すっきりと「けり」をつけてあげないと、「後悔」という最悪の事態に苛まれ、
(まるでトラウマのように)ずっと心の奥底に、巣創ることになってしまう。



「時間は解決してくれない!」
「もちろん、他人はしらんぷりだ!」
だから、自分が解決するかのように、対応していくしかない。

実は・・・私には、私なりの「やり方」があって、この20年間の長きにわたり、
同じ対処方法で、やりこめている。
しかし、すべての事案(出来事)が、完全に片付くわけではない。
納得できず、しばらく“ひきずるものがある”のは事実である。
それは認めざるをえないが、“やらないよりは、やったほうがマシである”―
という結論には、随分前に達している。

私なりの「やり方」とは・・・
  ○まずは、思い切り気持ちを解放し、心穏やかにすること
  ○解放した状態で、襲ってくる感情のまま、現実を受け容れること
   泣きたくなったら、我慢せずに、気がすむまで号泣すること
  ○起こった出来事を、前向きに、現実だけを受けとめること
  ○「これは自分にとってベストの結果だった」と納得すること
これが、わたしの「やり方」である。
ポイントは、最後の“自分にとってベターではなく、ベストだった”と思うこと!
これに尽きるかもしれない。
実際、失敗した場合でも、相反する良い出来事が、後に待っていたりもする。

「現実の流れのままに、基本的には逆らうことなく・・・
 ・・・・・しかし・・・ただ 単に “決して流されているだけではない”!」
「自分の意思において、人生の荒波を(流れのままに)わたっていく!」という
気持ち(イメージ)でいるのが、私にとっては、快適な考え方のような印象だ。



人は、性別・年齢に関係なく、
生きている限り、人と接している限り、何かを成し遂げようとする限り・・・
(まれに)何らかのトラブルや事件を抱え込むこともある。
でも、その処理能力がまずは大切で、あとは自分の理解度の質感が問題である。
私は、決して自己否定しないで、愛しい自分自身を“抱きしめてあげる”ように
したいと思っている。

何よりも、大切なのは、我が「心」・・・・・
だから、私の心の赴くまま、今夜は自由に遊ばせてあげよう。


生命

2009年11月11日 | 言葉 -


 あらゆる生命がゆっくりと生まれ変わりながら、
 
 終わらない旅をしている。

   
                <by 星野道夫>

「愛」

2009年11月10日 | 言葉 -


■「愛」の反対語は、憎しみではなく「無関心」です


■最も悲惨なことは飢餓でも病気でもない
 自分が誰からも愛されていないと感じることです


             <by マザー・テレサ>


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5年ぶりに、品川の駅の外にくりだした。
駅前の変貌振りには、驚いた。「驚愕」の一言である。
高層ビルが建ち並び、大企業の看板が明記されたビルが乱立している。
打合せを終えたら、あたりは真っ暗である。
真っ白な心持ちで、ぼんやりと歩道を歩いていると、時間がいつしか過ぎ、
真っ暗の中から明るく輝く駅前の高層ビルが浮かび上がってくる。



「暗闇」にしか“みえないモノ”があるのに・・・・
こんなに明るくては、「暗闇」を肌で感じることができない。

まさに「愛」こそ、「暗闇」の中で、おぼろげにふわりと浮かび上がってくる
“後光のようなもの”であるのに・・・・。

真っ暗な闇に囲まれても、胸をはって「私は一人じゃない」と思えること―。
「自分が愛する人」や「愛を注いでくれる人」の有難さが感じられること―。
その人達と繋がっていて、その人達の顔が浮かんでくる“ささやかな幸せ”。




お子ちゃま誕生

2009年11月09日 | 出来事 -

東西独を分断していたベルリンの壁が崩壊されて、丁度20年目を迎える今日、
知人(本人)がメールで知らせてくれた。
「今朝7時11分、52㎝、3400gちょいの女の子を無事に出産しました。
 大きくて頭や肩幅で苦戦しましたが、自然分娩でなんんとか!」・・・・
・・・とのことで、胸に抱いた「あかちゃん」の写真が、添付されていた。
感動して、お母さんは泣いたらしい。 他人の子供なのに、とても嬉しい。
この国を担うかもしれない、一つの「命」の誕生だ! 素晴しいことだ!!

まさに歴史的にも記念になる今日生まれた子だからこそ、期待できるぞ~。

「おめでとう」と「お疲れ様」「よく痛みに耐えましたネ。感動!感謝!」と、
すぐに返信したが、非常に嬉しい知らせだった。
たまたま先週夕食した知人とも「そろそろかなぁ」と話していた頃だったから。

この子が成人する時に、もう少し健全で安全な環境になっていますように!


2009年11月07日 | 人物 -


「世界を変えること」を、本気で目指していた。

経済的に安定してた頃は、想像を絶する金額を社会貢献(飢餓問題等)のために
使っているし、そのためにあらゆる努力を惜しまなかった。

誰よりも、純粋がゆえに、たくさん傷つきもしたが・・・
それでも「信念」を曲げることなく、最後の最期まで願い続けていた。
その意志力と、志に、敬意を表する。




■「マイケル・ジャクソン」
不世出のスーパースター:エンターティナーでありながらも、
その域を超えたメッセージを残してくれた。

世界は、そう簡単に変わることは厳しいかもしれない。
でも、マイケルのように、真摯に願い、行動し続けることで、彼のパワーが
まるで波紋のように、少しずつ、世界中に広がっていくのではないだろうか。

彼が、生半可なファッションとしてではなく、まじめに、本気の“本気”で、
「愛」と「世界平和」(戦争廃絶・人種差別)と「環境破壊をくいとめる」ように
訴え続けたことを、私は生涯・・・・・決して忘れない。
どのような弊害にも屈することなく、自分の「信念」だけは貫いた人だと思う。
そういう点だけは、人として、“心から、尊敬する”。



マイケルのアルバムは22年ぶりに1位となり、映画の公開も2週間延長された。
映画の興行成績も、堂々の1位である(すごい勢いで、伸びている)。

死して尚、人々にメッセージを送り続け、愛され続けているのには、きっと
それ相当の理由がある。
彼のメッセージソングのストレートさには、本当に清清しさを覚える。
心が綺麗な人にしか書けない歌詞のような気がしてならない。
あれだけ、嘘・偽りのゴシップにみまわれ、母国人からさえも奇怪人と扱われ、
多くの人から誹謗&中傷されながらも・・・・・
彼は、昔から、常に(世界中のいたる場所で)「I love you.」を繰り返した。
何度も、何度も、その言葉を繰り返してきた。
人が「I love you.」と声をかければ、「I love you more.」といつも応えた。
彼は・・・本気で、心から「愛」を人々に注ぎ続けていたのだと思う。

彼が生涯を通して、「I love you.」 を、何度口に出しただろう。
素朴な疑問として考えるだけでも、自然と心が洗われていく・・・。



心から世界の子供たちの未来を憂っていた。
世界中が平和になり、戦争が終わることを、強く願っていた人だった。