「甘え」と「依存」の人

2011年08月17日 | 仕事 -

これまでも、本当に・・・
いろいろなタイプの人と 仕事をしてきた。

今も、現実に、いろいろなタイプの人と 仕事をしている。


「誰かがやってくれるだろう・・・」
そういう気持ちが、潜在的な部分で はびこっている人は、
何かにつけ、自分の力を(意図的に)試したり、
全力で走ることを 決して したりはしない。
もちろん、周囲の状況をチェックすることもしないので、
空気感が読めず、一人・・・孤立することが少なくない。
しかし、そういう事態でさえも、自覚していないことがある。


そういう人がいると・・・プロジェクトが、滞る。

決定権をもたされる人が、もしそういう人だったとしたら・・・
とても危険な状況である。

そして、それをサポートするのが、周囲の多くの人で、
当の本人は「全く気が付いていないようだ」。
単純で、それでいて繊細で、複雑な感情をもっているので、
それにふたをして、周囲に 甘えているだけだ・・・。
結局は、目の前のことから、逃げているようにも見える。




私は、昨日、ある人に・・・かなりはっきりと明言をした。
人に対する対応と、物事を見る感性について、また基本的な姿勢。
誰もが子供の時に、親や学校で教わってきたことが、
社会人になって10年近くになって実践できないとは・・・・
どういうことだろう。
これまで本人を甘えさせてきた会社の周囲の人間、上司、
あらゆる人の責任でもある。
少しきつい言葉だったかもしれない。
説教臭かったかもしれない。
ただ、要は「伝え方」だと思う。
反発を招かないように伝え、やる気を起こさせるように伝えれば、
本人にはきちんと伝わり、マイナスとして傷になることもない。
実際、昨日の午後からのダッシュは、すごい変貌ぶりだった。
「やれば、できるじゃん・・・」
私は、一人で、心の中でつぶやいた。

誰かに言われないと気がつかない単細胞でも、いくつかの世界を
同時にチェックして、人にも気を遣いながら、仕事することができる。
仮面をかぶっていたとしても、仕事をしている時は・・・
誰もが多少なりとも仮面はかぶるものだ。
今までの姿勢は、どういうことだったの・・・という素朴な疑問が
私の中に芽生えてきたぐらいだ。
仕事相手からも「メールの返信がかえってきた」と、驚きの声が・・・。


最終的には、本人のキャリアとして、良い経験になってくれれば、
何も言うことはない。



風化しない感覚と自覚

2011年08月16日 | 自分 -

一人ぼっちは、さびしい。
切なくなるし、身体が悪くなったりすると心細くなる。
しかし、悪いことばかりでもない。
昔のことや、現在のこと、あらゆる事態に対する感情・感覚が、
とても臨場感ある状態で、自分の中に残っていることである。

誰かが傍にいた時は、そういうものが早く忘れ去られる流れが
目の前にあり、自分の感覚や自覚も、他者の影響で違ったカタチに
なってしまうことが多かった。

一人でいる時間が多いと、それが風化することなく、
いつも味わえる余裕がある。
自分の中で、それを損なうことなく抱きしめていられるようだ。
何故かはわからないが・・・・。
それは、歴然と違うと思う。



今日は、母の命日。
あの時のことは、ずっと忘れずにいる。
看病した日々も、病院の雰囲気も、
疲れ果てて自分に自信を無くしてしまったことさえも・・・
一つ一つが断片的にしっかりと刻み込まれている。
母の寝顔も、最期の髪形も、母から言われた感謝の言葉も・・・。

ずいぶんと長い年月が経った。
だから、こうして、冷静に振り返ることもできるし、
母が残してくれた・・・数々の宝物を自覚することが可能だ。

「彼女は、本当に素敵な人だった・・・」。




   昨夜、「帰ってきたよコール」を、田舎の叔母にした。
   洋裁の達人である叔母から、突然言われたのは・・・
  「お母さんが使っていたクッションを、直してあるよ」。
   晩年の母の休み場所になっていた座椅子クッション!
   なだらかな曲線は、身体を横たえるのに最高だった。
   壊れてしまっていたのを切り張りして、カバーを付け、
   再生してくれたそうだ。
   納屋に埋もれていた廃棄物になりかかっていたものだが、
   どうしても捨てられずにいた。
   しかし、幸運にも、これで、また使うことができる。

   それを聞いたら、条件反射のように、うるっとしてしまった。
   まるで、晩年の母が生きていた環境が蘇ったようで、
   そして、母の遺品が再び息を吹き返したことが嬉しくて・・・。



イギリスでの暴動に思う

2011年08月15日 | 雑感 -

かの地は、歴史的な背景がある。

昔から階級が存在した格差の激しい国、イギリス。

しかし、何か不穏で、不安定な人々の気持ちが、
伝わってくる。
ため込んだものが爆発してしまって・・・
広範囲に波及してしまったようだ。
貧しさと、厳しい日々の暮らしが、彼らをどのような境地に
追い込んでいったのだろう・・・。



日本人は、がまん強い。
東北の人々は、さらにがまん強い。

理解できないことや、理不尽なことがあっても、
全員が感情的になって、暴動を起こすような国民性では
ないことを願いたい。

暴力や略奪からは、建設的なものは産まれてこない!


しかし、昨今の原発関連活動や、失業者デモを見ていると、
そう甘いものではないようにも感じている。
自分の存在意義を確認して、自分の主義主張をするのも、
何ら悪いことではないと思う。
しかし、そこに「暴力」や「略奪」、「殺生」がからむと
話は根本から違ってくる・・・。


ずっとずっと感情面を抑えられ、記憶の教育に縛られ、
人間的な善悪の判断を重要視してこなかった「日本」は、
いつか同じような暴動を起こしそうな若者を産み出しそうだ。
そんな危険性が皆無ではない。
とても心配である。

テレビゲームにあけくれ、親の言うことに従い・・・
自分で自分の人生を構築する勇気もなく、ただ育ってきた世代が、
鬱積した不満や抑圧を、爆発してしまいそうな想像も成立する。
また、時を同じくして、「資本」や「利潤追求」という構造が、
庶民の暮らしに、人知れず大きな影響を与えている。



わたしが、仕事をしている現場や関係者の中には・・・
誰からも好かれたいと「うすら笑い」を表面上で繰り返し、
心の底ではドロドロとしたマグマのようなものを抱いてる人がいる。
しっかりと前を向いて、自己責任で行動をしようとしない人もいる。
そういう人に降りまわされている今・・・私は、切ない気分になり、
とてもやりきれない気持ちが ぬぐえない。
素敵な素養を持っていても、活かしきれていない人――。
周囲の人の言葉や価値観を常に意識しすぎていて、
自分自身では何も決められない人――。
ため込んでいないことを願うのみだ・・・。



蝉の鳴く、今日という日。
人々は、心静かに、先祖や死者の魂を弔う日である。
そういうことも、30歳までの人々にとっては、
あまり意味を持たないことのようである。
インドア派の・・・一部の高学歴の後輩が、そう言った。
わたしは、とても切ない気持ちがして・・・
哀しくなった。
日本人として、簡素にする部分はあってよいと思う。
しかし、残していくべき大切なことは、引き継いでほしいと
思ってしまう部分もある。
それは、行事そのものではなく、畏敬の念だ。


日本人としての震災後の冷静で賢明な対応は、
世界中の人々を驚かせたように、
もともと遺伝子の中に持っている「謙虚な心」や聡明な部分を、
どうか なくさないでほしい。
自分の意見を社会にアッピールすることについては、
異論はないが・・・「暴力」だけは反対だ。
方法論を選び、熟考し、社会に迷惑をかけないで行動するべきだ。

日本人としての国民性と、素敵な魅力は、残してほしい。
なぜならば、日本という国は、とても素晴らしい国だから・・・。
日本人という民族も、親切で、紳士的で、潔く、素敵だ。
心から、そう思う・・・。



私は、あと数日でウェールズに行くということもあるが・・・
現在、イギリス全土で派生した暴動が、一日も早く収まり、
少しでも気分が落ち着くことを心から願う。
前途有望な若者が、何の迷いもなく、人を傷つけたのだとしたら、
とても哀しい現実だ。
それだけ、心が荒れ、低階級層の生活が困窮を極めているという
現実には変わりはないが・・・・
暴力だけが手段ではないだろう。
気持ちは分かるが、やはり共感できる行動ではない。
決して褒められたものではない。
日本人には、そういう短絡的な行動をとってほしくはない・・・。


わたしは、心静かに、今日という日を過ごそう・・・と思いながら、
我が国以上の失業率にあえぐ多くの国々の暮らしを想像しては・・・
世界情勢の現状にも、とても心を痛めている。



平和祈願と「先祖の供養」

2011年08月15日 | 出来事 -

暑い日となった、今年の「終戦記念日」、
戦没者を追悼しながら、「平和を祈念する日」として
今、私は“敬虔な気持ち”を抱いている。

身体は、寝不足か・・・ ストレスか・・・
本調子ではないけれど、それでも汗を拭きながら、 「心」は・・・
誰よりも真摯でいるつもりだ。


和暦のお盆でもある「8月15日」、
私にとっては「祖先の霊を祀る特別な一日」という意識が強い。
実家では、行事と一緒に「阿波踊り」に浮かれるお囃子が鳴り響き、
この時期のお盆祭りとしての賑わいもあることだろう。



どうにか、今日・・・・
自宅で過ごすことができることになって、何よりだ。

昨夜は、くたくたになって帰り、テレビをつけたまま意識がとん挫して、
今朝はだるい身体を持て余した・・・。

こんな体調と状態で、この日を迎えるのは、心地が良いことではない。
しかし、こういう年もあることだろう――と思い返しては、改めて
フラットな気分に浸ろうとしている私。

お寺からは、不在の実家にも、毎年のように御坊様が来てくださって、
門前で気にかけてくださっていることだろう。
父と一緒に、仏壇前で過ごした気分がよみがえる。



こうした日もあってしかるべき・・・・
こういう風習があるからこそ、死者を思い返して、再び弔うことが
生きている私達にはできるのだ。
何か「きっかけ」のようなものがあると、人は「行動」に移りやすい。
そういう意味でも、一年に一度、大切な人々を思い出しては、
その人々との思い出を胸に抱く時間があってもよいように思う。


時間という壮大なものが気分を軽くしてくれるまで、目をそむけず、
自分の切なく哀しい気持ちにも「向き合うべきだ」と、私は思っている。
こういう繰り返しの感情の連鎖は、新しい関係性を奮い起こしてくれる。
人は、一歩一歩、前に進むようになっているからには、可能な限り、
姿勢を正して、前進していくに限る。
私は、こうして生きてきたし、これからもこうして生きていく。


今夜から、明日にかけて、母の命日を迎えるので・・・・
さらなる敬虔な気持ちが、私の中にも芽生えてくるだろう。
いつも、大好きだった「甘いもの」をお供えして、阿波踊りの終焉と
母の命日を過ごすのが例年の日課である。
私の中に、母の記憶が残っている以上、それまではずっとずっと
この行為は繰り返されるだろう。
母への感謝の気持ちと共に・・・。



駆け足で走る「時間」

2011年08月09日 | 出来事 -

自覚がない。

ただ「目の前にある目的」と「責任ある行為」を実行するため、
日々の時間を費やしている。
狭い場所をぐるぐると回っているようなイメージだ。


こういうとき、人は何かをすり減らしているのではないか・・・
そういう不安を感じるときがある。

今のわたしは、それさえも感じられないぐらいのスピードで、
時間が過ぎていっている。


緊張して、萎縮している後輩の前で、堂々と総括的なコメントを
話せるようになった自分と、そういう立場に感謝している。

ただ・・・こんな状態が、いつまでも続くとは思っていない。
それに、自分自身でも、ずっと続けたいと思ってもいない。
早く「フリー」になりたい。
本当の意味でのフリーランスに・・・。


私が、私の喜びを重要視しながら生きていける状況と環境を、
自分の責任が取れる範疇で構築していくことが・・・
何よりも大切だ。
その自覚はある。

今は、とにかく、それだけで充分だろう。

毎日、変化する現状を掌握しながら、かつ、コントロールして、
イニシアティブをとっていく。
また、後輩の見守りと、サポート。


明日から、数日、また連絡がとれない過疎の地へと出かけ、
戻っても、すぐに準備をして、長期の海外出張へ出かけていく。

お盆はないのだ。
両親のお位牌を、我が家に残して出かけなければならない。
心が痛む。


今月は、目の回るようなスケジュールに追いたてられ、
自分のプライベートな生活など皆無である。
切ない現実だと思いつつも、「行動力を前面に出して進む」ことで、
自分の存在をも確認していける。

わたしは、今、こうして生きている・・・。

誰かにも、少なからず、必要とされているようだ。

そういう気持ちが伝わってくるだけで、有り難いと・・・思う。


日本への原爆投下

2011年08月06日 | 雑感 -


ただ、素朴な疑問として・・・

「何故、日本に原爆が投下されたのだろう 」・・・と。

政治的な理由とか、そういう意味ではなく、
もっと抽象的な観点で、因果のような “判然としないこと” を、
ただ、素朴に感じるのだ。

終戦直前の「投下された原子力爆弾」により、
当時の広島に生存していた人の半分近くが、その命を落とし・・・
それは、それは、悲惨な現実が、実際にあった。



そして、今・・・

世間の賛否両論のターゲットとなっている「原発」問題。

天災の津波とは全く違う論点として、人災の原発問題については、
限りなく議論の余地がある。

今回もまた、大きな日本列島を襲った大事件となった・・・。




ウランが もたらした科学の力は、あらゆる方法論を通って、
我々人間界に(様々な)影響を与えている。
この地球にも、破壊的な事実を残すこととなった。

それも、「我がニッポン」に、再びの・・・「正念場」を、
与えてしまった。

「何故、また日本だったのだろう 」。

恨み事ではなく、ただ、ただ、素朴な疑問として・・・
感じてしまう私がいる。
試練と言うならば、試練だし・・・
必然的な結果だと言えば、その通りでもあり、
これからの国民総出の「意見交換」が必要になってくる問題だ。



原爆投下という過去を持つ・・・世界で唯一の国が・・・
また、最高レベルの原発事故を誘発してしまった。

「何故、また日本だったのだろう 」・・・と。




二ヶ月前に、訪問した広島では、ホテルの部屋から、ずっとずっと
原爆ドームを、飽きるほど眺めていた。
寝られなかった私は、夜があけるのを、穏やかな状態で待ちながら、
暖かい飲み物を片手に、ずっと、ずっと、見つめていた原爆ドーム。
三時間のあいだ、椅子に座り、身動きもせず・・・見つめていた。

部屋から見られるように、意図的に、そういうホテルを予約したが、
広島に滞在した三日間に至っては・・・予想通り、ずっと、ずっと、
原爆ドームを、見つめることになってしまった・・・。
おそらく原爆ドームを見ながら、感じたい何かがあったのだと思う。
実際、一つだけ・・・降りてきたような感覚があったのは事実だ。


原爆ドームの周囲には、悲惨な過去を忘れてしまったかのように、
高層ビルが立ち並び・・・ドームだけが異質な空気を出していて、
まるで“浮き出ているかのような空間”だった。
風化したとは思えない現実が、原爆ドームには残っているのに、
歴然とした周りの環境との不釣り合いは、違和感さえも感じる。
しかし、それだけの落差ある風景があるからこそ・・・・
原爆ドームが顕著に存在感を誇示しているように思ったのだろうか。



どちらにしても、今の日本は・・・山も海も、川も、空気も・・・・
昔のような清らかな美しさをなくしてしまったのは、事実である。
私たちは、また、ゼロの地点から、いや・・・ゼロ以前の地点から
はじめなくてはならないのだ。



蜂蜜檸檬のお湯割り

2011年08月06日 | 食事 -

最近のマイブーム。

寝起きの「白湯」は変わらずだが・・・
少し量が減り、というか格段に減り、
とってかわったのが、「蜂蜜檸檬のお湯割り」だ。

レモンを輪切りにして、蜂蜜につけておく。
生のレモン輪切りをカップに一枚。
蜂蜜に漬け込んだレモンをカップに一枚。
あとは、お湯をそそぐだけ・・・。

二杯目は、はちみつを追加に入れて、
お湯をそそぐだけ・・・。

三杯目は、レモンの果肉をくだいて、
はちみつをたして、お湯をそそぐだけ・・・。


元気のでる「はちみつ」と「レモン」が、
一緒に摂取できるということでは、何よりだ。

昨夜も、深夜タクシー帰り!
来週も、かなり忙しい。
グデッとした身体と頭をしめる意味もあり、
かわいい、プチ・マイブーム。
夏バテ対策の一つ。



「鎮魂」の八月

2011年08月04日 | 出来事 -

私個人が「サッカー」というものに、より深く接したのは、
ワールドカップ・フランス杯の時だった。
その次が、日韓杯の時だったと思う。

松田直樹氏の訃報は、あまりにも突然で、あまりにも衝撃的で、
なでしこジャパンの国民栄誉賞と(同時ぐらいに)聞いただけに、
対照的すぎて、ショックが大きかった。

若すぎる。

それに、昨年からの流れを考えると、
あまりにも波乱に満ちた幕切れだ。

私にとっての松田選手は、トルシエ・ジャパンの「フラット3」に
象徴される存在だったように思う。
皆に「フラット3って何?」と聞きながら、試合を観ていたのを
思い出すからだろう。
情熱にあふれ、男気にあふれ、サッカーが大好きだっただけに、
まず「何故に彼が・・・」という印象がする。
当初、熱中症という情報もあったが、そうとは思えない。
納得ができずに、父の主治医だった医師に、単刀直入に聞いたところ、
「まさに、ごく稀なことで・・・あれは宿命としか言いようがない」
彼は、一人の医者の立場として、そう言った。

そうか・・・。 宿命だったのか・・・。


人の生死の境目は、本当に微妙で、私には・・・理解不能だ。

ミスターマリノスと呼ばれた男さえもが、30歳を過ぎたら、
容赦なく切り捨てられていくプロの世界――。

それにしても、ドラマチックすぎる松田選手の人生!
複雑だ・・・。




今月は、お盆もあるが・・・、原爆慰霊日や、母をはじめ、
私を取り巻いていた多くの「愛すべき人たち」が、突然に逝った・・・
そういう「月」でもある。

8月の第一週目だけでも「数人の方の墓前に参りたい」と思うぐらい、
私にとっては大切な「命日」が続く。
実際、今日:8月4日も、わが師の命日である。

しかし、今月は不規則で忙しく、思うようにならないのが、もどかしい。

心で手を合わせ、心で墓前をイメージして、弔いの念を送る・・・。
何年過ぎても、八月は落ち着きがないように感じるのは、こういう
理由があるからーかもしれない。
過去に縛られるのは嫌なのに、実際はこうして囚われてもいる。
しかし、忘れたくない人ばかりのため、私の「鎮魂の気持ち」が、
尋常ではないし・・・、結局は、せわしなく、めぐりめぐる八月である。

お世話になった師や、交友した人や、私を心から愛してくれた人や・・・
決して忘れたくない「大事な人」ばかりの命日だ。
生涯、大切にしたい思い出ばかりである。



人々が安全に暮らせる国

2011年08月04日 | 社会 -


かつて ・・・ この国は、「安全な国だ」と言われていた。

治安もよく、人々は親切で、食べ物は美味しくて、
どの国よりも暮らしやすいイメージの時代があった。
ところが、どうだろう。
今の「日本」という国に対する世界が感じるイメージは、
あまりにも広範囲に及ぶもので、非常に複雑なものだ。
情報が乏しい世界中の人々には、一言で表することは難しいだろうし、
感情面に至っては(おそらく)極端な意見があるだろうとは思う。

特に、日本の国民性は評価されているのに、政治界については
呆れられている状態で、将来の行く末を案じられている。

国民一人一人にいたっては、よりシリアスな状態だ。
なぜ、政治的リーダーがいないのか。
なぜ、東北の復興は進展しないのか。
なぜ、被災者は厳しい生活を続けなければならないのか。



困窮を極めた生活・環境から「復活」を遂げた日本人は、
明らかに“素晴らしい足跡”を 残してきた。
戦後からの復旧と躍進は、世界中に存在感をアッピールしたし、
経済や科学の世界でも、一目置かれる国だった。
それなのに、今は・・・完全に「迷い道」に入り込んだようだ。

度重なる電力会社による不穏なニュース。
今回の保安院のやらせ問題で、原子力行政への信頼は失墜した。

都内では、「脱原発」のプラカードが躍っている。
時には身動きができないぐらいの人があふれて、デモを繰り広げ、
それぞれの想いで、脱原発活動をしている人も少なくはない。


「安全だ」と言い続けてきた一部の電力会社の責任者をはじめ、
多くの関係者が画策してきた “世界的な原発ネットワーク” は、
これから、どこへ向かうのだろうか。
「安全だ」と言い続けてきた責任は、誰がとるのだろう。
これからの展望を、どのように思い描いているのだろう。



だるい身体を持たれかけさせる「確固たる信頼感」もないまま・・・
今日もまた、放射能に汚染された「我が愛する国、ニッポン」で、
生きていかなければならない現実。
この国が「安全」という神話のようなものを、再び手に入れることが
できるとしたら、それは、いったい「いつのことなのだろう」 ・・・と。


私は、なでしこジャパンのごとく、皆が「最後まで諦めない姿勢」で、
この大きな問題に取り組んでいけることを、ただ祈るのみである。




今日のために生きる!

2011年08月02日 | 言葉 -

「今日一生」

明日のためにではなく、今日のために生きる。

悔いを残さず、ただ一人で生きていくことが、人の道。 ・・・私の道。







「今日一生」

いつも心がけていることだが・・・・
何かがあると、常に身につまされるように感じることでもある。

実践することは難しいことだと思うし、完璧を求めるのも窮屈だ。
自分が欲するままに、なれど・・・「悔いを残さずに生きること」を
まずは優先的に考えていきたい。

この心が燃えて、この身が欲する「何か」を、追い求めながら・・・。



今の時代は、「自分自身のあり方を維持すること」が何よりも大切で、
それと同時に「自分の意思と尊厳を自覚しつつ生きていくこと」も必要だ。


正直なところ、私は、「自分の居場所を探している」のだと思う。
昨年春から、こうした問いを密かに胸に抱き、時間を過ごしてきたが、
はっきりと自覚し、姿勢を正していくような気運が(徐々に)満ちてきた。

形はおぼろげでも、もう少ししたら掴めそうな「何か」を求めて、
今しばらく、放浪していく私の気持ち・・・。



目の前の仕事や、責任ある事柄に見えなくなっているものがあるが・・・
だからこそ、より 「丁寧に、自分を見つめていくこと」 が 必要なのだろう。



円高は、まだ続く・・・

2011年08月01日 | 社会 -

アメリカの国債の債務不履行(デフォルト)回避の合意で、
注目されていた「8月2日」が、事もなく過ぎ去ることになった。

しかし、これからも、まだ「円高」が続くと予想されている。

昔、1ドルが235円とか、180円とかの時代を知っている私は、
現在の76円というのが信じられない。



自分が観光客として、海外旅行をするというイメージよりも、
借金まみれの日本の経済状況と、海外との交流が絶えない日本企業の
行く末を慮ることの方が、(最近は)多くなったように思う。

円高が続くことによるメリットとデメリットが、同時に頭をよぎる。
けれども、平衡感覚を壊すほどの「円高」は、問題だと感じる。



黄金を極めたアメリカの経済事情は、借金まみれの日本経済の姿と
重なる部分が多くなった。
財政赤字、立て直しができない経済問題をかかえた「ニッポン」。

私たちが、安心して暮らせる未来を描いても、すでに積み重なった
借金は、すぐにクリアできるものではない額である。
日本の借金は、毎年増え続けて、今年度には800兆円を突破したようだ。
私たちが負担する借金の額は、国民一人あたり687万円になるのだが、
本当に現実味のない額である。

来週の会議では、こういう話題がまた、机上にあがることになるだろう。
そういう話題に付き合い、その状況を共有するだけで、きっとストレスが
たまりそうだ・・・と、しみじみと感じる。

海外との取引が日常茶飯事で、外資が影響する企業の方々にとってみれば、
すごく頭の痛い現状を抱えているのではないか・・・と思う。