惑星の子宮

2009年10月14日 | 人物 -

今週末(日曜)まで、長野県の森に、仲間達と、“こもる”ことになっている。
自然の中で、裸の自分と向き合うと、明らかに新しい感覚と出会えることが多い。
まずは、心の平衡を取り戻し、人としての余裕を取り戻したいものである。


元登山部の私は、「山」や「自然」、そして「森」が大好きである。


下記にアップしたショートフィルム! ~Earth Song ~
1995年に発表されたマイケル・ジャクソン(作詞&作曲)の“この曲”の中では、
「自然」や「森の存在」を、「この惑星の子宮なのに」と表現してくれている。
私が感じたのは、非常に感動的な歌詞だということだ。
(マイケルは、熱帯雨林の森林伐採を批判して、環境保護を訴えている。)
彼は、実際、木登りが好きで、この曲もネバーランドのある一つの木の上で
つくったという逸話が残っている。

「森は、この惑星の子宮なんだ」とは、なんという表現だろう。
それも、地球ではなく、惑星という広がりのある言葉を使っている・・・。
素晴しいの一言である。
私にとっては、鳥肌が立つ表現だ。

「森」は、資源供給の他に、空気や水を放出し、それらを保つだけではない。
水辺に集う微生物から、昆虫や、魚類のたぐいまで、生き物達の宝庫である。
古くからは、人類の「様々な文化」さえも創出してきた。
だから、この曲の表現(森は地球の子宮)は、たとえようのない感動と共に、
マイケルに対する複雑な気持ちが(私の中に)巻き起こってくる。
まるで・・・彼は、地球のサイクルや、生命の生態系について理解した上で、
“人類が目指すべき方向をしめしてくれている”ようにさえ感じられる。
「関心をもつこと」――提言というか、進言というか・・・・・簡単なようで、
非常に難しい、人々に対する深淵のような願いが含まれている・・・。
メッセージ色の強い、暖かな愛情を感じる彼の曲には、リアルな説得力がある。


今回の数日間は、この“地球に対するマイケルのメッセージ”を、よりしみじみと
感じ入る時間を、意図的に「つくってみよう」と思っている。

非力なわが身を想い、現実に流され、全てを諦めた過去とは、明らかに違う。
生活を優先していた若かりし時代とは、また違った感覚を認識しながらも、
その一方で、奇異な何かを求めている自分の期待感(可能性)も感じている。
それが一体何なのか・・・。
「私の心の奥底に、触れられるものであれば、触れてみたいものである」。


~Earth Song ~
「今・・・強く反応する私にとって、この曲は、どのような意味があるのか」。
もしも、感じ取れるのであれば、“感じ取りたい”と、強く欲している私がいる。

今、私にとって、マイケル・ジャクソンのメッセージが込められたこの曲は、
特別なものとなっている。


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Earth Song / アース・ソング / Michael Jackson




1995年制作 (MJが、アルバム「ヒストリー」からシングルカットした曲)

いかに地球が、一部の人間の傲慢さによって破壊されつつあるか・・・・・
環境破壊、貧困問題について、1995年当時のMJが切実に訴えた曲である。
密猟者、ボスニアの紛争、破壊された熱帯雨林など、様々な題材を扱って、
マイケルの心の中を反映したショートフィルムになっている。
(当時、話題になり、ドイツ・スイス・ラトビア・イギリスで1位獲得)


マイケル・ジャクソンは、ビル&メリンダ・ゲイツ財団よりも、随分と早くから
世界の貧困問題や飢餓問題に取り組んでいた。
彼が子どもの頃に観たアフリカの貧民の映像が、きっかけになっていると言う。
その実績により、ノーベル平和賞にも、過去に2回ほどノミネートされている。

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「Earth Song 」の中盤の歌詞に、マイケルの“心の叫び”を感じる。
ここにくると、聴いている私も切なさと哀しみで、身が凍りつきそうになる。
「子供のような大人」だった彼は宇宙旅行を本当に夢みていたし、誰よりも
純粋でシャイな(傷つきやすい)人だったことが容易に想像できる。
年を重ね、世界の問題に取り組むようになって、リアルに後半の歌詞の気分に
なってしまったのだと思う・・・。

  I used to dream                  
  I used to glance beyond the stars         
  Now I don't know where we are        
  Although I know we've drifted far



現在も、いたる場所で、戦争は絶えることがない。
多くの人たちが、犠牲になっている。
あるいは、戦争の後遺症に(人知れず)苦しんでいる。

世界では、飢餓が原因で、6秒ごとに一人ずつ、子供が命を落としている。

日本だけや、自分の周囲半径5mだけを視ていては、何も変わりはしない。



私を取り巻く環境は、数十年の内に、徐々に変化を遂げてきた。
私の境遇も、心模様も、大きな変容を迫られている時期だと感じる。
だからこそ、「この数年は、非常に大切にしたい時間だ」という印象がしている。

きっと、私が「何をするか」というよりも、「どう生きるか」なのだろう。