「韓国料理」の知名度

2010年08月31日 | 食事 -

赤坂は、本当に韓国料理店が多い。

今日も、赤坂だったので、前から聞いていた「冷麺の美味しいという噂の店」に行き、
「カルビランチ」+「冷麺の小さいやつ」をオーダーした。

        ※私は、冷麺と、カルビクッパと、石焼ビビンバが、好きなのだ。


カルビはたいしたこと無かったが、冷麺はやっぱり美味しかった。
噂どおりである。
自家製で麺を打っているらしく、スープも嫌味が無く、とてもさっぱりとしている。


私が、赤坂で食べていた頃と違って(その店には)サラダバーがサービスになっていて、
サラダとご飯は“食べ放題”だ。
わかめスープに、そして、韓国のりが五枚付いていた。
カルビランチも、昔と違って、確実にサービスは向上している。
ただ、肉の質は、昔の方が良かったなぁ。



冷麺は、本当に自家製麺らしい顔つきで、お味も申し分なし!
「こりゃ、よろしい~~」と、思わず声をあげたくなったスープと、
細く美しい麺と、さりげない具材のバランスが・・・最高だった。

店も、おしゃれで、高級感があふれていて、一人で入っても恥ずかしくないし、
商談にも使えそうな感じでもあり、とても好感が持てた。


口コミのすごさは、やはり“こういうことなのだ”と、しみじみ感じる。
今や、韓国料理は、日本人にとってもメジャーとなったようだ。
客層も幅広く、とてもリーズナブルで、人気があるような印象を持った。

たった一つ、その店は、食後のコーヒーは、かなり「まずかった」。(至極、残念~!)



せっかちな人の行動

2010年08月30日 | 仕事 -

プロジェクトのメンバーに、「せっかちな人」が一人いるだけで・・・
ほんの少しだけ雰囲気が変わる。
気忙しく、なんとなく気を遣いながら仕事をしなければならなくなる。
だから、とても「疲れる」。

食事時間は、人の三分の一の短時間で、どか喰いをして、自分の容器をさっさと
かたずけてしまうので、周囲の人が落ち着いて食事ができない気分になってくる。
早く食べて、次の作業にかからなければならない的な・・・「切迫観念」が芽生える。
せっかちな人は、いつも“健康的な食事時間”を保持しようとしない。


また、せっかちな人は、落ち着きがない。
落ち着きがないと・・・・端からは“自信がない”ように見えてしまうときがある。
集中していれば、何も問題はないが・・・時々、パニックまではいかないまでも、
タイミングをずらしてしまったりすることも多く、作業時間を余計につぶしてしまう。
それは、やはり何かの精神的なプレッシャーがあるとも言えなくはない。

歯を食いしばって、一生懸命になっている姿は、周囲を緊張させるケースもある。
余裕が無いというか、力が入りすぎているというか・・・・
どちらにしても、「せっかち」という性質が、根底の性格と連動して、少しばかりの
影響をスタッフメンバーに与えてしまうのだ。
たとえ(かなり)経験を積んだ人も、それは変わらないようで・・・・


やはり、「せっかちさん」は、いつも「せっかちな行動」を繰り返している。
一番顕著なのは、人の話を最後まで聴かず、自分の意見を(先走って)言ったりする。
または、話の途中で、相手を肯定したり、否定したり、とにかく「忙しい」(笑)。
人の話は、基本的に最後まで聴いた方が良いように思う。
落語ではないが、話には背景があったり、裏事情があったり、どんでん返しもあるから、
短絡的な発言は、人を傷つけることもある。
しかし、「せっかちさん」は、自分のそういう傾向に気がついていない。
スタッフメンバーは「まただ」と感じるが、常に指摘はせず、先輩だったら強くも言えず、
なかなか厳しい状況に なることもある。
私は、そういうとき、いつも笑いに変換するが、厳しい雰囲気(?)を通らないと
いけないときもある。 
実際、粘着型の「せっかちさん」には、何度も突っ込まれるし・・・(笑)。
重箱のスミをつつくように反撃され・・・うとまれることさえあるのだから。

人間は、誰も・・・自分を正当化しようとする気持ちが働くので、部下の人からすれば、
なかなか指摘することは厳しいかもしれない・・・。

しかし、正直に言ってしまうと、風通しの悪い現場ではある。




統計的なことを言ってしまえば・・・・(決して悪口ではないが)・・・
せっかちな人は、生活習慣病に、人よりも早くなってしまっていることが多い。
糖尿病や、脂肪肝など、「せっかちさん」ならではの数値があるようにも思う。
コレステロール値や、乳酸値も、高そうだ。
食事同様に、飲酒の速度も速く、「ゆっくりと味わう」というよりも、「喰らう」や
「あびるように飲む」というのが、せっかちさんのスタイルのような印象がする。
脳に満腹感が伝達する前に、暴飲暴食危険信号が 点ってしまうのだろう。




心は、常に「ゆったりと穏やかな状態で、自信をもって、冷静に対処していかないと」、
たとえせっかちではなくても、「せっかちさん」と同じような行動をとってしまうだろう。

結果オーライであれば、問題はない。
しかし、周囲の人に対する影響に気がつかない限り、自分にとってはマイナスになる。
性格を直す必要はないけれど、対応の仕方を熟考して、より良いスタイルを構築すると
より周囲からの「信頼」を得られるように思う。

仕事の現場は、常に緊張感に満ちている。
その緊張感に打ち勝ってこそ、新しい結果と、充足感が得られるはずである。



「世界市民」

2010年08月29日 | 言葉 -


   われはアテネ人にあらず、ギリシア人にあらずして 世界市民なり。


           < by ソクラテス (古代ギリシャの哲学者) >




ソクラテスと言えば、「無知の知」で有名。
知っていることと、知らないことについて、深く探求していた彼の言葉は、
死後の世界についても言及しており、彼の発言は常に注目を集めていた。
私にとっては、興味深い発言がたくさんある。
しかし、残念なことに、彼は自分で書籍を一切残していなかったために、
弟子のプラトンなどによっての対話集(何人かによって書かれた本)によって、
ソクラテスの人物像をイメージしていくのみである。

時代や国籍が違っても・・・、ものすごく長い時間が経過していても・・・・、
人間の「心理」や「哲学」などについては、基本的に「変わることのない事柄」が
垣間見えるために、誰もに共通する「人間」や「生き方」を考えさせられることが
多々あるのが 不思議なことである。
それは、とても純粋でありながらも、一本の“芯が通っている”ような印象がする。
シンプルであり、同時に、奥深い世界観である。


高齢者不明問題

2010年08月28日 | 社会 -

世の中のニュースで、非常に心が寂しくなるものがある。
悲惨で、壮絶な理解不能な無差別殺人などと違って、人間本来の「あり方」について
考えさせられるような内容である。 
それが、「高齢者所在不明問題」だ。



現代は、核家族が多くなって、「つながり感」や「絆」のようなものが希薄になってきた。
それにしても、自分の家族のことである。

いろいろな事情や、理由があるのだと(勝手に)推測しているが・・・・
家族(高齢者)の生死について、わからない・・・・ということは、本当に切ない現実だ。
年金詐欺などで理由が明確であれば、(たとえ違法でも)理解ができるものではあるが、
何故(家族の生存が)数十年にわたって不明なのに“何の対応もしないのだろうか”。
国民としての義務的な責任感という観点からも、私には理解ができない。
自分の家族に対して、あまりにも無関心すぎるのではないだろうか。




さきごろ、高齢者所在不明問題をめぐって、江戸時代生まれの人が生存状態にあることが、
全国:各地で明らかになっている。 
三重県では、163歳の男性が(戸籍上では)生存していることになっているし・・・
大阪では、152歳の人が存命していることになっているらしい。
100歳以上の高齢者にいたっては、ものすごい人数になったと聞く。


市町村団体の怠慢か、それとも機械処理に頼りきった弊害か・・・どちらにしても、
あまりにも不可思議な現象だというしかない。
国民調査なるものが、おこなわれているというのに・・・どうして、このような現象が、
かくして全国で発生しているのか解らない。

何か類似事件が起こって、大きな問題にならないと、正式に調査をしない市町村の姿勢も
あほらしく感じられて、「ちゃんと仕事をしろ!」と叱りたくなってしまう。
安全で、経済的にも安定している立場にいる公務員こそ、日頃の仕事ぶりについて、
もっと緊張感と節度をもって対処してほしいものである。
私たちの税金は、理解不能な怠慢を擁護(ようご)するために、使用されてほしくない。


実際、黒船来航の時代の人が生きているとしたら、是非とも、拝顔したいものである。


「赤坂」と時代の変遷

2010年08月27日 | 社会 -


もともと「赤坂」にあった会社で働いたのが、私の正社員としてのスタートだった。
すごい前のことで、まさに “キャリアの出発点” だ。

だから、「赤坂」は、私にとっては、非常に懐かしい街である。
私が毎日出向いていた頃の赤坂は、大人の街で、高級感が匂ってくる雰囲気があった。
政治家が談合をしていた黒塀の高級料亭や日本料理店が、いくつも並び・・・・
裏通りには、おしゃれな年代ものの(大人向けの)バーがあったりもした。

また、昨今ほど韓国という国や料理・ドラマなどが、まだまだ身近ではなかった頃から、
赤坂には “見事な「コーリャン通り」” というものが(すでに)存在していて、
多くの韓国料理店や韓国食材を売る店が ハングル文字を前面に押し出していた。
残業帰りのタクシー内(深夜宅送)では、(発音がよく)きちんとした日本語を話す私に、
  「日本語、上手だね」とか、
  「なぁんだ、日本人なの?」とか、
頻繁に声をかけられるぐらい、韓国人のホステスさんと間違えられていた(笑)。
ランチは焼肉カルビランチによく行ったし、石焼ビビンバや冷麺を初めて食べたのも赤坂で
(当時の私にとっては)衝撃的な経験だった。
赤坂は、そういう意味では、韓国と私を結びつけた街だとも言える。



今日は、仕事で「赤坂」にカンズメ状態だった。
すべてが終わった後に、駅周辺をぶらぶらと歩いたのだが・・・・
懐かしい店や、あったはずのコンビニがなくなっていたりした。
かなり大きく変わってしまったものだ。
当時、主張していたビルが跡形も無くなり、公園のような広場になっていたり、
行列のできていた店があった場所は、「空店舗:募集!」の張り紙が貼られていた。
駅前のTBSをはじめとする たくさんの高層ビルが 栄華を誇っているかのように、
天空にそびえ立っていたが、(当然のことながら)建設されたのは、まだ新しい。
細い道を入っていくと、変わらない薄暗いバーの看板や、有名な蕎麦屋が残っていたが、
ほとんどの町並みにある店は、昔のたたずまいを変え、オーナーが変わったりして、
雰囲気は(現代風に)変わってしまっている。


昨今は、「赤坂の韓国料理店」だけでも、美味しい店や、有名な店の変遷が甚だしい。
たとえ縁が無くても、時々は行って、食事をしたり、前の会社のメンバーと会ったりして
韓国料理は(恋しくなると)わざわざ赤坂へ行って、頻繁に食べていた。 
(だから、赤坂の情報は、たえず収集していたようなものだった)

どこの店も、どこの街も、そうなんだろうけれども・・・・
回転はとても速いようである。



高層ビルは、風の通る道をさえぎり・・・・・どんどんアスファルトの照り返しが、
熱くて「たまらない」という環境を、つくり出している。

赤坂は、非常に魅力的な街だと思うが、今の私には「息抜き」をする場所が無い。
そして、思い出に浸る場所も ほとんど なくなってしまった。
日枝神社はあるが、キャピトル東急ホテルが なくなってしまったように・・・・
やはり、何か “物寂しい印象” がしてしまったのは、否めない。

料亭が続いていた赤坂の街は、今やパチンコ店やチェーンのファーストフード店が
建ち並ぶようになり、昔のイメージとは程遠い感じである。

過ぎてしまった「果てしない年月」が、このような気持ちを呼び起こしてしまうのだ。
やっぱり、齢をとるはずだ・・・ネ。


「挨拶」は礼儀!

2010年08月26日 | 仕事 -

きちんとした挨拶をしない代表(経営者)がいる会社では、社員の教育が滞って、
心のこもった挨拶ができない正社員が多いように 思う。

             ※あくまでも 私個人が見てきた 統計的な印象である。

子供は、親の背中を見て育つように・・・・
社員一人一人は、(自然と)経営者の背中を見ているし、常に意識している。
大学を卒業して、たいした社会経験もしないで入社した社員は、そのカラーやスタイルに
完全に毒され、それが“通例のことだ”と 勘違いをしてしまう人もいる。
要するに、その人の世界は、自分の会社の経験だけなので、仕方がないと言ってしまえば、
仕方がないのだ。 当然の流れである。
決して悪口ではないが、大海を知らない○○の中のカワズ・・・のようなものである。



挨拶は、社会の中で、人間関係を円滑にするために必要な「礼儀」であり、
基本的なマナーでもある。
時として、その人の品格や礼節をはかる指針にもなるし・・・
時として、全く儀礼的な慣習として 認識されることもある。
しかし、やはり、人と人が関わる接点では、必ず必要な「心ある“やりとり”」として、
挨拶は 常に“大切なものだ”と感じている人が多いのは 事実である。
にもかかわらず、それをしない会社がある。
実際、あるのだ。

挨拶は、目と目をあわせて、言葉や動作であらわすもので・・・・
たとえ儀礼的であっても、そこから雑談がうまれたり、関係が親密になることもあるのだ。
だから、私自身は、相手の心を和らげる効果がある「大切な礼儀の一つだ」と考えている。



会社の中で、「ダメな会社」を知る幾つかの項目(チェックポイント)があるが・・・
その一つに「挨拶」はいつも含まれている。

しかし、実際は、「挨拶をしない代表」や、「挨拶ができない社員」が、たくさんいる。
完全なる大人なのに・・・・ いい年をした年長者であっても・・・・そうなのだ。
「おはよう」「おつかれ~」――そういう代表や上司の「簡単な言葉がけ」だけでも、
会社内の雰囲気と、人間関係は大きく変わっていくものなのに・・・・。
しないのか、できないのかは・・・解らないが、私はそういうケースを、頻繁に経験する。
だから、本当に切なくなって、とても残念に思うのだ。

親に、ちゃんとした「躾(しつけ)」をしてもらわなかったのだろうか。
学校では、教えてもらわなかったのだろうか。



私にとっては、「ごくごくフツーのことだ」と思っていることが、日常生活において、
「そうではない」という事実に遭遇すると、(当然ながら)非常に疑問に感じてしまう。

これは、個々の固定観念や価値観の問題ではなく、社会全体の風習や慣習にもからみ、
道徳観念にも影響する“重要な問題ではないか”と思ってしまうぐらいだ。
なぜならば・・・・「挨拶」というものは・・・・
相手に対して「心を配る(気遣い)」こともできるし、「礼儀をつくす」ことにもなるし、
人間が生きていく「作法を教える」ということにおいても、関係してくる事例だと思う。
だから、つい相手や周囲の人の態度に、私自身が反応してしまうのだろう。
実際、挨拶をされないと、(嫌われているのかと)多少は不安な気持ちが芽生えたり、
私が挨拶しても返礼してもらえないと(やっぱり)不快だし、相手の品格を疑ってしまう。



何故、このように、風通しの悪い社会になってしまったのだろうか。
人情が薄く、“世知辛い”とも 思う。
そんなことを、挨拶をしない代表の顔を見るたびに、強く感じる私がいる・・・。



ラニーニャ現象

2010年08月24日 | 環境 -

まだ・・・「暑い!」。

東京のど真中 ⇒ 大都会の体感温度は、きっと物凄い数値なのだと想像する。

ビル街を通るとき、吐き出されているエアコンの熱風は、より気分を萎えさせる。

夜中でもクーラーをつけないと寝られない状態なんて、本当に異例のことである。
店を出た後の「夜の大都会の気温」は、尋常ではない。
もぁ~っとした“暑苦しい空気”に包まれて、コンビニに走りこみたくなってしまう。



この夏の記録的な猛暑は、家電やビールなどの業界には「特需」をもたらしたという。
過日、「御礼」でお送りしたビール券も、今年は大活躍で、食品にも使うことができるが、
純粋に「ビールに変えて使っています」という返信が届いたところだった。

しかし、この猛暑の連続は、果物に関しては、全国的に実りが悪くなったらしい。
そして、人間や家畜は、体力が落ちて、気力も落ちて、弱る一方である。
今年は、世界的に異常気象を起こすとされる「ラニーニャ現象」が発生した影響で、
暑さは まだ しばらく続きそうな気配だ。

  ※「ラニーニャ現象」
    中部及び東部赤道太平洋での海面水温が平年より低くなる現象のことを、
    ラニーニャ現象という。
    エルニーニョとは全く逆の温度偏差パターンとなる。



28度のクーラー設定をした上で、扇風機を回した状態が「快適だぁ」と思えるなんて、
これまで経験したことがなかったことである。
7月は、本当に辛かったし、8月もまだ厳しい・・・。
精神的なストレスがあったことで、私の気分(状況)は加速するように落ちていった。


          


今年の夏は、最高気温が観測史上1位を記録した地点は、北海道や東北、関東、山陰、
四国などの計47地点に上ったと言われている。




私たちは、この地球の自然現象に影響を受けながら暮らしている。
同時に、その自然からは、「多大なる恩恵」をいただき、それを活用しながら、
日常の生活がなりたっているのである。

ただ「暑い」と嘆くのであれば・・・・
何故暑いのか、何故毎年猛暑が続くのかを、一人ひとりが真摯に考えるべき時期が、
もう来ているのかもしれない。
それだけ、切実で、異常な状況であるという「地球からのメッセージ」を、ただ・・・
素直に受け止めたいと・・・私は、思う。
その先にあるのは、「では、どうするか」・・・・。
私たちに、「何ができるのだろうか」ということである。


男の「嫉妬心」

2010年08月23日 | 仕事 -

よくわからない男性という生物の特性。

男女間の愛情を基盤とした「嫉妬心」ではなく、
ある意味では「社会の中での立場」を重要視して、
自分を誇示するために、突発的に発生する激情のようなもの・・・・。




一般的に言えることであるが・・・・
企業の中や、大きな集団の中では、自ずと序列が出来上がっていることが多い。
そういう時に、そのピラミッドの中盤や上段、そして、頂点にいる人々の反応は、
結局「人間性」が反映されることになる。

度量が大きい・・・、包容力がある・・・、リーダーシップがある・・・、
人々の目標とされ、常に“輪”の中心にいる人には、顕著な特徴があるようである。
その特徴は、常に一長一短あっても、やはり想定内の発想ではない“特別な魅力”が
備わっていることが多いように感じる。




その反対に、典型的なマイナス点として挙げられるのが、「嫉妬心」である。
他の言葉で表せば、たくさんの表現ができるけれども、あまり心地の良い言葉ではない。
「ねたみ」「ひがみ」「そねみ」「やきもち」「やっかみ」「劣等感」・・・など。

しかし、男性には、女性にはない特別の反応があるようである。
特に、男同士の場合にみられる“不思議な空気感”を、時々感じることがあるのだ。
相互にみられる心の奥底に隠された「感情のやりとり」のことである。
あまり、建設的ではないが・・・・その反応のおかげで、その人の立場やプライドは、
守られていることがあるのだろう。
微妙に交錯する人と人とのやり取りが、なぜか真夏(猛暑)なのに、ヒヤッとした感覚を、
植えつけてしまうことも しばしばである。

立場のある人や、背負っているものが多い人ほど、屈折した「嫉妬心」に走る傾向が強い。
また、上記と全く反対のケースだが・・・立場のない人で“頑張りすぎている人”にも、
同様のような傾向が見られることもある。 
その先にあるのは、やるせない無常感と、燃えつき症候群に似た複雑な感情だ。
とにかく、序列に作用して、神経質になりすぎるのも、男性に多い反応だと思う。



私は、最近・・・・「執着心」ということを良く考える。
頻繁に感じるし、自分の中でも“大きな位置を占めている”ことを認識しながら・・・
日々を過ごしている。
この執着心は、「嫉妬心」と、いつもお友だちのように、お手手をつないで闊歩している。

何が目的で、どういう状態によって帰着できるのか・・・
人それぞれの価値観と、生き様に反映されている。




今日も、大人としての対応をしながら、お互いの駆け引きの後に、終結したトラブル!
結局は、「損得を一番に考えた人が、さらっと謝罪をして、ことを収めた」。
そうすることに抵抗感のない人だとは思っていたが・・・・・
裏では、うまく立ち回っていることが、あからさまに感じとることができたために、
私には快適な会合であるとは思えなかった。
誠実な態度には、思えない場面もあったりしたのも事実である。
しかし、結局・・・前進するためには、私も、相手も、歩み寄る必要があった。

そして、仕事上の立場としては、納得させられるべきレベルのものであったことが、
何よりも良かったことだと思っている。



人は・・・・「選択すること」の連続だ。
毎日、何かを選択しながら、生きているのかもしれない。

たとえば、どのような感情の対応にも、“臆することなく対処できる”としたら、
自分自身も(少しは)度量が大きくなったと いえるのだろうか・・・・。



血をサラサラに!

2010年08月21日 | 食事 -

たまねぎを、薄くスライス。

ビンにつめて、蜂蜜と酢を投入!

しばらくして、たまねぎがしなったところで、体内に摂取する。

血はサラサラ。 毎日、一すくいずつ 食べよう。

たまねぎを水でさらさないのが、ポイントなり!

冷蔵庫の中では、1週間ぐらいは保存可能だが、できればそれまでに食そう~ネ!


私は、昨今、暑さにあうため、「らっきょ」も摂取中。 これも、血をサラサラに!



やっちまった!

2010年08月19日 | 出来事 -

昨夜のことを、覚えていない・・・。

暑くて、目が覚めると、テレビとエアコンがついていて、スポーツニュースが流れ、
頭が混乱した状態だった。

 「あぁ、また、やっちまったぜ~!」

案の定、鼻水が止らず・・・何十回もテイッシュを箱から、引っ張り出す。
白い透明のミズバナが止らない。

 「風邪になってはいかん!」

とりあえず、初期症状の薬(漢方の鼻水止め)を服用。
今、その効果を待ちながら、夜明けすぐの空気と、虫の鳴き声を聞いているところだ。



ちょっとばかりお仕事に熱を入れすぎると、帰宅してからの時間が魔のように過ぎて、
部屋着に着替えてからは・・・心と身体が「やりたい放題」状態になってしまう。
昨日はランチの時間までが、他人様の愚痴や体制批判の話だったので、疲れたのだろう。

昨夜は、テレビを付けた記憶はあるが、いつ頃から寝てしまったのかが覚えていない。
あぁ~、このようにして、不均衡なサイクルは続いていくのだ。



しかし、世の中は、明るくなると・・・・
自然の生き物たちは、早速とばかりに活動をはじめる。
鳥も、鳴き始めて、朝食の準備にかかったようだ。
近くの家で、人間様もシャッターをあげる音がする。

子供の多い家のお母さんは早起きで、気遣いのない大きな音をさせるのがタマにキズ!
寝ている人も多いのだけれど、そういう配慮の無いシャッター音は、時々私を目覚めさせ、
また二度寝の状態に入るのが、いつもの日課だけれど・・・・
今朝は、あまりにも昨夜の寝る時間が早かったせいか、二度寝の欲求がわいてこない。

だから、こうして、戒めの一言を書いている・・・。



Michael Jackson

2010年08月17日 | 人物 -

なんとなく思い出してしまう人・・・・・・マイケル・ジャクソン。


マイケルではないと似合わないような個性的な衣装は、彼の一貫した好みだった。
彼の衣装に、何らかの意味合いを求めても、きっと不確実な返事がかえってくるかも―。
何故なら、いつも自分で決めて、それも彼自身の感覚的なモノを重要視していたからだ。

白い靴下は、ず~っと履き続けたし、くるぶしまでの丈のズボンは(ダンスをする時の)
身体のラインを協調するための効果をねらっていたと言う。 そのための白靴下だった。

病気のため肌が白くなっていくにつれて、目立つ斑点がある右手にはいつも手袋をはめ、
ドーランで(全身に残る)まだらな色合いを消して、ステージに立っていた。
最初は黒いドーランで、そして、徐々に白いドーランを使うようになっていったという。




■1988年のグラミー賞でのステージ。
 「The Way You Make Me Feel 」& 「Man In The Mirror」




私は、寂しくなった時、上記の1988年のグラミー賞のステージを観ると・・・・
少しばかりの感傷を伴いながらも、前を向いていく「勇気」と「活力」をもらえる。
特に、このステージでは、後半部分あたりの「Man In The Mirror」からラストまでの
盛り上げ方が、たまらない。
まるで、今の自分を省みるのを促すように、彼がシャウトする言葉が胸に響いてくる。


一人ひとりが「変われるとしたら」・・・・
もしも、一人一人が、自覚を持ちながら、変わっていったとしたら・・・・
本当に「世界は変わるのかもしれない」と、マジに思えてくるのが・・・すごい!

一人ひとりが「向上心を持って過ごしたら」・・・・
もしも、一人一人が、自覚を持ちながら、変わっていったとしたら・・・・
良い天命がめぐってきて、皆が暮らしやすくなるかもしれないと、心から思える。

本当に、もしも、そうなったとしたら・・・・。 
そういうことが、実現したとしたら・・・・。
気持ちの良い「ピースフルな世界」のイメージが、漠然と、身体中を駆け巡っていく。

そして、憧れと一緒に、・・・この私にも「願い」や「希望」が、生まれてくるのだ。




この時期を過ぎて、程なくすると・・・・右の腕にラインを付けはじめる。
それは、平和への願いと、世界中の子供達の幸せを願っての「サイン」だった。
彼は、その願いのサインを、亡くなるときまで強調して、人前に立っていた。




そして、マイケル・ジャクソン と ライオネル・リッチー の二人が率先して、
実現したプロジェクト!  
忘れられないのが、この曲。 ~ WE ARE THE WORLD ~    
当時の USA を象徴する すばらしいメンバーが集い、熱気あふれる仕上がりになった。
(みんな、すごく若くて、観ていると、顔がほころんでくる)
ドキュメンタリーVideo にもあるように、夜を徹して録音された世紀の名曲だ。

マイケルは、この歌詞をネバーランドにある大木に登り、枝に寝そべって書いたという。

■WE ARE THE WORLD   / USA for AFRICA  
  written by Michael Jackson and Lionel Richie



イニシアティブ

2010年08月17日 | 仕事 -

私のプロジェクトが、次回も決定した。
現行のものの続行である。
しかし、会社の誰一人として、根幹の意図的なものを操作してほしくない。
そこを認められての外部スポンサーからの「OKサイン」だからだ。


社内では、能力もなく、「正社員だから」という理由だけで、成功報酬と安易なる立場を
勝ち得ている人々が、安穏と働いている。

私は、たった一人で、何でもこなす「一匹狼」のようなメンバーだ。
(実際、過剰労働を避けるためには、これで充分だ)


抵抗感はあるが、仕方がない。 

トップの決定ならば、あるいは、会社の決定ならば、従うしかないし・・・
自分が気に入らなければ(いつものように)会社を変えればよいだけである。
裏をかえせば、そういう弱い労働形態で働いているというのが「私の立ち位置」だ。


私は、弱い立場だけれども・・・・
自分の企画によるプロジェクトは、基本的に「自分でイニシアティブをとりたい」。
その自負だけは失うべきではない。

フリーランスだからこそ、こだわりたいプライドがある。




去年の頭、私の企画が決定して、数千万円のプロジェクトに発展していったが、
何もしていない正社員がイニシアティブをとることが分った途端、私は(現在の)会社に
真っ向から自分の意見を進言して、抗議をした。
会社をやめることも辞さない覚悟で、「自分の企画ができないなら、お金はいらない。
勝手にすればよい。私は、そういう立場で、この会社と関わっているわけではない!」
企画の「のっとり」(私の立場からは、“盗み”だ)である。
それが企業体という組織であれば、許されるのか! 
正社員であれば、何をやってもいいというのか!

そんな不遜で、不誠実なやり方には、モチベーションなんて、完全に無くしてしまう。
権力や、会社組織のセオリーなんて、くそくらえだ。

私は、現在の会社の中で、完全に浮いている(異質)ようだけれども・・・・
実力だけで勝負しなければならない「弱い立場」にあるのだから、その点だけは、
許すことができないし、「なしくずし」にしてはいけない事例だと思っている。
フリーランスを軽く見ていた正社員に、現実を思い知ってもらう「きっかけ」だったと
今でも感じているので、後悔は全く していない。
結局、会社側は、全てに対して、私との交渉に折れた。



多くの契約社員や、経験の薄い新入社員が、希望をもてるように・・・
やはり働いただけの報酬は、手にするべきである。

代表が大赤字をはじき出して、臨時ボーナスが2万円だなんて、バカもいいところだ。
今年の契約社員の言い分に耳を傾けると、本当に気の毒になってくる。

私も、たった一人で、全ての仕事をこなしているが・・・
それでも、一つのプロジェクトに、相当額の利益(1千万円以上)を会社に入れているのに、
全くボーナスもないし、私の通信費や交通費も頂けない。
待遇は、全く変わらず、こけにされているような気分にもなってくる。
手にする対価は、微々たるものである。
最初から契約書を要求しても、まだもらえない。いつまで待っても対処してもらえない。
明確にされない待遇面や立場のまま、ず~っと“だまされたかのように”働かされている。

だからこそ、自分の企画だけは、人に“のっとられたくはない”のである。
私にとっては、最後の砦であり、同時に「自分を守っているプライド」でもある。



お母さんへ

2010年08月16日 | 雑感 -

おかあさん、今日は疲れたよ。

二つ、大事なアポがあったんだけれど、両方ともうまくいったよネ。
ありがとう。

一つ目は、四時間半にもわたって、新宿のサザンタワーで、二つの喫茶店をハシゴして
やったんだよ。
薄暗くなってきたから、次のアポもあるし、決着をつけたんだけれど・・・
あれでよかったんだよね。
厳しい発言をしなければいけないときだってあるから、仕方がないんだと・・・
そう自分に言いきかせて、納得させた。
でも、正直、疲れたよ。


おかあさんの一日を、自分の一日にしてしまったようで、複雑だけれど・・・
許してくれているよね。
ちゃんと、法要はするから・・・・。 
必ず、するから。 少しだけ待ってね。



今日は、黒いロングの服に、おかあさんのパンツを穿いて行ったよ。
真珠のピアスをつけてね、それから遺品の指輪でしょ・・・そして・・・
おかあさんが好きだったピンクのストールを全身にまいて、ねじねじしてサ!
それに、おそろいのピンクのかばんを始めて使ったよ。
記念すべき、喪服とピンクの壮大なコラボレーションだったよ。
でも、誰からも、笑われなかった。
かなりいけてたと思うんだけれど、独りよがりかな。


今日も、暑かったね。ホント、暑かったよ。
今日は、一日、お疲れ様でした。
一緒にいてくれて、ありがとう。


とうろもろしの甘み

2010年08月15日 | 食事 -

長野からのたより。

ぷりぷりの実が詰まった、美しい「とうもろこし」を食べた。
塩を少しだけお湯に入れて、その中で煮た後、荒熱がとれたら、丸ごとかぶりつく・・・。

子どもの頃の「おやつ」のような食べ方だ。
田舎で育つと、季節ごとの食べ物の思い出が残っている。
そこには、確実に「旬」というものがあり、空腹を満たす「食材」としての意味もあった。

焼かずに、しょうゆもつけずに・・・
少しの塩で湯がいて、とうもろこし本来の甘みを出すのだ。



当時、つくってくれた母の存在が、頭をよぎる。
お盆だから・・・・
終戦記念日だから・・・・
本当に、いろいろなことを感じながら、とうもろこしを「有難くいただく」。

「生きている」ことに感謝。
「食べられる」ことに感謝。


明日は、くしくも母の命日だ。
十三回忌の法要は、徳島で九月に予定しているけれど・・・
私なりのお弔いをしようと思いながら、お盆を過ごしている。


徳島の「阿波踊り」

2010年08月15日 | ナンセンス -

私の故郷:徳島では、盆踊りと言えば「阿波踊り」だ。

徳島市内は、12日~15日までとなり、今日が最終日である。


観覧席のある演舞場を踊りつつも、街のいたるところで、このような輪になった踊りが
繰り広げられる。
これこそが、盆踊りとしての 人々の真の素顔が 楽しめる踊りの形態である。

祭りの踊りが最高潮に達したとき、一般の観光客も、飛び入り参加で踊りだしたりして、
まさに “一体感を感じる「大きな輪」” ができることも多い。





阿波踊りは、「連」という集合体によって成形されており、「連」ごとに雰囲気が違う。
これもまた、伝統と格式があったりして、有名連には必ず有名な踊り手がいるものである。


阿波踊り期間中、県内のケーブルテレビは、24時間中、踊りの中継をしている(笑)。

日本中から、観光客が来るのも、この期間中だけだろう。
徳島には、傑出した代表的な名物がないので、「阿波踊り」は唯一、自慢ができるもの
かもしれない・・・とも思ったりする。
ラテン系(?)のリズムにも似た“楽しい徳島人の踊り”だ。
風土色も、とても良くて出ていると思う。


小学校の体育大会から、ずっと踊らされているので、徳島県人はみんな踊り人であると
言えるかもしれない。

私も、髪をアップにして、さらしを巻き、「男踊り」に興じていた頃を懐かしく思い出す。
意外と体力が必要で、男踊りは「特に腰が疲れる」んだけれど・・・・楽しかったなぁ。