不運なランチタイム

2011年10月27日 | 食事 -

切羽詰まった日々を送っている私にとって、
唯一の楽しみは「食事」である。

昨日は、会社近くの“喫茶店のような作りの店”に
初めて入ったら、三種類のメニューしかなく、
店舗内の雰囲気から 「あたりはずれの少ないカレー」を
注文したところ、「二度と食べたくないモノ」が出てきた。
ほとんど残さない私が、久しぶりに “残した”のだ。
黒くて、辛いだけで、香りも味もない、不思議な物体・・・。
肉は入っているようだが、形は認識できず、
人参とじゃがいもが、ごろごろと二個ずつ入っていた。

サラダ(業務用ごまドレッシング&キャベツの千切り)と、
食後のコーヒーがついていたが・・・
「ここは、喫茶店?」と思えるようなお味の珈琲で、
またまたビックリ。
「昔の家庭用のコーヒーメーカーでつくった安いブレンドを
 長時間メーカーで保温状態だったようで、香りは全然なく、
 お味が完璧に変わってしまった黒い飲み物!」・・・
というのが適した表現だろう。

昨日のランチタイムは・・・とても、欲求不満だった。




今日のランチは、イタリアンレストランに出向いた。
初めてではなかったけれど、「パスタが硬いなぁ~」とは
感じる店だったが、独自性のソースで勝負していたので、
そんなに嫌いなイメージではなかった。
しかし、今日は、「アルデンテ」というよりも、
完全に茹でが足りないという“しこり”が残っていて、
あまりにも哀しい麺だった。
クッキーパスタだ。
口の中から、噛む音が聞こえてきそうなぐらい 硬かった!
消化に悪そう・・・。




このごろの私は、こう思っている。
 ランチ時間を短くしたい。
 でも、外に出向いて、気分を変えたい。
 それなのに・・・
 あぁ、それなのに・・・


ご飯は、今の私にとって、唯一の楽しみなのに、
あぁ、それなのに・・・・・。

いつもの自分なら、我慢できることが、どうしても
我慢できずに、お皿に食べ物を残すことになってしまった。
「もったいない神様」に諭されないようにと感じつつ、
それでも 耐えられなかった。

やはり、ランチタイムに、すいているお店に出向くのは、
結果的に良くないということを思い知らされた数日。


目先の快楽に安易に手を出して、それを選択しても、
こういう結果が待っている。
そう「もう少しの我慢だから」と、自分をいさめて、
ご飯に一時の救いを求めるのをやめよう~(涙)。




タイの洪水被害

2011年10月18日 | 環境 -

豪雨や、異常気象・・・。

昔のように驚かなくなったとはいえ、やはり・・・
今年もどんどん続く・・・突然の「自然災害」ニュース。

タイの洪水が、ひどい被害状況のようで、
ワニなどが逃げ出し、大きな問題になっているようだ。
また、経済効率の観点から、日本企業の工場も多く、
そういう部分でも被害は多い。


洪水は、バンコクにもおよび、まだまだ予断を許さない
状況らしい。

昨日、ある記事を読んだ。
切実な水害にも関わらず、笑顔を絶やさないタイの
人々についてのものだ。
さらっと「ひどいねぇ」と現実を受け止めているらしく、
これも国民性かと・・・感じ入ったところだった。


タイには、チェンマイの奥地から首都バンコクまで、
多くの都市を訪ね、長期滞在したことがあるので、私自身は
なんとなく身近に感じている。

当時、有名ホテルだったオリエンタルホテルに出向いて、
「三島由紀夫さんの常宿だったんだって!」なんて話しながら、
川沿いのレストランで、時間を忘れて、ぼ~っとしていた。
そのことを思い出す。
あの場所は非常に快適だったが、
すぐそばに川があって、あの堤防を濁流が越えてきたら・・・
そう思うと、タイのいたるところの風景が思い出されてきた。
とにかく、運河や水路が多い都市構造の国だから・・・。



歴史や仏教文化と共に、人々のおおらかさが育まれた国。

美味しいタイ料理に舌鼓を打ち、初めてゾウの背に乗って、
楽しい経験をしたのも、この国だった。

タイ全土の雰囲気が観光資源のような印象を持たせるため、
いろいろな素晴らしい特徴を無くしてほしくないと思う。


それにしても・・・
このような世界的な異常気象は、様々な弊害をもたらす。
それにも屈することなく、頑張れる国―タイの人々。



我が実家を襲った70年に一度の堤防決壊を思い起こしながら、
水害にやられた部屋の中を想像する。
床上浸水は、とにかく「水がひくのを待つ」のがスタートだ。

地面のみえない風景を見ては、「天」がもたらす自然現象を
ただ受け止めるしかないが・・・
暴動が続いた最近の情勢の中で、久しぶりに「暴動がない国」を
あらためて知り、共感を感じずにはいられなかった。

祈りの気持ちを、タイに向けておくりたい。



気を遣うメール送信時間

2011年10月08日 | 仕事 -

ちまたは休日のようだが・・・
まだまだ仕事が続く。



最近は、早朝や夜中に「仕事のメール」を書くと・・・
嫌味をちくっと言われる。
多くの人が、携帯電話に、メールを転送しているからだ。

「メールの時間が、いつも早いんですもん」
多忙なビジネスウーマンなどは、つい朝寝坊したい時、
ケータイメールで起こされるのが不快なのだろう。 



今や、ケータイは、日々のスケジュール管理から、
目覚まし時計から、すべての機能を果たすツールとなった。

ひと昔前は、好きな時間に送れるのがメールだったから、
それが便利だと思われていたのに・・・
今は電話のように、送る時間にも気を遣わないといけないとは、
果たして、便利なのか・・・そうではないのか・・・。

なんともはや、「情報化社会」というものは、
本当に忙しない。



海外とのテレビ電話なども、安価で、便利で、機能的で・・・
だからこそ、自宅にいても、「自由がない」のは、
もうひとつ居心地が悪い側面も否めない。
機能を使って、しっかりと居留守を使わないと、時間を気にせず
呼び出されてしまう・・・からだ。



スティーブ・ジョブズ

2011年10月07日 | 人物 -

10月5日(米時間)早くに・・・
アップル前最高経営責任者(CEO)のスティーブ・ジョブズ氏が逝った。


独創的で、頑固者で、個性的で、こだわりを貫き通した天才!

生い立ちから始まり、彼の「人生」の流れゆく現実そのものが、
全てストーリーのような人だった。

そして、いつの時も、諦めることなく、挑戦を続けた。
それだけではなく、必ず、結果を残していった“稀なる人”でもあった。


会社は、彼のアイデアと行動力のたまものにより、(短時間で)大きな成長を遂げ、
誰もが、彼の動向と、次なる戦略に注目しては、事あるごとに話題にした・・・。
人々の生活や価値観とライフスタイルを変えるほどのアプローチをしたからこそ、
世界中の経済市場に大きな影響を与え続けたのだ。


人々は、さらなる彼のビジョンを知りたがり、興味を抱いた・・・。
彼のアイデアだけではなく、その源に好奇心をあらわにしたほどの・・・
実績と足跡を残した人だった。

56歳という若さが、その偉大さを感じさせると同様に、
皆が「早過ぎる死」を惜しんだ。



素顔の彼は、ヨガや仏教にも好奇心を示し、日本食をこよなく愛したそうだ。
実際、「変わりモノ」だったようだし、周囲の人々とも衝突が絶えなかったみたいだ。
けれど、ある実績を残した類まれなる天才は、フツーの人ではないことが多い。

ゆるぎない“確固たる柱のようなもの”が、す~っと通っているように感じるのは、
彼自身の「拘り」か、あるいは「信念」か、それとも、「生き様」からだろうか。




ジョブズ氏の伝説のスピーチには、その雰囲気が強く伝わってくる話が満載である。
聴きごたえのある、あまりにも素晴らしい三つのストーリー。
  (1)「点と点をつなげること」
  (2)「愛と喪失」
  (3)「死」

   ●スティーブ・ジョブス氏 伝説のスピーチ



スタンフォード大学での卒業式に招かれた時の演説だ。
2005年6月の映像で、覇気にあふれた元気な姿で、未来への希望を語っている。

 「貪欲であれ」 「愚か者であれ」



目に見えない「力関係」

2011年10月06日 | 仕事 -


人は、いつも集合体の中で、生きていることが多い。
コミュニティ、家庭、学校、会社、など・・・。

その中に存在する“目に見えない力関係”には、
時々、閉口することも少なくはない。

巨大な力(パワー)の前では、自分の非力さを思い知り、
現実を受け入れるしかないことがあり・・・
それはまた、自分のプライドを度外視してまでも
甘受しなければいけないこともある。

人によれば・・・
そういう現実が、日々の中で「日常化」してしまって、
無理のない「折り合いの付け方」を体得していることも・・・。
そういう人は・・・(本人が違和感を感じていないようでも)
周囲からすると「大変だなぁ」と感じ取ることもある。

いろいろな形態と、いろいろな影響で、
集合体の中での「力関係」は、さらなる進化を遂げていく・・・。



一人で、たんたんと生きている私にしてみれば、
より冷静に感じられることがあって、そういう埋没した関係に
不可思議な感覚を抱く人々の存在や感情にさえも、ただ単純に
ありのままを受け容れ、拒否反応を抱くこともない。

複雑に折り合って、様々な感情も混ざり合って、
「それでも上手く起動していればいいのだろう」と、短絡的に
現状を感じ取っている。


しかし、巨大化した集合体の中では、「取り込み作業」も
行われていることがあり、それに関する変化には、誰よりも
敏感になっている自分を感じる。

人間の手によって、“何か”を加えない限り・・・・
自然に「強く、大きな力をもつモノが、小さなモノを取り込む」し、
時間がたってしまうと、小さなモノの存在した事実さえもが、
完全に消え去ってしまう時が・・・・いつか来てしまうのだ。


雄大な自然のサイクルもしかり。
田舎の家庭菜園でも、そうだ。 野菜を植えたとしても、
雑草を駆除しなければ、土地の養分は野菜にいくことなく、
ぐんぐんと伸びていく雑草に吸い取られてしまう。
地球上のあらゆる生命が抱える宿命のようなものだろう。
淘汰された命が、さらに生き残るためには・・・・
自分を変えて、環境に適応していくことが必要だ。
さらには、種を絶やさず、努力していくことも・・・。


人類には、記録して、次世代に伝える能力がある。
歴史から学び取る事例があるように、日々の行為や事実にも全て
起承転結は存在するのだ。

大きな力に取り込まれる前に、
まずは熟考して、知恵を働かせ、自分を喪失させないための
姿勢を確立することこそ、第一歩の進展ではないだろうか。


現代社会に存在する「大きな力関係」を変えることはできない。
だからこそ、せめて、その事実を見極めて、「知」の限りを
つくすような人生を送りたいものである。



出勤前、一つの感慨

2011年10月04日 | 出来事 -

今日は、早朝からまぶしい日差しが射し込んでいたので、
布団の他、秋冬物の衣装をつるしていた。
壮観な光景だった。

服の・・・おもなる色は、「黒」が多くて・・・
そこに鮮やかなテキスタイルデザインの服が並ぶ。
もともと原色やデザイン性のある柄物が好きなのだが・・・
経済的な理由や、使い回しの観点から、ずっと
黒い服を定番としてきた。
若い頃は、黒い服がおしゃれにうつった時期もあったし・・・ネ。


「なるほどね」と感じながら、自分の服たちを眺め、
少し前の“ある出来事”を思いだした。
それは、ある自称セラピストが「黒い服ばかり来ている人は・・・」
と言い放ち、私を分析に走ったことだった。
もちろん、完全無視をしたが、好きな傾向はあろうとも、
たったそれだけの情報(服の色)で・・・
「私の全てを理解したかのような“したり顔”は止めてほしい」と
思ったものである。
特に、私の場合は、経済的な理由から“長く着れる定番”を選び、
それを着ていただけだから・・・(好きで着てる服でもなし)・・・
余計にそう感じたのだろう。

自称セラピストの中には、本当に“うさんくさい人”がいる。
占いや、カードと一緒で、ある見解を持ってのぞまないと・・・。
しかし、それを信じて、傾倒したり、依存したりする人が多い昨今、
本当に「たくさんの人が“自分”を喪失している」と感じてしまう。

大事なのは、決めつけられることに対する拒否反応があることだが、
そのことが正論だと感じて、引っ張られる人が問題ではないだろうか。
一種のマインドコントロールのようなものである。
一時期の自己啓発セミナーにはまって抜けられない人のように・・・。

私は、占いやカードを否定しているのではなく、ある一つのサポートの
素材として使うことには、何ら異論はない。
娯楽として、楽しむのも、悪くないと思っている。
要は、その「使い方」と、相手に対する「対応の仕方」が問題なのだ。
また、誰もが「セラピスト」になれる社会構造にも問題がある。
肩書きに弱い日本人にとっては、本当によくないとも思うからだ。
ドイツのように、決定的な資格制度が成り立っているわけでもない。


だまされず、おどらされず、
ちゃんと、自分の足で立って、自分の意思で決定していこう。

並んだ黒い服を見て、また・・・そんなたわいのないことを感じた。