人気のない処置室のベッドに横たわっていた。
背中合わせの診察室も、いまのところ静かなものだった。当直医も看護師もそれぞれの任務に就いているのだろう。
満男が居るこの部屋は、淡い明かりが点けられたままだった。
入院病棟ではないから、九時の消灯といったアナウンスはない。
あわててカーテンを引きテレビの音を絞るといった、大部屋特有の雑然とした雰囲気もなかった。
点滴の輸液が、せせらぎのように体内をめぐっている。
アルコールで興奮した血液を鎮め、ついでに、さまざまな人間と渡り合って乱された心を、浄化してくれているのが感じられた。
点滴を始めて三十分も経たないうちに頭痛が消えた。口の中の腫れも引いているようだ。
閉じかけた目蓋の隙間から、まだ夜の森が見えた。
看護師に頼んで、下ろしてあったブラインドを少し上げてもらった成果だった。
「森がきれいですね・・・・」
「えっ?」
酔っ払って殴られ、怪我をして運ばれてきた患者が、夜の森をきれいだなどと言ったことに驚いたのかもしれない。
「あの暗闇には、いろんな動物が潜んでいるんでしょうね・・・・」
どうやら問いかけの中に、この男なりの心境が反映されているらしいと判断したのか、ベテラン看護師は満男に優しげな目を向けた。
「イノシシとかカモシカなんかも居るそうよ・・・・」
「そうなんだ・・・・」
満男はうれしそうに頷いた。
短いやり取りだったが、自分を普通の患者として見てくれ、心が通じたことで満足したのだ。
心地よい安らぎを感じながら、それまで必死に支えていた目蓋を、ついに閉じ合わせた。
会話は夢の中で続いていた。
「・・・・ふくろうがホー、ホーと鳴いたりして」
満男は、子供のころカスミ網に引っかかって大暴れしたフクロウの恐ろしい姿を思い出していた。
同時に、目に見えない網に捕えられたフクロウの側の恐怖も、わが身に置き換えて味わった。
「ムササビが飛ぶのなら見たことあるわ・・・・」
看護師の声が上空から降ってきた。
「へえ、ほんとうですか?」
満男は夢の中で、事象を越えた暗示を受け取っていた。
「・・・・大きな木から木へ、小さな座布団みたいに飛んだのよ」
森の木の上に満月が顔を覗かせていた。
「この世のものではないみたいですね」
「うーん、ていうか魔法を見せられたような気持ちだったわ」
二人の気持ちが同調しかけていた。
「ぼくも見てみたいな」
満男は看護師に微笑み返した。
いつの間にか、月明かりが白い建物を包んでいた。
ベッドに居て全体像が見えるはずはないのだが、救急車で運ばれてきたとき目にした風景の記憶が、眠りの中まで浸入していたのかもしれない。
(おふくろの居た病院も白かった・・・・)
またも、幼い彼をエレベーターホールまで送って来た母親の姿が目に浮かんだ。逆光の中、振り返り振りかえりして去っていった母親の悲しみが、満ち潮のように水位を上げてきた。
一夜明けて、満男はいまパトカーの中に居た。
彼を殴って逃げた男は、自ら出頭してきたようだった。
もみ合ったのは事実だが、正当な料金請求に対して一円も払おうとしないから力ずくで取り立てようとしただけだ、と主張しているらしかった。行き過ぎたかもしれないと、反省の弁をまじえながら・・・・。
双方の訴えが違ったからか、警察は昨夜の事件の状況を詳しく調べるようであった。
店の経営者でもある年増の姉と妹、それに美鈴の供述も取って、昨夜の出来事を検証するような口ぶりであった。
そんなわけで、満男はいそいそとパトカーに乗り込んだ。
彼がクルマを預けた草津の駐車場までは、病院から戻るだけでもかなりの時間が掛かりそうだったので、パトカーが迎えに来てくれたのは渡りに舟だった。
(ついてる、ついてる・・・・)
昨夜からの展開は、一見窮地に陥ったように見えて、その実きわどい逆転劇が演じられている。
パブの乱暴者もお灸を据えられるだろうし、医師からもらった診断書で慰謝料も取れるはずだ。
したたかなママも、満男から財布を取り上げた行為は咎められて然るべきだし、これまでの阿漕な商売も摘発される可能性があった。
唯一、美鈴の立場が心配だったが、たまたま同席しただけの客を装っていれば、何の問題もないだろうと思われた。
連絡しづらかった会社への報告も、昨夜のうちに警察と病院から電話がいっているはずだった。
どんな反応か気になるところではあったが、二つの権威ある機関が係わっているからには、表立って非難するわけにもいくまいと考えた。
一番痛快なのは、誰もが恐れ敬遠する警察を、あれこれ都合よく使いまわしていることだった。
西吾妻福祉病院を出たパトカーは、国道292号線をいきなり右折した。
「ええっ?」
左へ曲がって草津町方面へ向かうものと思い込んでいた朝香満男は、驚きの声をあげた。「・・・・現場に行くんじゃないのですか」
「いや、本署で事情を聞かせていただきます」
不満であったが、ここは相手のいうとおりにするしかなかった。
坂を下りきってガソリンスタンドを右手に見る交差点を左折すると、間もなく警察署入口を示す信号機が現われる。
信号を見落とさない限り、ここがこの町の警察署なのだと分かる工夫がしてあった。
狭い入口をキュキュッと音たてて駆け上ると、昔からの宿場町に似合った旧式の建物が目の前に立っていた。
満男は丁重に迎えられたが、仕切られた部屋に入ると、昨夜の一部始終を細かく説明させられた。
一人が聞き役で、もう一人が話の要点をメモしていた。
満男は、殴られたときのこと、財布を取り上げられた前後のことを、特に強調して申し立てた。
「相手の男は捕まえてあるんですか」
「自首して来ましたから、事情聴取しています」
「あの店のやり方は?」
「それも経営者を呼んで聞きますよ」
そうか、ちゃんとやってるんだなと安堵した。
「ところで、こういうケースでは示談という解決法もあるんですが・・・・」
別に勧めるわけではなく、ひと通り知識として知らせておくといった口ぶりで、係官が言葉を濁した。
たしかに立件したところで、大した罪にはならないだろう。
労多くして効少なし。手薄な警察署としては、重大事件への捜査集中に努めたいと思うのが当然だろうと憶測した。
「診断書を付けて告訴するつもりです」
収まらない気持ちを放置することはできなかった。
「そうですか」
係官はそろって退出した。
次はどういう展開になるのか。満男は浮かない顔をして待っていた。
しばらくして別の係官が現われた。
「朝香さん、このあと軽井沢署の方で面会したいとの連絡が入っておりますが、よろしいでしょうか」
「・・・・」
意表を衝かれて、言葉に詰まった。「・・・・しかし、ボクは草津の駐車場までクルマを取りに行かないとまずいんですが」
声が裏返っていた。
「ああ、それなら会社の人が、今朝取りに向かったそうです。まだ、お伝えしてなかったでしょうか」
目の前で、何かが崩れた。
してやったりと思っていた展開が、思惑に反してずれ始めたのが分かった。
六月に入って、冴えない梅雨空の日が続いていた。
二、三日、中休みと呼ばれる好天の日があったが、今日はまた鬱陶しい空模様に戻って、午後には降り出すかも知れないと病院のテレビが予報を流していた。
そんな中、満男は軽井沢に移送され、彼を待つ本署係官に引き渡された。
「ご足労おかけします」
昨日、パトカーの中で彼の相手をした年配の警官が、固い表情で声を掛けた。立場上、立会いを申し付けられたといった感じであった。
出頭をお願いするかもしれないからと、携帯電話の番号を手帳に控えていった昨日の今日だ。
まさか、これほど早く満男の顔を見ることになるとは思っていなかったに違いない。
直接尋問した男が、別のトラブルにかかわって近辺に留まっていたこと自体、意外であり、不快でもあるといった表情をしていた。
「朝香さん、会社の方へは連絡をとったんですか」
椅子に座る早々、新手の取調官が容赦ない質問をしてきた。
ハッとしたのは、億劫な気持ちで報告を怠っていたことの結果が、にわかに心配になったからだ。
「商談中・・・・」と電話したきり、あとの連絡を人任せにしておいた横着さを、非難されても仕方がないことと気づいたのだ。
まして、集金した現金をコルセットの下に挟んだままなのだ。
全額ならまだしも、一部は消費してまだ補填もしていない。
勤務のあと草津で飲食し、事件に巻き込まれて無理やり支払わされたのだと訴えても、会社に対する申し開きには成り得なかった。
満男の方から連絡しなかったから、会社は独自の判断で営業車を引き取りに来た。それは当然のことだ・・・・。
先刻そのことを告げられ愕然としたのは、深く思い及ばないまま重大な事柄を放置した自分の迂闊さに対してだった。
(オレはすでに会社から見放されている・・・・)
シマッタと思う心細さに胸がかきむしられた。
「・・・・昨夜、電話をしましたが、そのあとは騒ぎに巻き込まれて」
「そうでしょう。警察から連絡があったきりで、本人からは今朝になっても電話一本ないので、いろいろ心配していると言ってましたよ」
落ち込んだ気持ちに、追い討ちをかけるような物言いだった。
「ところで朝香さん、軽井沢から下仁田へは普段どのようなルートを使って行かれますか」
「えっ?」
再び意表をつく質問が寄せられた。
追及する雰囲気ではなく、じわっと忍び寄る投網打ちの影のような迫り方だった。
「ボクは、磯部温泉郷を通って、富岡から下仁田にぬけますが・・・・」
「遠まわりじゃないですか」
「いえ、国道254号線に出るのが一番早い気がしますので」
「そうですか」
係官は、パソコンからプリント・アウトしてきた地図らしきものを膝の上に広げていた。「・・・・あまり、他のルートを利用することはないんですかね」
妙に道路に執着した問いかけだった。
満男の眼裏で、赤い回転灯が点滅した。急に蒸し暑さを感じて、ふーっと息を吐いた。
「妙義山のあたりを巻いて行く道があるようですが、くねくねと蛇行していて時間も燃費も掛かりそうなので、使ったことはありませんね」
なおも赤色灯が点り続けていた。
係官は、満男の反応を窺いながら、忘れている記憶を呼び覚まそうとするかのように丁寧な質問を繰り返した。
「ところで朝香さん、最近奥さんのところへは行ってないですよね?」
「ああ・・・・」
苦い記憶が、唾となって口の中に満ちた。「・・・・裁判所に止められていますから、近づけませんよ」
妻がなぜ彼のもとを飛び出していったのか、何回も電話をかけたが居留守を使い続けられ、仕方なく理由を訊こうと実家に押しかけた。
大声で威嚇し、それでも拒絶する両親に業を煮やしてガラス戸を蹴破ったのが、ストーカー防止条例を発動される発端になっていた。
頭に血が上った時期も過ぎ、もう何年も記憶の隅に押し込めていた。
それなのに、微風が頬を撫でるようなさりげなさで心の棘に触れていったのは、どういう魂胆だったのか。
「会社をクビになるのは嫌ですから、二度と近づきませんよ」
万が一、禁止を破ったと認定されれば、罰金を科せられる惧れもある。
人一倍販売成績がいいから大きな顔をしていられるが、再び問題を起こせば世慣れた社長も彼に見切りをつけるかもしれなかった。
(ああ・・・・)
またも自分の迂闊さが悔やまれた。電話一本を怠ったばかりに、過去に埋没していた出来事まで暴かれようとしている。
「朝香さん、あなた妙義荒船林道というのを知ってますか」
満男はじっと顔を覗き込まれるのを意識した。
(続く)
背中合わせの診察室も、いまのところ静かなものだった。当直医も看護師もそれぞれの任務に就いているのだろう。
満男が居るこの部屋は、淡い明かりが点けられたままだった。
入院病棟ではないから、九時の消灯といったアナウンスはない。
あわててカーテンを引きテレビの音を絞るといった、大部屋特有の雑然とした雰囲気もなかった。
点滴の輸液が、せせらぎのように体内をめぐっている。
アルコールで興奮した血液を鎮め、ついでに、さまざまな人間と渡り合って乱された心を、浄化してくれているのが感じられた。
点滴を始めて三十分も経たないうちに頭痛が消えた。口の中の腫れも引いているようだ。
閉じかけた目蓋の隙間から、まだ夜の森が見えた。
看護師に頼んで、下ろしてあったブラインドを少し上げてもらった成果だった。
「森がきれいですね・・・・」
「えっ?」
酔っ払って殴られ、怪我をして運ばれてきた患者が、夜の森をきれいだなどと言ったことに驚いたのかもしれない。
「あの暗闇には、いろんな動物が潜んでいるんでしょうね・・・・」
どうやら問いかけの中に、この男なりの心境が反映されているらしいと判断したのか、ベテラン看護師は満男に優しげな目を向けた。
「イノシシとかカモシカなんかも居るそうよ・・・・」
「そうなんだ・・・・」
満男はうれしそうに頷いた。
短いやり取りだったが、自分を普通の患者として見てくれ、心が通じたことで満足したのだ。
心地よい安らぎを感じながら、それまで必死に支えていた目蓋を、ついに閉じ合わせた。
会話は夢の中で続いていた。
「・・・・ふくろうがホー、ホーと鳴いたりして」
満男は、子供のころカスミ網に引っかかって大暴れしたフクロウの恐ろしい姿を思い出していた。
同時に、目に見えない網に捕えられたフクロウの側の恐怖も、わが身に置き換えて味わった。
「ムササビが飛ぶのなら見たことあるわ・・・・」
看護師の声が上空から降ってきた。
「へえ、ほんとうですか?」
満男は夢の中で、事象を越えた暗示を受け取っていた。
「・・・・大きな木から木へ、小さな座布団みたいに飛んだのよ」
森の木の上に満月が顔を覗かせていた。
「この世のものではないみたいですね」
「うーん、ていうか魔法を見せられたような気持ちだったわ」
二人の気持ちが同調しかけていた。
「ぼくも見てみたいな」
満男は看護師に微笑み返した。
いつの間にか、月明かりが白い建物を包んでいた。
ベッドに居て全体像が見えるはずはないのだが、救急車で運ばれてきたとき目にした風景の記憶が、眠りの中まで浸入していたのかもしれない。
(おふくろの居た病院も白かった・・・・)
またも、幼い彼をエレベーターホールまで送って来た母親の姿が目に浮かんだ。逆光の中、振り返り振りかえりして去っていった母親の悲しみが、満ち潮のように水位を上げてきた。
一夜明けて、満男はいまパトカーの中に居た。
彼を殴って逃げた男は、自ら出頭してきたようだった。
もみ合ったのは事実だが、正当な料金請求に対して一円も払おうとしないから力ずくで取り立てようとしただけだ、と主張しているらしかった。行き過ぎたかもしれないと、反省の弁をまじえながら・・・・。
双方の訴えが違ったからか、警察は昨夜の事件の状況を詳しく調べるようであった。
店の経営者でもある年増の姉と妹、それに美鈴の供述も取って、昨夜の出来事を検証するような口ぶりであった。
そんなわけで、満男はいそいそとパトカーに乗り込んだ。
彼がクルマを預けた草津の駐車場までは、病院から戻るだけでもかなりの時間が掛かりそうだったので、パトカーが迎えに来てくれたのは渡りに舟だった。
(ついてる、ついてる・・・・)
昨夜からの展開は、一見窮地に陥ったように見えて、その実きわどい逆転劇が演じられている。
パブの乱暴者もお灸を据えられるだろうし、医師からもらった診断書で慰謝料も取れるはずだ。
したたかなママも、満男から財布を取り上げた行為は咎められて然るべきだし、これまでの阿漕な商売も摘発される可能性があった。
唯一、美鈴の立場が心配だったが、たまたま同席しただけの客を装っていれば、何の問題もないだろうと思われた。
連絡しづらかった会社への報告も、昨夜のうちに警察と病院から電話がいっているはずだった。
どんな反応か気になるところではあったが、二つの権威ある機関が係わっているからには、表立って非難するわけにもいくまいと考えた。
一番痛快なのは、誰もが恐れ敬遠する警察を、あれこれ都合よく使いまわしていることだった。
西吾妻福祉病院を出たパトカーは、国道292号線をいきなり右折した。
「ええっ?」
左へ曲がって草津町方面へ向かうものと思い込んでいた朝香満男は、驚きの声をあげた。「・・・・現場に行くんじゃないのですか」
「いや、本署で事情を聞かせていただきます」
不満であったが、ここは相手のいうとおりにするしかなかった。
坂を下りきってガソリンスタンドを右手に見る交差点を左折すると、間もなく警察署入口を示す信号機が現われる。
信号を見落とさない限り、ここがこの町の警察署なのだと分かる工夫がしてあった。
狭い入口をキュキュッと音たてて駆け上ると、昔からの宿場町に似合った旧式の建物が目の前に立っていた。
満男は丁重に迎えられたが、仕切られた部屋に入ると、昨夜の一部始終を細かく説明させられた。
一人が聞き役で、もう一人が話の要点をメモしていた。
満男は、殴られたときのこと、財布を取り上げられた前後のことを、特に強調して申し立てた。
「相手の男は捕まえてあるんですか」
「自首して来ましたから、事情聴取しています」
「あの店のやり方は?」
「それも経営者を呼んで聞きますよ」
そうか、ちゃんとやってるんだなと安堵した。
「ところで、こういうケースでは示談という解決法もあるんですが・・・・」
別に勧めるわけではなく、ひと通り知識として知らせておくといった口ぶりで、係官が言葉を濁した。
たしかに立件したところで、大した罪にはならないだろう。
労多くして効少なし。手薄な警察署としては、重大事件への捜査集中に努めたいと思うのが当然だろうと憶測した。
「診断書を付けて告訴するつもりです」
収まらない気持ちを放置することはできなかった。
「そうですか」
係官はそろって退出した。
次はどういう展開になるのか。満男は浮かない顔をして待っていた。
しばらくして別の係官が現われた。
「朝香さん、このあと軽井沢署の方で面会したいとの連絡が入っておりますが、よろしいでしょうか」
「・・・・」
意表を衝かれて、言葉に詰まった。「・・・・しかし、ボクは草津の駐車場までクルマを取りに行かないとまずいんですが」
声が裏返っていた。
「ああ、それなら会社の人が、今朝取りに向かったそうです。まだ、お伝えしてなかったでしょうか」
目の前で、何かが崩れた。
してやったりと思っていた展開が、思惑に反してずれ始めたのが分かった。
六月に入って、冴えない梅雨空の日が続いていた。
二、三日、中休みと呼ばれる好天の日があったが、今日はまた鬱陶しい空模様に戻って、午後には降り出すかも知れないと病院のテレビが予報を流していた。
そんな中、満男は軽井沢に移送され、彼を待つ本署係官に引き渡された。
「ご足労おかけします」
昨日、パトカーの中で彼の相手をした年配の警官が、固い表情で声を掛けた。立場上、立会いを申し付けられたといった感じであった。
出頭をお願いするかもしれないからと、携帯電話の番号を手帳に控えていった昨日の今日だ。
まさか、これほど早く満男の顔を見ることになるとは思っていなかったに違いない。
直接尋問した男が、別のトラブルにかかわって近辺に留まっていたこと自体、意外であり、不快でもあるといった表情をしていた。
「朝香さん、会社の方へは連絡をとったんですか」
椅子に座る早々、新手の取調官が容赦ない質問をしてきた。
ハッとしたのは、億劫な気持ちで報告を怠っていたことの結果が、にわかに心配になったからだ。
「商談中・・・・」と電話したきり、あとの連絡を人任せにしておいた横着さを、非難されても仕方がないことと気づいたのだ。
まして、集金した現金をコルセットの下に挟んだままなのだ。
全額ならまだしも、一部は消費してまだ補填もしていない。
勤務のあと草津で飲食し、事件に巻き込まれて無理やり支払わされたのだと訴えても、会社に対する申し開きには成り得なかった。
満男の方から連絡しなかったから、会社は独自の判断で営業車を引き取りに来た。それは当然のことだ・・・・。
先刻そのことを告げられ愕然としたのは、深く思い及ばないまま重大な事柄を放置した自分の迂闊さに対してだった。
(オレはすでに会社から見放されている・・・・)
シマッタと思う心細さに胸がかきむしられた。
「・・・・昨夜、電話をしましたが、そのあとは騒ぎに巻き込まれて」
「そうでしょう。警察から連絡があったきりで、本人からは今朝になっても電話一本ないので、いろいろ心配していると言ってましたよ」
落ち込んだ気持ちに、追い討ちをかけるような物言いだった。
「ところで朝香さん、軽井沢から下仁田へは普段どのようなルートを使って行かれますか」
「えっ?」
再び意表をつく質問が寄せられた。
追及する雰囲気ではなく、じわっと忍び寄る投網打ちの影のような迫り方だった。
「ボクは、磯部温泉郷を通って、富岡から下仁田にぬけますが・・・・」
「遠まわりじゃないですか」
「いえ、国道254号線に出るのが一番早い気がしますので」
「そうですか」
係官は、パソコンからプリント・アウトしてきた地図らしきものを膝の上に広げていた。「・・・・あまり、他のルートを利用することはないんですかね」
妙に道路に執着した問いかけだった。
満男の眼裏で、赤い回転灯が点滅した。急に蒸し暑さを感じて、ふーっと息を吐いた。
「妙義山のあたりを巻いて行く道があるようですが、くねくねと蛇行していて時間も燃費も掛かりそうなので、使ったことはありませんね」
なおも赤色灯が点り続けていた。
係官は、満男の反応を窺いながら、忘れている記憶を呼び覚まそうとするかのように丁寧な質問を繰り返した。
「ところで朝香さん、最近奥さんのところへは行ってないですよね?」
「ああ・・・・」
苦い記憶が、唾となって口の中に満ちた。「・・・・裁判所に止められていますから、近づけませんよ」
妻がなぜ彼のもとを飛び出していったのか、何回も電話をかけたが居留守を使い続けられ、仕方なく理由を訊こうと実家に押しかけた。
大声で威嚇し、それでも拒絶する両親に業を煮やしてガラス戸を蹴破ったのが、ストーカー防止条例を発動される発端になっていた。
頭に血が上った時期も過ぎ、もう何年も記憶の隅に押し込めていた。
それなのに、微風が頬を撫でるようなさりげなさで心の棘に触れていったのは、どういう魂胆だったのか。
「会社をクビになるのは嫌ですから、二度と近づきませんよ」
万が一、禁止を破ったと認定されれば、罰金を科せられる惧れもある。
人一倍販売成績がいいから大きな顔をしていられるが、再び問題を起こせば世慣れた社長も彼に見切りをつけるかもしれなかった。
(ああ・・・・)
またも自分の迂闊さが悔やまれた。電話一本を怠ったばかりに、過去に埋没していた出来事まで暴かれようとしている。
「朝香さん、あなた妙義荒船林道というのを知ってますか」
満男はじっと顔を覗き込まれるのを意識した。
(続く)
こういうのって書いているほうは、楽しいでしょうね、なんぞと思われます。一字一句にその跡がうかがわれますから。
そこへ降って湧いたようなモト妻の登場。満男さんの身辺はさらに複雑さを増していくようで、好奇心をさらに湧かせる仕組みになっていくようですね。
この小説、終わりはまだまだなんでしょうか。
楽しみにさせてもらいますよ。