たらいまわし

2009年03月29日 | 社会 -

我が父も、そうだった。
何度も「たらいまわし」された。


シリアスな急を要して、救急車を呼んでいるのに・・・
名まえ、現在の詳しい状態、保険番号、過去の病歴など、すべてを聞いてから、
「病床満室」という理由で、断わられた。
(患者をことわる専売特許の言葉か!!)
その言葉(結果)をきくために、どれだけの時間を待たなければならないのか!

父は、四つの病院から、理解不可能な経緯(交渉内容と理由)で確実に断わられ、
最終的に搬送された病院では、誤診、治療不備によって、何の処置も施されず、
その夜に意識不明に陥った。そして、そのまま帰ることはなかった・・・。

父には、毎週何度も通いながら、体調を診てくれていた主治医がいた。
私は、その主治医の「治療指示票」を持参して、こと細かく説明したが、
何の治療もしてくれなかった。
その理由は「内科医がいないからー」というものだった。
では、なぜ・・・休日の緊急病院としての体制をとっているのだろう。
たった一人の経験不足の「脳外科医」だけを配備した体制で、なぜなのだ?!
治療ができないのであれば、受け入れなければよいのだと、私は単純に思う。
  患者の家族の持参した膨大な資料に目を通す時間はなかったのか。
  その資料を判断する“医師としての力量”がなかったのだろうか。
  では、専門分野の内科医と連絡をとる方法はなかったのか。
  あのように、全く治療ができないのであれば、患者の状態を把握し、
  再搬送する判断ができなかったのか。
(実際、父は、肝性脳症状態だったと思われる)
(真昼間に搬送しながら、翌朝まで放置されたために、我が父は明暗を分けた)


私は、今も、不本意すぎて、病院の無常な対応に、怒りがこみ上げてくる。
その病院は、院長、副院長、事務長、看護士、他、多くの人のモラルなき態度に、
最期まで苦しめられた。心が折れそうだった。
  医師としての慢心から発せられた不遜な言葉、誠意のない治療方針、
  患者を人間としてみていない病院の全スタッフ!
  たった一握りの「まともな人」さえも、病院に様々な進言をしていたが、
  それさえも却下されるぐらいの悪徳病院だった。
  人を治療し、命を助けることが使命ではなく、まさに「お金」が優先される
  病院だったという印象が強い。
父が逝った後、何度も話し合いを繰り返し、最後の手段を念頭にも置いた上での
覚悟をもった話し合いではあったが・・・全く最後まで誠意は感じられなかった。
結局、二人の医師と病院長・事務長をはじめとする病院サイドの謝罪を受けたが、
私の心は晴れることはなかった。
また、(頻繁に)同じことを繰り返しそうな病院であることは、想像に値する。


他の病院や大学の救急医療センターであれば、父は確実に助かっていた・・・。
それだけ簡単な治療であり、処置指示票の薬を体内に入れてくれさえすれば、
回復しただろうと思えるからである。
(勿論、父を搬送したのは、一度ではない。その都度、同様の処置をお願いして、
 父の命をつないできた私だからこそ、こうして断言できることがあるのだ)
心不全も、肝不全も、「時間」がすべてだ。
少しでも治療が遅れてしまえば、もう手遅れになってしまうことが多い。


あの日・・・
父の搬送された病院では、頭の悪そうな、高飛車で高慢な「脳外科医」が
「一晩二万円の個室しかないので、そこでよいですね」と一方的に説明したが、
実際には、大部屋のベッドは“がら空き状態”だった。
不可解な説明と、行動に、夜通し眠れず・・・どうなってしまうのかと不安で、
怒涛のように涙を流しながら、ただただ父を想い、自分とも闘い続けた。

あの日、学会にでかけていた父の主治医は、町医者ではあるが信頼の出来る
すぐれた医師だと、私は思っている(週に一度、大学病院に勤務していた)。
休日だったために、主治医と連絡がとれたのは、遅い時間になってしまった。
父の主治医は、深夜の私からの切ない相談に、誠意をもって応えてくれたが、
あの日、私には“たよれる人”が誰もいなかった。
「あの時、どうしたらよかったのか」・・・今も胸が締め付けられる。




何も変わっていない。 今もそうだ。

「たらいまわし」のニュースが相次ぎ、人々は原因不明の理由によって
この世から去る人が相次いでいる。
昨日は、六病院から断わられ、たらいまわしされた患者の痛ましい記事を
読み、父のときのことが思い出されたのだ。



「病床満室」って何?
(満室かどうかなんて、患者の病状を聞く前に返事ができることだろう?!)

医師不足? なぜ? 
なぜ医師不足になる現状が、日本には現存するのか!

医師の本分とは、何?
何を優先して、何を大切だと考えているのだろうか?
個々の医師の自覚にたよるしかないのか?
医師育成教育に、問題はないのか?
医師である前に、人としての人格教育はなされているのだろうか?

病院って、何なの?
どういう場所なの?



救急車を道端に止めて、交渉を重ねる救急隊員には申し訳ないが・・・
そのやりとりには、日本の医療現場の背景と、不本意な感情が沸き起こる、
非常に複雑な「現実」を感じる。
そのやりとりを聴いているだけで、全てがおぼろげに見えてきて、
我が愛する父親の「命の重さ」を、測られているような錯覚に陥る。
人間誰もが「平等である」はずなのに、実際はそうではない。
これが「現実」なのだ。
日本の人々が、誰もが経験しなければならないかもしれない現実なのだ。


どうしたら、一人でも多くの人が尊厳ある「死」を迎えられるのだろう。
家族は、すべてを納得して、見送ることができるのだろう。



「死」は、突然に“やってくる”。
患者も、家族も、弱い立場の人間なのだ。
誰かが守ってくれないのであれば、体制や規制を変えるべきではないのか。
あらゆる現実を見落とし、それも意図的に見過ごし、
自分の立場を守ることに執着し、国民に何の説明責任も果たさない政治が
こころもとない。
国民にとって、医療体制は、大きな生活の基盤を支える部分である。
現場の声をきいてくれる人や機関は、存在しないのか・・・。
もっと、もっと、海外の成功例を検証し、できるところからやってほしい。


この問題に関しては、何年も前から同じようなことが指摘されていながら、
全く変わる気配がない。
今、国中が悲鳴をあげているのに、それが聞こえていないのだろうか・・・。



元住人の忘れ物

2009年03月18日 | 出来事 -
今朝も、すばらしい日差しが差し込んで、おでかけ時は大変気持ちが良かった。

重いドアをあけて、すぐに飛び込んでくるのは、小さな可憐な花。
黄色いその花は、玄関前の狭い広場を、おおいつくすかのように咲いている。
昨日も、今日も、出かける時には、毎回、感激してしまう・・・・。

低い緑のじゅうたんに、黄色い花が咲き乱れている。
「なんていう名前なんだろう?」
そう思いながら、しばらく玄関先で見とれてしまう。

しばらくたたずんで・・・・そして、花を踏まないように、飛び石をこえていく。



この家(一軒家)に転居してきてから、これで5年目を迎えるが、
毎年広がっていった「黄色いじゅうたん」。

元住人さん、どうもありがとう。
貴方の残していってくださった種が、今、私を楽しませてくれています!




future

2009年03月10日 | 自分 -

【目標】 「心豊かに 活き活きと おだやかに 生きる!」

      そうすれば、健康的で、自分らしい人生となる。



★  ★  ★  ★  ★  ★  ★

そのためには・・・・・
  1)時間がゆったりと使える生活
  2)社会性のある仕事
  3)成功を手に入れる
  4)豊かな精神性(感受性)


より具体的に、明確にすると・・・・・
  1)友人・知人と触れ合う時間を増やす
    自分の生活に、心の余裕を持つ 
    “一つのことに とらわれすぎないような環境”を構築する
    自分で頑張りすぎて、自分自身を追い込まない
    定期的に、身体をゆったりと休ませる
  2)納得のいく仕事をする
    好きな仕事をする
    社会に貢献できていると言えるような仕事をする
    やりがいが感じられる仕事をする
  3)お金をかせぐ (経済的な安心感を手にする)
    パートナーシップ・フレンドシップを感じられる人を増やす
    心のときめきを絶やさない
    達成感や充実感を感じられるような経験を積み重ねる
    小さな目標実現にも、その都度、自分を肯定する癖をつける
  4)常に自分と向き合う勇気を持つ
    常に五感を開き、常に五感を(意識的に)鍛えるようにする
    辛いこと・苦しいことから、目をそむけない
    何かが起こっても、寛大な心を持つようにする
    素敵な恋をする
    日々の生活を、感じながら、それを味わいつくす



  ※すべて、現在の自分の設定環境・心境を反映したものであり、
   これは、数年後には確実に変化しているであろう・・・事柄であります。




四国人

2009年03月07日 | ナンセンス -
「うどん」が、無性に食べたくなる。

こしがある麺に、だしのきいた透明のつゆが・・・
時々、絶えられないくらいに、恋しくなるのだ。




「うどん屋」

遠くに、「うどん屋」という大きな旗が、風になびいていた。
青色の縦長の旗布に、おおきく白い文字が書かれていた。

その旗を目標にして、ひたすら歩き続けた。

「ついたぞ~」

と思ったら・・・・・・・

「ふとん屋」だった。


どっぷりと落胆した。 

            「うどん」食べたかったのに・・・


現世の父

2009年03月03日 | 雑感 -
今日は、3月3日。 
雛祭りの日。


子どもの頃、本当に幼少の頃・・・
父が、四国の実家で「雛人形」を飾ってくれた。

何段の雛人形かは覚えていないが、五人官女がいたのは覚えている。
赤い布を引いて、その上に飾っていく人形は、かなり大変な作業である。
時間を要するイベントだった。
官女ごとに装いと持ち物が違っていて・・・
私自身は、そのあたりの飾りの手伝いをしたのを、おぼろげに覚えている。


実家の二階には、色のはげた・・・あるいは、ねずみに鼻をかじられた人形が、
木の箱の中で、ひそかに「時」を刻んでいるのだろうか。


小学校にあがって、両親の仕事が忙しくなったりしてくると、
「雛人形」を飾ることはなくなっていった・・・。
私は・・・どうでもいいやぁ~と思っていた反面、恋しいと思う気持ちもあり、
不可思議なイメージが残像のように残っている。



今日は、(私にとって)父のような“あったかさ”を持ちえた存在である人に、
雛祭りを祝ってもらったような感じだった。
その人とは、20年弱にわたるお付き合いである。
仕事で出会ってからは、ず~っと1年に1~2度ご飯を食べる関係だったが、
突然何を思ったか、(10年以上も前になるが・・・)
私の将来を憂い、強制的に「お見合い」をセッティングした張本人でもある。
「だって、そうだろ。ずっと一人でいるつもりなのかぁ~!!」
本当に父親のような存在で、私は大好きな人だ。

数日前に突然メールをもらって、たまたまランチをしたのだが・・・
(それも3時間ものながぁ~いランチをしたのだが・・・)
とにかく会えたし、(そのうえ)ごちそうになったし、
ほんわかした雰囲気をもらったし、いろいろと幅広いお話ができたし、
とてもとても楽しく時間を過ごさせてもらった。
充実した時間だった。
場所は、西麻布の隠れ家的フランス料理――。

菱餅も白酒もない、ゆったりとした桃の節句の日の「和やかな時間」だった。



一緒に帰るバスの中で、唐突に
「もう今年70歳になるんだよ」とぽつりとつぶやくその言葉に、
私はビックリしてしまった。
自分も齢をとるはずだ。

あえて、厳しい質問をしてみた。
「それぐらいの御年になると、もう先はどれぐらいかな~とか思います?」

「そりゃ、そうさ。だから、やりたいことは、やらなくちゃ!っていう想いが
 より強くなるんだよ」

この私でも、そう思うのだから、「きっとそうだろう」とは思ったが・・・
おそらく想いの重さや質感は、個々に、皆それぞれに違うものだろう。

今日のお話では・・・
実際、精力的に活動しているし、新しいアイデアや異文化交流などもふまえ、
これまでにはない熱意をもって、いろいろなことに取り組んでいるようである。
新しく「どうしてもやりたいことがあるんだよ」という話もあった。
齢なんて、関係ないよね、ホント。
人間として、刺激をもらったような気がする。
はじめようと思えば、いつからでも「はじめられる」。

今日は、穏やかな時間の中にでも、お互いの近況を話し合って、
その背景にあるものも、なんとなく感じ取ることができたような気がした。



しかし、何よりも、嬉しいことは・・・
私にとって、「こういう人がいる」ということである。
しみじみと感じた。
時々でいいから、会いたい・・・と。


「ぽっくりと逝かれると哀しいし、淋しいし、
 私が(きっと)すごく後悔するから、時々連絡しなきゃ~ね!」
そうちゃかして本心を言ったら、優しく笑ってくれた。

別れ際の光景を目に焼き付けながら、
次の機会までは、それを脳裏に刻み込もう。

大好きな人とは、やっぱり「会いたいものだから」。
これからも、どんなに忙しくても、会う努力を怠らないようにしたい!