どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

思い出の短編小説『水狂い』(Ⅲ)

2022-10-31 00:03:01 | 短編小説

 野風が死んだのは、黒四吟行から帰って二カ月後のことでした。

 力道山が刺されて大騒ぎをしていた最中でしたので、ことのほか印象に残っております。

 野風は自動車での長旅が堪えたものか、家に戻ってからはずっと臥せっておりましたが、しだいに体力が衰え気力も萎えて、終日うつらうつらと過ごしておりました。

 喉を通るものといえば、私がこしらえる重湯や葛湯、それに林檎のしぼり汁程度でした。

 近所の西松医院からもらってくる薬は、きちんと飲ませておりました。

 しかし、内臓の疲れというばかりで一向に回復する気配もなく、野風の衰弱は進む一方でした。

 そしていよいよ亡くなります一週間ほど前からは、眠りの合間によく魘されることがありました。

「水、みず・・・・」と求める声が主でしたが、とつぜん「おかあさま」と呻いて私をおどろかせたりしました。

 野風の口からそんな呼びかけが漏れますと、異様さのなかに現実離れした可笑しさが生じます。

 同時に、老いても母なのかと哀れさを覚え、ふと野風にとって母親は特別の存在であったことを思い出したのでした。

 野風が生まれ育ったのは、富山県の高岡だったと聞いております。

 父親は旅回りの浪曲師で、木賃宿に泊りながら土地の旦那衆の寄り合いに呼ばれたり、小学校の急ごしらえの演台で語ったりと、その日暮らしがやっとの生活でした。

 地方回りは人寄せの規模がさまざまで、看板一枚の片田舎もあれば、他の演物と相乗りの賑やかな舞台もたまにはあったようです。

 一方、母親は門付けも厭わぬ気丈な三味線弾きで、泣きの入った音と間が夫の芸を引き立てているとの評判でした。

 しかし、親子そろっての旅暮らしは非常な困難を伴いました。

 日々の生活や子供の将来をめぐって、悩めば悩むほど夫婦の溝は深まったようです。

 それでも、野風の物心がつくまでは一応の家族関係が成り立っていたらしく、宿や楽屋であれこれ遊んでもらった記憶があると、私に説明してくれたこともありました。

 ところが野風が六歳になった春、母親が失踪してしまったのだそうです。

 声色の若い芸人と駆け落ちしたとかで、野風は里子に出され、庄川に近い山村で苦しい少年時代を送ることになりました。

 吟行の際、庄川の美しさをよく引き合いに出しましたのも、傷ついた子供の胸に自然の姿がことさら深く沁み入っていたことの証ではないかと思います。

 野風が人の世への思いをどのように形成していったのか知る由もありませんが、長じて東京に出奔し、謄写印刷の名手となって『デラシネ社』を興していく過程は、何かを念じるようなひたむきさに貫かれているように思います。

 軽印刷の分野は、ガリ版が下火になり今やタイプ孔版が主流になっておりますが、野風は時流をつかんで小規模ながらも活気のある印刷会社を造り上げていきました。

 その間、持ち込まれる同人誌の仕事で俳句の洗礼を受け、虚子の『ホトトギス』に入会、長年会員として作句活動をつづけておりました。

 後年ホトトギスを出て、自ら『石心』を発行、出入りの仲間を取り込んで組織を拡大していきました。

 私が野風を知りましたのもその頃で、事業も結社も作品活動もすべてが上り坂にあって、中央俳壇においても彼の動向はけっこう注目されるようになっておりました。

 しかし、そうした隆盛の陰で、仲間内では彼の独り身があれこれ噂されていたことも事実です。

 忙しさに紛れて婚期を逸したとか、実は女嫌いなのだとかさまざまでしたが、本当のところは誰にも分かりませんでした。

 野風はついに結婚することなく一生を終えました。

 彼の胸中には、母親への思慕と不信が激しく渦巻いていたのではないかと想像するばかりです。

 それが病床での呻くような呼びかけになったものと思われるのです。

 ともあれ、野風は今はの際まで水を求めながら息を引き取りました。

 私は彼が使いつづけた井戸水で唇を湿してやり、去来する十数年のかかわりを反芻しておりました。

 傍らで野風の脈を採っていた西松医師が、「ご臨終です」と重々しく宣し、白い指で瞼を閉じました。

 しばらく死顔を眺めておりましたのは、死者を悼む自然の感情なのでしょう。私から見ても心の落ち着く仕種に思われました。

「永い間お世話になりました」

 いくら近所とはいえ、しばしば往診をお願いした西松医師に、心からお礼を述べました。

「惜しい方を失くしましたね」

「ほんとうに残念です」

「これで、わたしも往診をするような方は一人も居なくなりました」

 眼鏡の奥で、睫毛が動いたように見えました。

 隣近所の気安さからか、職業上のたしなみを超えて感情をあらわしてくれた西松医師に対し、私は妙な面映ゆさを感じておりました。

 本来なら野風の家族か親類縁者の誰かが死水を取るべきなのですが、父親はとうに病没、母親は駆け落ちの芸人とも別れて行方知らずのまま、兄弟もなく、遠い血縁の者とは他人よりも遥かな関係になっており、強いて関わりを捜せば、野風が育てられた里親ぐらいのものでした。

 しかし、里親も年齢から考えて存命とは思えませんでしたし、仮に生きていたとしても野風が望んだものかどうか、出奔という経緯から考えても疑問に思われました。

 こうした事情から、身近で仕えた私が葬儀いっさいを取り仕切ることになりました。

 もちろん、私の行為を出過ぎていると不満を持つ者もおり、『石心』に拠る同人の一部からは、口さがない中傷がなされたとも聞いております。

 野風の正式の遺書がみつかり、意外にも私にすべての財産が遺されておりました。

 デラシネ社の店舗兼住宅と、若干の預金、株券などがありました。

 こうした成り行きは、野風同様身寄りもなく人生に確固たる当てもなかった私の立場を強くしてくれたものの、別の妬みを呼びおこしたようです。

 私の耳にもあれこれ届いてきましたが、私にはまだやらなければならないこともあり、なるべく頓着しないようにしておりました。

 野風の遺言は、彼の骨灰を庄川に流すことを命じておりました。

 私は葬儀の後片付けが済みますと、ただちに骨壷を抱いて高岡に向かいました。

 真冬にしては暖かい一日で、庄川をさかのぼる船に吹き付ける風も、身に堪えるほどではありませんでした。

 切り立った崖が険しく迫ってくるあたりで、私は誰にも気づかれないように壺の蓋を開けました。

 灰は風に攫われて川面に散りました。

 清流がこともなげに呑みこみます。

 野風はついに庄川に還ったのです。

 どれほど庄川を見たかったか、どれほどこの川の水を飲みたかったかと、野風の渇きを思って胸を熱くしました。

 いつでも来られる場所にありながら、あと一足のところまで近づきながら、ついに訪れなかった頑なさの裏に、一生癒されなかったものの大きさが窺い知れるように思いました。


     (つづく)

 

(2012/11/29より再掲)

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