美しい「この世」

2010年04月30日 | 言葉 -
  

      「 心が開いている時、この世は美しい 」

                                  <by ゲーテ>




しかし、この世が「美しい」と感じられるかどうかは、すべて自分次第だ。
本当にそう思えて、感じることができるためには・・・・身体がこわばっていない状態で、
“自己開放すること” が大切である。また、自己を肯定していくことも・・・・。

悩みのない人なんて、この世には少ないかもしれない。
人間の心のバランスなんて、あっという間に壊れ去ってしまうガラスのようなものである。
過剰労働に疲れた身体に連動して、心は病んでいき、動きはすっかり止まってしまう。
誰もがそういう可能性を持っているのが、この “現代” という世の中である。

しかし、何度もいうようだが・・・・自分次第で、すべての環境や考え方は変わってくる。
あらゆる人々が幸せになる権利を有しているように、あらゆる人々は生活全般を調整し、
コントロールしていく努力ができるはずである。
この楽しいゴールデン・ウィークに、また一つ素敵な思い出が残ることを願いつつ・・・。

昨今、問題視されている “メンタルな部分に焦点をあてた「自己啓発セミナー」” とは、
違う観点で(私自身が)思っているということを、くれぐれも理解してほしい。
自分がしっかりとして、自信があれば、まぁ~安易な勧誘に惑わされることもないだろう。

私は、4/12に話し込んで、今月末限りで辞めることになった若手の社員が切なく、
思い出されるだけである。その後も、折にふれ、彼女から出向いてくれたりして・・・
私が会社に行くと、突然PCの横に飴玉などをおいて、微笑んでくれたりしていた。
この間「いろいろとお話を聞いていただきまして、ありがとうございました」と言われ、
「突然の退社」の報告を受けた。
私にしてみれば、彼女の顔が晴れやかだったのが、せめてもの救いだ。
「やることはやったの?」「悔いはないの?」「整理はついたの?」と声をかけると、
すべての質問に対して「はい」と、彼女は明るく答えてくれた。
まずは、原因不明の頭痛を治して、また違う環境(会社)で、再出発するそうである。
目の前に、具体的な目標があることを知り、私の中では、複雑ながらとても喜ばしかった。
分かれるのは残念だが・・・・彼女の未来の幸せを、心から願っている。



閉幕!「歌舞伎座」

2010年04月29日 | 社会 -

昨日、銀座の中心に陣取っていた日本文化の殿堂、「歌舞伎座」が幕を閉じた。
次にお目見えするのは、3年後という時間を待つしかない。

歴史ある歌舞伎らしい「歌舞伎座」の正面、そして、真っ赤な絨毯が張り巡らされた
日本の「美」の世界を感じる館内・・・・素晴しい風情のある建築物だった。

今年に入って、今月のチケットを巡って、いろいろと手を尽くしたが・・・・
発売前から千秋楽のチケットは、世俗な人々の目の前には出てこなかった。
「やはり!」
そう思いながら、5倍、10倍の値がついたプレミアムなチケットのありがたさを
観劇(感激)した人は感じたことだろう。
常に歌舞伎をサポートしてきた特別な人の手元にだけ届いた貴重なチケットである。

私も、先月中旬過ぎまで“どうなのかわからない”現実の後、最終的にチケット3枚を
手にした(1万5千円×3枚=4万5千円)。
それでも、手に出来ただけありがたいとは思った。
しかし、結局、1階席と同じ金額でありながら、二階の3列目だった。
人気の程がうかがわれる現実で、4月のチケットを手に出来ただけ良かったと、
慰めたのを覚えている。
これだけの豪華なメンバーで、素晴しい演目だから、仕方がないだろう。
それに、歌舞伎座の最後の演目となれば、納得するしかない。


当日券:3階チケットを求めての「長打の列」をニュースで見ながら、自分の姿をも重ね、
感慨深いものがあった。若い頃は当然のこと、最近だって、3階の席のかたぁ~い席で、
何度も観劇をした。一幕だけ観るには、最高のシステムである。(安価だし・・・)


3年後、どのような歌舞伎座が完成しようと、「歌舞伎」は存続していく文化である。
それまでの間は、いろいろな形式をもってサポートして、できるだけ気に入る演目が
あれば、観劇していこうと思っている。


イチョウ並木の新芽

2010年04月27日 | 環境 -

今日は、ほんの少し雨が・・・・そぼ降る一日だった。

久しぶりに、「そろそろかな」と期待して、外苑前:神宮イチョウ並木通りに出かけた。

キミドリ色の新芽に覆われて、イチョウが活き活きとしているように見えた。
雨もまた、栄養になるように、豪快な並木は、輝きながら、存在感を示していた。

新緑の時期、キミドリ色の新芽は、とても生命力を感じるし、
何よりも、美しい・・・。

ただ、少しだけ雨だというお天気もあって、そんなに人もいなかった。
しかし、映画&ドラマの撮影では有名な場所だけに、私が到着した15時ごろには、
どこかのチーム(組)がまだ撮影しており、メーク車が駐車していた。
撮影の定番場所だから・・・ネ。


私たちは、お店も混んでいなかったので、ゆっくりと時間を過ごすことができた。
気分がゆったりとすると、本当に「疲れも吹き飛ぶような感じだ」・・・。

せっかくの打合せなのだから、気分の良い場所でやらないと・・・ネ。


義務的な行動

2010年04月26日 | 自分 -

人の生活の中には、避けては通れない「やらなければならないこと」がある。
仕事に対してもそうである。
やりたくなくても、やらなければならない雑用にしか思えないことも・・・。


しかし、どうしても「やらなければならないこと」に過剰に囚われすぎていると・・・
自分の世界が狭くなる。
そうすると・・・自然と “自分の心が狭くなっている” のを感じる。

当然、やらなければならないので、義務的な気持ちが先行して、私の全身を覆いつくし、
心の中にある「自由なあそび (余裕)」のようなスペースがなくなってくる。

この数日、囚われた時間を過ごしたがために (短時間でどどっっと動いたがために)、
空虚な日々だったという印象がしている。
もちろん、成果は残しているのだが・・・・充実していたような満足感が皆無である。

人間というものは、いや、私というものは・・・非常に正直な人だと思う。
「無駄なことは、この世の中にはない」とは思っているが・・・・率直に言うと・・・
「自分の時間を有効的に使っていなかった」という感覚が残っている。


「自発的な行動」と、「義務的な行動」には、はっきりとした出発点の違いがある。
これだけの “結果における感情の違い” さえもが、発生するのである。
明確で、シンプルなことだ。


しかし、たとえ、どのようなケースでも “前向きに考えること” はできても・・・・・
それは「自分の人生」に対してのことが多く、「短期的な仕事の質感」においてまで、
“変容した とらえ方” をするのは、容易ではない。
ある理由が必要になってくるからだ。
自分が、100%納得できないことは、変容不可能だと思い知った。
それはそれなりの考え方を(自分自身で)見つけ出し、目の前の「行動すべき事柄」に
対峙しなければならないのだ。
あらゆるケースにおいて、このような経験はあったが・・・
ただ、私の中で、改めて思い正したことがなかっただけである。

些細な発見と、些細な気づきだが・・・・
どのようなことにも当てはまる「正解」などはない。
その都度、周りを見ながら、状況を見極めながら、自分の存在価値を認めながら、
一つ一つをこなしていくことが大切なことのような気がしている。

明るく、健康的に・・・・心豊かに生きるために!!


日常の「健康」度数

2010年04月20日 | 社会 -

「健康」とは、興味深いテーマ! 
 
「身体」だけでなく「心」も健康な状態―それこそが、誰もが手にしたいものだ。

日々の暮らしの中で、“健康でいたい”と思うのは、至極当然のことだろう。
また、昨今の傾向からすると、“なんとまぁ注目度が高いのか”と思い知る。
その「健康的な生活」を眼前に、あれやこれやと想いをめぐらせる人も多い。

「健康」という文字があれば、健康食品という名のもとに、科学的な説明が何もない
高額な錠剤を買って、そのまま信じて、毎日のように飲む人もいる。
「健康」という言葉があれば、副作用の強い薬でも、医者の言うとおりに 服用して、
かえって身体を壊す人もいる(私は経験者である)。
薬には、必ず「副作用」がついてくるということを、人々は肝に銘じて、よくよく
お話を聞いて、その説明に納得して、服用するべきだと思う。
最近は、インターネットでも検索できるし、相談する窓口も増えてきた。

一時は、「健康になるためなら、死んでもいい・・・」なんていう笑い話もあったが、
健康になることに、どうしてそんなに固執するだろうか。
人は、みんな寿命というものがあり、その命を全うすればよいだけなのに・・・。




「健康」とは切っても切れない関係が、その人の「ライフスタイル」である。
とても大切なものであり、つねに“健康の維持に影響を与えるもの”――
それがライフスタイルだからだ。

ライフスタイルの基本となる(いくつかの)項目が、バランスのとれた状態であり、
それぞれに充分であれば・・・「健康かもしれない」とも思うが・・・
なかなか日々の生活は 思うようにはいかないものである。

 ★運動―→身体を動かす。持続可能な運動を、日々15分だけでも・・・
 ★仕事―→楽しく働くこと。そして、働きがいをもつようにすれば・・・
 ★睡眠―→毎日、充分な睡眠をとること。快適な安眠を心がける。
 ★休息―→心にゆとりと栄養をとる。そして、疲れ果てた身体にも・・・
 ★食事―→身体に良いものを、感謝して食べる。エサにならないためには・・・

食卓の上に、薬が均等に散布されたお弁当がならぶことなく、限りなく自然の恵みが
のってくるような食生活ができれば、生活習慣病の多くは改善されるような気がする。
もちろん、ブレンドされたお米や、芯の残ったトマトや野菜などよりは、旬の香りが
ただよった新鮮な食材(素材)が・・・・何よりである。
お母さん(奥さん)の愛情と一緒に、手作りされた美味しい食べ物が・・・ネ。

「食」は、人間の基本だ。「個」を形成する根本的なものである。
だから、ただ美味しいだけではなく、愛情が添えられていることが必須である。


変化を起こす力

2010年04月16日 | 言葉 -


   静態的な循環過程からは 資本主義経済社会を動かす力は 生まれない

     
                  <by ヨーゼフ・シュンペーター(経済学者)>





こういう時代だからこそ 人々は、考えるべきことがありそうだ。
既成概念では成り立たなくなってきているような“行き詰まり”を感じてしまうのは
私だけだろうか・・・・。 そうではないだろう。

資本主義は、すでに破綻している――と、私は思っている。
地球もまた、警鐘のように、各所で予兆のような出来事を引き起こしている。
気候は、安定することがなく、私たちの生活にも着々と影響を与えているようだ。

「温故知新」
シュンベーターの残した言葉にも、学ぶべきことが多いにありそうである。
「イノベーション(innovation)」は、シュンペーターの理論の中心的概念だ。


「変化」に対応するのではなく、「変化」を起こす力こそが、これからは重要になる!



父の「命日」

2010年04月14日 | 出来事 -

今日は、「父の命日」だから・・・・・
お世話様になった父の主治医に、会いに行った。

診療時間の最後の患者になれば・・・・・意外とゆっくりと話ができる。
時間としては締め切り前ぎりぎりに飛び込んで、受付をするのがベターである。

父の存命中は、週に二回は、点滴に通って・・・・・
数年にわたって、先生にはいろいろな相談にのってもらった。
救急車で運ばれた日の夜にも、悲惨な病院の対応を携帯電話で報告しながら、
本当に真摯に(私の思いと境遇を)受け容れてくれ、アドバイスをしてくれた人だ。
  「学会に来ててね、すまなかったね。
   電話するのが遅くなったよ。大丈夫?」
あの日は、先生の声を聞くなり、涙があふれ出て、とまらなかったのを覚えている。
そこは、理不尽で、不道徳で、不明瞭な経営をして、医師の質も最低の病院だった。


父の主治医には、よく会いに行く。
健康診断から、風邪など体調が悪い時や、ただ愚痴を聞いてもらいにいったり、
この時期は数年前に発病した花粉症水鼻対策の漢方をもらったりもしている。

私がいくと、いつも笑顔で迎えてくれて、「体調はどう?!」と聞いてくれる。


今日は、父の命日だから・・・
先生に会いたいと思って行ったが・・・私に対して、とても嬉しい感想をもらった。
「なんとなく変わったね。客観的に自分を見られるようになったというか・・・
 そんな感じがする。少し前とは、全然違う印象になったよ」

時間は経過する。 
実際、以前は「独り」という境遇や、「寂しさ」に、耐えられなくなる時があったりした。
しかし、今は、フリーであることの私自身を、一つの個性として理解し、甘受している。
「天涯孤独」と言っても、友だちはいるし、楽しいこともあるし、
落ち込むだけの寂しさを、自由という肯定的な意識に転換できているからだろう。
そうして、もっと、もっと、私自身の人生を楽しめるようになれると、次のグレードに
登っていけるのかもしれない。



・・・「今日は、父を偲ぶ一日にしよう」と思って、親戚や 父の姉や弟さんたちに
連絡をしたら、やっぱり「命日」のことを覚えてくれていた。
85歳になる伯母さんは、まだ元気でしっかりと働いている田舎のお元気おばあさんだ。
しかし、こういう日に、こういう話題になると、電話口の先からすすり泣きが聞こえ、
二人して思い出話がとまらない。
最期は、10人の兄弟の内で(現在生きている)3人が徳島から来て、看取ってくれた。
もしかしたら、他の姉など数名、父が慕っていた人たちが(あの世から)来てくれて、
道のわからない父を導いてくれて、迎えてくれたかもしれない。
とにかく、だから・・・父は、一人で逝ったのではない。
幸せな最期だったと思うし、今も忘れず覚えてくれている人々に、心から感謝したい。


                          ※写真は故郷:吉野川(徳島)


もやもやな気分

2010年04月13日 | 仕事 -

気の乗らないパーティだけど、「仕事」の一環だし・・・・
(仕方がないので)夕方に出席した。
それは、そこに私がいなければならない事情があったからだ。
要するに、「仕事の一部」だったわけである。
「ただ、挨拶したりする」ことが、「仕事」だなんて・・・・・うぅ~ん(唸る)。
昔の私は、名詞を配ることに精一杯で、会場内を動きまわっていたけれど・・・
今の私は、完全に価値観が変わってしまっていることに、改めて気がついた。
その場所にいる自分が、客観的に見えてしまって、それと同時に(瞬時に)
楽しくない気分が押し寄せてきた。
すっきりとしない違和感は、最後の最後まで、ぬぐえなかった。


しかし、パーティ一つでも、経済状況は影響しているようである。
主催者挨拶が終わった後に、すぐにオードブルコーナーに足を運んだが・・・
すでに食べ物は何もなく、コンソメゼリーのかけらが散在しているだけだった。
料理が追加されることは最後までなくて (昔では考えられない!さびしいなぁ)・・・
残っていたのは、少しのフルーツとスイーツだけだった。
飲物も追加されなくて・・・・・乾杯のときに、ワインがない!
隣のおじさんと苦笑いして、わずか1cmだけついで、乾杯に参加した(笑)
お酒の飲めない私が口をつけても判るほど、渋さだけの質の悪い赤ワインだった。
料理はオードブルだけで、プレートはたった一つ・・・スイーツも一つ、フルーツも一つ、
軽食と聞いていたが、軽食とも言えない料理アレンジだ。
パーティのお土産も、添付書類は社内コピーで(チラシと宣伝書類ばかり)、
派手な紙袋に、何の関連もない「焼肉のたれ(300円相当)」が入っていた。
さすがに、これには、笑ってしまった!

テレビに出ている有名人の男女が司会で、著名な人も多く見うけられたパーティなのに、
かなり「せこいなぁ」というのが、正直な感想だった。


参加者は50代が一番多く、40~60代の男性がほとんどで、着ている服も「紺」ばかり!
女性でさえ、黒や紺、茶、クリーム色のスーツ姿ばかりで、明るい色は見られない。

その中で、場違いな(金模様が入った)桃色ピンクの服を着て、レースブーツの私・・・。
途中で、周りを見渡したら、20代後半の美しい女性が、派手なオレンジを着ていて、
ひと安心したりして、なんだか世情が暗いと、服も暗くなるのだろうか・・・と思った。
私も昔はスーツを頻繁に着たが、派手な青や紫のショートミニスカートスーツだったが、
決して場違いな雰囲気などなかった。



こういう結果は、予想されていたので、会場に入る前から終了後の映画の切符を予約!
しかし、リストラ宣告人のジョージ・クルーニーの映画で、盛り上がることもなく・・・
社会を反映しているような映画で・・・(結局)あまり収穫がない一日だった。
それでも、その映画のラストエンディングテーマソングが、私の気持ちを代弁していて
最後の最後に、すごく心に響いた。
「僕は宙に浮いている。何をするのか。選択肢はあるけれど、決められない・・・」

私も、最近、マジに、引っ越しを考えたりしている。
引っ越しというよりも、「移住」に近い・・・生活の建て直し。
天涯孤独の利点・・・「やりたいようにやれること」 「住みたい場所に住めること」。
背負うものがなくなった今、そして、やっと悲しみが薄れつつある今・・・
少しずつだが「自分の将来に目(気持ち)が行きはじめた」ような印象がしている。

私の生活も、私の人生も、決めるのは私だし・・・
実践して、行動して、生きていくのも私だから・・・。
大胆な発想や、夢のようなことも、やる意志があれば “やれるはずなのだ”。
でも、まだまだ決められないから、そういうモヤモヤしたスッキリしない気分が・・・
映画のテーマ曲の歌詞とリンクしたのだと思う。

あせらず、求めず、そして、あきらめず・・・・・だネ。


自分からの「Sign」

2010年04月13日 | 社会 -

今朝、今日の予定のドタキャンが入った。
まず、昨夜に「頭痛がひどい」という報告の複線はあったが・・・・
今朝になって「熱があるので病院にいく」ということだった。
俗に言う「リスケ」というものである。
何もなければよいのに・・・と、心から思う。

最近、こういうケースが、ひそかに増えたと感じる。

実は、今月の頭にも、全く同じような症状が別人にあった。
仕事中、突然吐き気を感じ、もどした後からが、かなり “ひどかった” らしい。
3日間、高熱が下がらず、激しい痛みを伴う頭痛に耐え続けたようだ。
病院に行って、頭と身体の検査をしたが、「どこも悪くない」という結論だった。
結局、過労か、ストレス障害だったようだ。
ただ、ただ、休んで、寝て・・・・数日後には、どうにか復帰した。
生涯初めての激しい頭痛に、不安を感じたというが・・・まさに顕著な現代病のように
感じられてならない。
精神的な抑圧や、大きなストレスは、長期に受け続けることで、時として猛威をふるう。


現代3大疾患病に、今回の発表で、初めて「うつ病」が入ったのも驚きだったが・・・・
このような経済状況と社会環境では、「自分がしっかりとしていないと(徐々に)身体に
変調がくるのは、自然なことだ」と言ってしまっても、誰も言い返せないかもしれない。

私も、過剰労働をしていた頃に、過敏性の下痢に悩まされ、一時は「急行」に乗れず、
「各駅停車」でゆっくりと移動していた経験を持つ。もちろん毎日ではなかったが、
一~二週間に一度ぐらいの確率では、必ず(突然襲ってくる)下痢に苦しめられた。
会社を変えて、仕事を変えて、過剰労働を辞めたら、ぴたっと治ったのは、それらに
原因の一端があったのだと(改めて)思い知った。


頭痛、胃痛、吐き気、下痢、熱・・・・虚脱感・・・・集中できない覇気のない日々・・・
こういうものは、誰もが経験する心身の変調である。

自分の精神的なコントロールによって改善される質感のものもあれば、どうにもならない
原因もあると思われ、こういう身体への変調は「自分自身からのサイン」として受け止め、
現在の自分を見つめなおす機会にしてほしいとも思う。
自分が「あっぷあっぷしている状態」なのだから、愛おしい自分のために努力してあげる
ようにしないと、状況は何も変わらない。
それぞれに、対策や方法はあると思うので、個々に自覚を持って、快適な生活環境をつくり
少しでも「充実したシアワセな日常をおくってほしい」と思っている。


これで、私の予定は、夕方の大手町で開催される大規模なパーティだけになった・・・。
憂鬱な予定だけが残ってしまった。


深遠なる関係

2010年04月11日 | 言葉 -


   人間と自然、生き物との関係とは

   想像以上に豊かで、深遠なものである。


                    <by アルネ・ネス(哲学者)>




2009年、ノルウェーの自宅で、就寝中に死去したアルネ・ネス氏は、96歳だった。
近年のノルウェー哲学は、彼を中心に発展したと言っても過言ではない。
エコが一般的ではなかった頃から、古今東西の哲学や思想を融合して主張し、
世界中で発展していったエコロジー運動の柱として、自らの生涯を捧げた人だった。

彼は、登山家でもあった。
1950年に、パキスタン北部カラコルムの「ティリチ・ミール峰」に最初に登頂した
ノルウェー隊のリーダーだった。
その後、哲学誌を創刊して、「ガンジーの非暴力哲学」や「スピノザの自然=神」の
世界観を取り入れて、徐々に、功績をあげていくこととなる。
やがて、彼は環境問題へとのめりこんでいき、「長期的で深遠なるエコロジー運動」
という名称の戦略的な解釈を打ち出していく。
ネス氏が、これを行った1970年代前半は、“深刻化する環境問題” をテーマに、
人類が初めて国際会議を行った頃である。

今こそ、もう一度、見直したい「アルネ・ネス氏」の思想と哲学!
「それぞれの世界観や、ものの見方、理解、人間に大きな影響を及ぼす行為」、
「コミュニケーションのあり方」、「インタープリテーションのあり方」、
そして、「社会と人間の多様性」などなど・・・・。


今年は、国連国際生物多様性年で、10月には名古屋で世界会議が開催される。
私たちは、今、「輸入大国:日本」という肩書きを抱えながら、未来へ向けて・・・
歩みをすすめていかなければならないのだ。
日本は、“自然が豊かな国だ” と思い込んではいるが、実は知らない事実が多く、
企業も国民(市民団体)も新しいビジネスモデルを構築する時機にあるのかもしれない。
それだけ日本の食料事情は厳しく、原材料や水を全て他国に頼っているだけでは、
日本の未来は “見えてこない”。
まずは、世界を知り、日本を知り・・・その次には、世界の人々の声に耳を傾けつつ、
今こそ “私たちの足元” を(丁寧に)見つめることが大切な気がする。


優しい自然

2010年04月03日 | 環境 -

最近は「春だなぁ」と、もちろん思っているが・・・・
突然に変異したように襲ってくる急な寒さと、強風や豪雨には、驚かされることもある。
やはり、昔に比べると、季節感のバランスが悪くなって、気候変動があるようだ。


しかし、近隣では、まず梅が咲いて、そして、桜が咲いて、マグノリアが咲いて・・・
ウグイスの泣き声が心地よくて・・・・
名前の知らない鳥も、ウグイスに負けじと、綺麗な声を かなでている。
玄関先には、黄色い小さな花が咲き乱れ、それが可愛くて、美しくて、たまらない。

たとえ身近で“ささやか”でも、「自然の豊かさ」を感じることが、
“このような我が家近隣でも大いにあること”は、喜ばしいことだ。



何百年も生き残ってきた原生林のような“たくましく厳しい自然”からではなく、
身近な「優しい自然」から与えられるものは、いつも暖かい印象を受ける。

心地よい感動と、“ありがたい”と感じられる殊勝な気持ち・・・・・
何故なのかと思う時があるが、自分の状態が(出来る限り)開いた状態だからだろう。
自分に受け容れられる余裕がでてきたとき、「夕焼け」一つにでさえ、凄く感動する。



「優しい自然」は、いつも私に「優しい」。
 だから、私も・・・優しくなれる・・・。

「穏やかな自然」は、いつも私に「穏やかである」。
 だから、私も・・・穏やかになれる・・・。